「なによあれ!? 馬が空を飛んでいるの!?」
パルテミラの陣営から、次々に叫び声が上がる。
「いや違うわ! だって鷹みたいな顔してるじゃない!」
「馬鹿ね。あれはどう見ても鷲でしょ!? どちらにしても化け物ね……」
目を凝らしてよく見ると、それは鷲のような頭と翼、馬の胴体を持った生き物だった。背中の上には人の姿も見える。
ローマ軍の陣頭に、馬を進める者があった。軍装からして、恐らくローマ側の指揮官だ。
「どうだ、驚いたかパルテミラの猿ども!」と、猿のような顔をしたその男は言った。「空飛ぶ騎兵――鷲獅子騎兵だ。魔峰ヴェシモス山の怪鳥と馬を交わらせて作ったんだぞ。すごいだろう!?」
へぇ、すごいすごい――オレは心の中で、奴の望む反応を示してやった。
いや、実際あの空飛ぶ魔獣にはビビったのだが……ローマめ、なかなかふざけた指揮官を送り込んできたものだ。こんな奴が指揮官で大丈夫なのか? オレが代わってやろうか?
ククク……という笑声が、『音響魔法』に乗って響いてきた。
「まるで玩具をもらってはしゃいでいる子供のようじゃな」それはゼノビアの声だった。「お主がローマ軍の最高指揮官マンティコラスか?」
「いかにも!」マンティコラスは馬上でふんぞり返った。「ゼノビアよ、よく聞け! ローマは敵対者を絶対に許さない。この戦に勝った暁には、そのギンギラギンの身ぐるみを剥いで、ローマ中を引き回してやるぞ!」
「上等じゃ。我々パルテミラも、侵略者を決して許しはしない。お主の方こそ覚悟せよ。必ず引っ捕まえて、身ぐるみ剥いで、テシオン市内を引き回してやるからな」
それは……やめた方がいいと思うぞ。
マンティコラスが興奮した様子でなにやらわめいたが、よく聞き取れなかった。にわかに鳴り響いた角笛の音が、すべての音を吞み込んだのだ。
いよいよ戦が始まる。マンティコラスがローマの軍列に逃げ込むよりも先に、前面に広く展開していた霊羊騎兵が、前進を始めた。
やや遅れて、ローマ軍の方でもラッパが吹き鳴らされた。
目玉のような紋様をした大盾を隙間なく並べて、重装歩兵が前進する。のそのそしているが、妙な圧迫感を与える前進だった。
霊羊騎兵の方から、矢が飛び立った。ローマ軍も槍を投げ返す。
続けて十本、百本、千本、万本……両軍から放たれる矢と槍は、一秒ごとに数を増し、やがて秋の実りを食らい尽くす蝗の群れのように、空を覆い尽くしてしまった。
* * *
「まだかまだか……」
愛馬のたてがみをいじくり回しながら、オレは射撃戦を見守っていた。
見たところ味方が圧倒的優勢なのだが、どうも落ち着かない。オレの心情を察してか、馬も鼻息が荒くなっている。
「落ち着け。まだ我々の出る幕ではない」
先頭に馬を立てたヴェルダアースが言った。
顔を覆い隠す黄金作りの兜をかぶっているのを、久しぶりに見る。敵として見えた時は不気味ですらあったが、今日はこの上なく頼もしい。
「霊羊騎兵の騎射で敵を弱らせてから、白兵戦で決定打を与える。そういう手筈になっている。今は味方を信じて待て」
不意に、鳥とも獣ともつかぬ奇怪な叫び声が、空から響いてきた。
鷲獅子騎兵だ。
射撃戦を繰り広げる敵味方の上空で、なにかを物色するように飛び回っている。
「なにしてんだ? あいつら」
「威嚇か、戦況を見守っているだけか……いずれにしても、あの数では大した脅威にはならぬだろう。見た目は派手だがな」
「うちの雷光騎兵と似たようなものか」
ざっと見たところ、鷲獅子騎兵の数は五十から七十程度。
空から攻撃されるとなかなかウザいが、戦局を変えるほどの力はないように思えた。
だが、オレたちの予想は早くも裏切られることとなった。
一頭の鷲馬が、長い叫びを放って、旋回を始めた。
すると、各所に散らばっていた鷲獅子騎兵が続々と集まり、滝の流れるように急降下していった。
騎手の手には投槍。そしてすべての鷲獅子騎兵が、一点めがけて槍を投じた。
「!」
空中で披露された一斉攻撃はあまりにも鮮やかで、見る者の心と体を凍りつかせた。
「そうか……その手があったか……!」
うめくようにつぶやくヴェルダアース。それがオレをさらに不安にさせた。
「どうした!? その手ってなんだ!?」
オレも鷲獅子騎兵の動きに危険なものを感じ取っていたが、気が動転して、なにが起きているのかまるで分らなかった。教えてくれ、ヴェルダアース!
「奴らの狙いは指揮官だ! 空からなら、なんの妨害も受けることなく、直接指揮官を狙いにいける。そして指揮官一人だけを狙うならば、五十騎でも十分な戦力だ。このままではエクサトラがやられる!」
「!」
再び前線に目を向けると、鷲獅子騎兵がまた一斉攻撃を仕掛けているところだった。
霊羊騎兵の方も弓で反撃するが、空の敵に対してはあまり効果がなかった。攻撃しようと高度を下げた瞬間でなければ、ほとんど矢が届かない。エクサトラの姿は、こちらからは見えなかったが、捕捉されまいと動き回っていることだけはなんとなく分かった。
やがて斥候が鹿を飛ばして、ローマ軍両翼の騎兵が動き出したことを告げた。
「エクサトラは今、とても指揮を執れる状態ではない。我々が迎え撃つしかあるまい」
ヴェルダアースはすぐさま決断を下した。
「まずは右手の弱い騎兵を速攻で叩き潰す。左の軽騎兵は一旦霊羊騎兵に預けることとしよう。我々が援護に向かうまで、持ちこたえてくれればよいが……」
その時、前線から悲鳴のようなざわめきが聞こえてきた。
地上に向けて執拗に槍を投げつけていた鷲獅子騎兵が、高く舞い上がり、霊羊騎兵から離れていった。それは、彼らが目的を果たしたことを暗示していた。
「そんな……エクサトラ将軍……」
ヴェルダアースの部隊にも、衝撃が広がる。そして立ち直る暇もなく――
「こっちに来るわ!」
鷲獅子騎兵が、今度はこちらへ向かって飛んできたのだった。
「散開せよ!」
ヴェルダアースの号令で、パルテミラ重騎兵は四方に散らばった。
そこへ鷲獅子騎兵の投槍が降り注ぐ。だが、それは狙い定められたものではなく、散開していたこともあって、ほとんど被害は出なかったようだ。
鷲獅子騎兵は、そのままオレたちの頭上を飛び越えてしまった。
まさかゼノビアの本陣を……?
一瞬そう思ったが、奴らにまだその気はなかったようだ。
奴らが襲い掛かったのは、本陣の裏で待機していた駱駝部隊だった。駱駝には大量の矢が積まれている。ローマ軍は、一番厄介な霊羊騎兵の無力化を優先したようだった。
オレたちは、鷲獅子騎兵に射かけられて駱駝が炎上するのを見た。
「早く奴らをなんとかしなければ、軍が崩壊するぞ」
「……分かっている。だが、向こうから来ない限りはどうにもならぬ。今は手の届く敵を倒すことだけを考えろ」
ヴェルダアースは、もう駱駝を見てはいなかった。ただ地上の獲物に目を向けていた。
「作戦に変更はない。このままローマ騎兵を迎撃する。進め!」
霊羊騎兵は統制を失ってはいたが、まだ戦意までは失っていなかった。しかし、すでに矢は尽きかけ、駱駝から補充することも敵わず、ほとんど白兵戦を強いられていた。
ヴェルダアースの言った通り、ローマの騎兵は弱かった。笑っちまうくらい弱かった。弱いには違いなかったが、剣と剣であれば、霊羊騎兵に対して優位に戦うことができた。
今、女精の一人がローマ騎兵に剣を叩き落とされた。咄嗟に逃げようと手綱を引くが、ローマ騎兵は隙を与えず、武器も持たない罪なき女精の頭めがけて、剣を振り下ろす。
すんでのところで凶刃を防いだのが、このオレだった。
「女に剣を向けるとは……貴様、それでも男かぁ!」
そう怒号して、オレはその最低な男を斬り飛ばした。
「だってあいつが先に……」という男の遺言を無視して、さらなる敵を求めて突き進む。
今度の敵は三人。三方からオレを押し包むように迫ってくる。
オレは馬の速度を少しも緩めずに、まず一番右の奴に突進をかました。
そいつは転落して、よろめき倒れた馬の下敷きになってしまった。
うめき声と入れ違いに、雄叫びが上がった。一番弱そうな真ん中の奴が、馬を躍らせて襲い掛かって来たのだ。オレはたったの一撃でそいつの剣を跳ね飛ばすと、ぶらぶらになったその右手を引っ掴んで、残ったもう一人の方へぶん投げた。
ブッチューッ!
ぶつかった二人は、正面から抱き合ってチューしたまま地に転げ落ちた。
「おっと失礼」
オエッ、という断末魔の二重唱を聞きながら、オレはさらに突き進む。
槍を血染めにしたヴェルダアースが、オレに並んだ。
「指揮官を探し出せ! 鷲獅子騎兵が来る前に決着をつける!」
「おうよ!」
オレたちは二人で先頭に立って、敵勢の真っ只中に躍り込んだ。長槍の穂先を揃えた部下たちがあとに続く。
ヴェルダアースは侵略者に対して一切容赦がなかった。槍を一振りするたびに、彼女の周囲では血煙が起こり、首が舞い、人が空を飛んだ。技の駆け引きもなにもあったものじゃない。それはもはや死の暴風。人の手ではどうすることもできない災厄そのものだった。
オレの方も、ローマ軍相手に容赦する理由などどこにもなかった。カルデアの戦いで発揮し損ねた力を、存分に揮った。
パルテミラ最強の二人がここに揃っている。ローマ人の鋼の心も、木っ端微塵に打ち砕かれてしまったようだ。ローマ騎兵は秩序を失い、逃げ崩れてしまった。
そんな中でも、なお踏みとどまり、逃げる味方を呼び止める者があった。
「止まれぇ! 逃げるなぁ! 貴様ら、それでもローマ人かぁ!」
そいつがローマ騎兵の指揮官で間違いなさそうだった。
斬りかかる前に、オレはそいつに声をかけた。
「この状況で逃げ出さねぇとは、大した奴だ。名前を聞いておこうか」
が、途端にそいつは馬首を転じて、全力で逃げ出したのだった。
「ちょっと待て! 逃げるなぁ! 貴様、それでもローマ人かぁ!」
そう呼びかけるが、振り返る様子もない。あと、意外と逃げ足が速い。
オレは大慌てでそのあとを追った。剣を鞘に納め、弓に持ち替える。そして馬を疾走させたまま、弓を引き絞った。
―――馬体が宙に浮いて安定した瞬間を狙え……
スレイナに騎射を教えてもらった時の記憶が、鮮明に甦る。
遊びでやってみたかっただけなのに、熱の入った指導だった。おかげで、久々にやるのに外す気がしない。
ブスッ!
オレの放った矢は、敵の指揮官の馬の、美しい尻に命中した。
ああ……! そんなつもりじゃなかったのに……
だがそれで十分だった。かわいそうな馬は痛みで飛び上がり、騎手を鞍から放り出したのだった。落っこちた指揮官は起き上がる間もなく、駆けつけた重騎兵の槍で地面に縫い付けられた。
「よくやった」と、ヴェルダアース。「お前、意外と器用なところもあるのだな」
「意外とってなんだ、意外とって。オレが筋肉だけの男とでも思ったか?」
互いの労をねぎらう代わりに、オレたちは軽口を叩き合った。ヴェルダアースの、長い口髭の下から覗く唇が、微かに綻ぶ。だがそれも一瞬のことだった。
いくつもの動物が混ざりあったようなあの鳴き声が、オレたちの警戒心を呼び起こした。
「早いな……」
振り返るより先に、ヴェルダアースがつぶやいた。
澄み渡った青空に緩やかな弧を描きながら、鷲獅子騎兵がこちらへ向かっている。
千頭の駱駝を殺戮し尽くすにはまだ早い。オレたちの動きに気付いて、攻撃目標を切り替えたのだろうか。
「全軍散開せよ!」
部下たちは素早く指示に従った。
だがその隊形は、先程のような効果は示さなかった。空から投じられた五十本あまりの槍は、すべてヴェルダアースに向けられていたのだ。先頭に立って戦っていたことで、居場所がすぐに割れてしまったようだった。
「将軍!」
ガキ、ガキキン!
バキバキ、ベキキ!
ドドドドッ、ザクッ!
いくつもの種類のえげつない音が、一度に湧き起こった。
ヴェルダアースを知らない者であれば、土埃の先に凄惨な光景を覚悟したことだろう。
しかし、そこはやはりヴェルダアースだった。
馬体にも鎧にも傷一つ付いていない。降りかかってきた槍は、大きく外れたものを除いて、すべて槍で打ち払われていたのだ。
すげぇ……などと、感心している場合じゃなかった。
反撃するなら今しかない。オレは大慌てで矢をつがえ、ろくに狙いも定めずに空に向けて放った。だがすでに鷲獅子騎兵は高く舞い上がっていて、オレの矢は届きもしなかった。それどころか、途中で矢尻が向きを変え、ヴェルダアースの頭上に落ちかかったのだった。
矢を一瞥もせずにかわしたきり、ヴェルダアースはなにも言わなかったが、表情の見えない兜がこの時ばかりは恐ろしかった。
「どうする? オレたちじゃ、あの魔獣に反撃できないぜ」
「奴らの槍を投げ返す。私の力ならば届くはずだ」
ヴェルダアースは地面に突き立った投槍を引き抜いたが、その穂先を見て愕然としたようだった。落下の衝撃でひん曲がり、使い物にならなくなっていたのだ。
ローマ軍の投槍は、穂先が細く曲がりやすくなっている。それは盾から引き抜けなくするためでもあり、敵に槍を投げ返されないためでもある。
「……考えている暇はなさそうだな」
そうつぶやいて、ヴェルダアースは馬を走らせた。
鷲獅子騎兵が、狙いを定めるために降下を始めている。さすがのヴェルダアースも、動かぬ的になるつもりはないようだ。第二射は、動き回る的からほとんど外れていた。
飛んできた槍をことごとく叩き折ってから、ヴェルダアースは叫んだ。
「槍を我が手に!」
言われた通りに、オレは落ちた投槍を手当たり次第に拾いまくった。
そうか……ひん曲がった穂先を腕力で戻して使う気か! そうだろ、ヴェルダアース!
だが、オレが投槍を持っていく前に、ヴェルダアースは近くの部下から長槍を渡されていた。そして次の瞬間、舞い上がっていく鷲獅子騎兵に、それを投じたのだった。
「キョエエエエエェエ!」
それが最初に上がった、魔獣の悲鳴だった。
その声が切れるよりも前に、ヴェルダアースは次の槍を投じている。直後に人の悲鳴が混じった奇声が、魔獣の巨体もろとも空から降ってきた。
投げるには絶望的に向かない槍を、ヴェルダアースは次から次へと空に放つ。槍は太陽をも穿つような勢いで、面白いように空の敵に命中していく。恐るべき投擲力だった。
鷲獅子騎兵も第三射、四射と攻撃を繰り返すが、仲間の犠牲が増えるばかりで、しまいにはヴェルダアースが、飛んできた投槍を素手で掴み取って投げ返すというあり様だった。
ヴェルダアースが最後の槍を天国に送り込むまでに、二十騎を超える鷲獅子騎兵が討ち取られた。オレが張り切ってかき集めた投槍は、最後まで使われることがなかった。
攻撃能力を三分の二にまで減らされた鷲獅子騎兵は、ついに作戦を断念したようだった。
一匹がパオーンと鳴いて飛び去ると、他の鷲馬もあとに続く。
が、その飛んだ先がまずかった。
「なっ!? あいつら……!」
鷲獅子騎兵が向かった先はゼノビアの本陣。
この期に及んで駱駝を狙うなんてことはないだろう。奴らは残った戦力で、本陣に特攻を仕掛けるつもりらしかった。馬の脚では到底追いつけない。オレたちは、流星群のように本陣へ落ちていく鷲獅子騎兵を、見送ることしかできなかった。
ひん曲がった投槍の束を抱えたまま呆然とするオレに、ヴェルダアースは冷静に言った。
「問題ない。本陣の守りは鉄壁だ。陛下に槍は届かぬ」
ヴェルダアースの予想は、今度は外れなかった。
鷲獅子騎兵が歩兵部隊を飛び越えて、本陣の真上に来ようかという時のことだった。突然、幼精たちの歌声が聞こえてきたかと思うと、先頭を飛んでいた鷲馬が羽ばたくのをやめ、向こう側へ落ちていったのだった。後続も続々と制御を失い、落ちていく。
それは、怒りも憎しみも、恐れも不安も忘れさせるような、温かく心地よい歌声だった。
「『除魔の子守唄』――精霊の加護を受けぬ者が聞けば、たちどころに眠りに落ちる魔法だ。聖歌隊の輪の中に入ったのが、奴らの運の尽きだ」
かくして、大ローマ帝国の誇る鷲獅子騎兵は、みんな仲よく地に横たわったのだった。
* * *
鷲獅子騎兵が壊滅したことで、戦況は目に見えて好転した。
最初に変化が表れたのは霊羊騎兵だった。それまで統制を欠いていたように見えたのだが、突然角笛の音がしたかと思うと、左右に分裂して、ローマ軍を挟み込むような動きを見せた。直後にゼノビア率いる歩兵部隊も前進し、ローマの重装歩兵と衝突する。その背後から、襲撃を生き延びた駱駝部隊がのこのこやって来るのも見えた。
「急げ! あとはナバタイの騎兵さえ叩けば、勝利は間違いなしだ!」
ヴェルダアースを先頭に、オレたちの部隊はローマ軍の主力を回り込むように戦場を駆けた。士気は高く、無傷の者も多い。怖いものはなにもないはずだった。
だが、ローマ軍の後背を駆け抜けようとした時、怖いものが現れた。
「な……なんなの!? あの人たち!?」
なんと、人が馬と同じ速さで走っているではないか。
わっせい、わっせい、という掛け声とともに、一糸乱れぬ動きで走っているではないか。
鉄甲に覆われ、甲冑を着込んだ戦士を乗せているとあって、ヴェルダアースの部隊は騎兵としては遅い方だ。しかしそれでも、人に並ばれるほど遅くはない。ましてや、重装備という同じ条件で人間に並ばれるなんてことは……
オレの知る限り、それができる歩兵部隊はただ一つ。
「ホァーッ!」
黄金の兜、赤染のマント、筋肉の鎧を纏った男たちが盾を並べ、一斉に雄叫びを上げた。
驚いた馬が足を止める。
オレたちの前に立ち塞がったのは、そう……スパルタクスの重装歩兵だった。
スパルタ戦士たちは、大きな胸を張ってどっしりと構えていたが、オレの姿を認めるや、狼狽した様子で騒ぎ出した。
「ベテルギウス将軍! 生きてたんですか!?」
「そんなとこでなにやってるんすかぁ!?」
なんと言い返していいか分からず、オロオロするオレ。
ヴェルダアースたちも、オレを慮ってか、下手に動けずにいた。
そこへ、落雷のようなバカでかい声が轟いた。
「ベェテルギウスゥ! そぉおこにいたかぁあああ!」
巨大な剣を担いだ男が、スパルタ戦士の列の中から飛び出す。
顔を見なくても、誰だか分かった。
他のどの戦士よりも、オレの知るどの女よりも大きい、あの胸――
間違いない……あれは胸筋大魔王ソグナトゥス。かつてのオレの教官だ。
「戦で敗れたと聞いて心配していたというのに、これはどういうことだ!?」
怒号とともに、大剣を叩きつけるソグナトゥス。質問しておきながら、問答無用で叩き斬るつもりだ。オレは盾で受け流したが、その衝撃で馬もろとも横転してしまった。
歩兵にされてしまったオレは、立て続けに叩き込まれる大剣をよけながら叫んだ。
「待ってください! 違うんです! いや、違わないけど……決して任務を放棄して遊び呆けていたとか、そんなことは……」
「ならば剣を捨ててこっちへ来い!」
「できません!」
「ならば死ね! 将軍という責任ある立場にありながら祖国に仇なすとは、不義もいいところだ! 昔から手のかかる奴だったが、これほどまでに救いようのない奴だったとは思わなった。せめて儂が責任を持って、直々に引導を渡してくれるわ!」
大剣は長さ、幅ともに人ほどの大きさがあり、ソグナトゥスはそれを棒切れのように振り回す。まともに受ければ剣、盾、馬もろとも両断されてしまいそうだった。
オレが逃げ回るのを見かねたヴェルダアースが、槍を振るって助けに入る。
だが――
「外野は黙っておれ!」
たったの一合。ソグナトゥスが無造作に放った横薙ぎの攻撃を、ヴェルダアースは槍でまともに受けてしまった。馬上から吹き飛び、騎馬の列に激突する。
「覚悟はいいか、ベテルギウス!」
ソグナトゥスには、もうオレしか見えていないようだった。
怒りと失望の大剣が、一閃ごとに暴風を巻き起こす。ソグナトゥスの剣はこれまでも訓練で死ぬほど受けてきたが、今度こそ本当に死ぬかもしれない。オレは盾の丸みで大剣の刃を滑らせて、なんとかいなしていたが、それも長くは続かなかった。
盾は大剣の平で叩き壊され、剣も一発で砕け散った。
立ち尽くすところに、また横薙ぎの一撃がやって来る。オレは死を予期した。
その時――
ほんの一瞬、泣きじゃくるジェロブの姿が目に浮かんだ。
むろん、ジェロブが泣いているところなんて見たことがないから、それはオレの妄想に過ぎないのだが――
ともかく、それがオレを奮起させたのは確かだった。
考えるよりも先に体が動き、薙ぎ込まれた剣の上を飛び越える。四肢を使って着地し、その反動で素早くソグナトゥスの方に駆け出す。剣を振る時間は与えない。
だが次の瞬間には、オレの視界は目まぐるしく回転していた。
背中を地面にぶつけ、息が詰まりそうになる。上下逆さまになったソグナトゥスが、怒気を漲らせた顔で迫ってくる。
「うおおおおお!」
オレは右も左も分からないまま、その大胸筋めがけて突っ込んだ。
こんな奴に敵うはずがない。そう頭で分かっていても、背を向けて逃げ出すなんていう、無様な姿を見せるわけにはいかなかった。
オレは裏切り者だ。そう言われても仕方がない。だがスパルタクス人としての誇りを捨ててなんかいない。そのことを見せつけるかのように、あがいた。
あがいた末に、組み伏せられた。
味方の重騎兵が助けに入ろうとするが、スパルタ戦士が立ち塞がる。
ソグナトゥスは、うつ伏せでもがくオレの顔を覗き込み、静かに言った。
「……なぜ、そこまで必死になる?」
覗き込むソグナトゥスの眼差しは、恐ろしい戦士のものでも、鬼教官のものでもなく、あの時のような、深い愛情と熱意のこもった眼差しだった。
スパルタクス時代の、一つの思い出がある。
その頃は、いろいろと限界が来ていたのかもしれない。そもそも、心が折れない方がおかしかったんだ。戦で死ぬために生まれ、物心ついた頃には訓練所にぶち込まれ、まずい飯を食わされる日々……よく今まで耐えてきたものだ。
いくつかのきっかけが重なり、とうとうオレは訓練に行かなくなった。
そんなオレを、しつこく訓練所に引っ張り込もうとしたのが、ソグナトゥス先生だった。
その日、オレは親が留守なのをいいことに、サボり仲間を家に招いて遊んでいた。そして壁穴から覗く胸筋先生に気付いて、みんなで絶叫したものだった。
オレは日が暮れるまで町中を逃げ回ったが、胸筋はどこまでも追ってきた。
最後は林檎を踏みつけて転倒し、そのまま捕まってしまった。
「もう放っといてくださいよ。なんでそこまでしてオレのこと……好きなんですか?」
「お前には才能がある。ゆくゆくは、スパルタクス随一の戦士になるべき男だ。一人の教官として、才能ある若者が腐っていくのを黙って見ているわけにはいかぬ」
「………」
それからオレたちは、近くにあった神殿の階段に腰かけ、露店のおばさんからもらった林檎をかじりながら語り合った。
「あれから、母とは会っているのか?」
「いや、全然」
だいぶ前に、母は父の暴力に耐えかねて家を出ていて、オレは険悪な仲の父と血湧き肉躍る日々を送っていた。先生はそんなオレのことを、いつも気にかけていた。
「会ってやれ。きっと喜ぶ。ずっと会いたがっていたからな」
どの面下げて――そう言い返してやりたかったが、そこから言いくるめられそうな気がしたから、やめておいた。
母さんはいつだってオレの味方だったから、こんな落ちぶれたオレでも温かく迎えてくれるかもしれない。だが果たしてそれは、心からのものだろうか? オレはあの男の血を引いていて、大人になるにつれて身も心もそいつに近づいていくだろう。今の自分はもう、母が愛してくれた自分とは違うのだ。
「しかし……あれだけ小さかったお前も、もう十五か。時が経つのは早いものだな」
「そうですね」オレは適当に相槌を打った。「そしてオレもいつかは、先生みたいなムキムキしたむさ苦しいおっさんになっていくんすね」
ゴンッ!
オレの頭に愛の鉄槌を打ちつけてから、先生は言った。
「悪かったな、むさ苦しいおっさんで。まったく……言うようになったわ。あの素直で可愛いかったベテルギウスはどこへ行ったのやら」
「オレはもう子供じゃないんでね」
「そうだな。だが、大人でもない」
「………」
「大人になるのを恐れているように、儂には見えるのだがな」
やはり、先生はオレのことをよく見ていた。そして誰よりも的確に、オレの心を見抜いていた。オレは観念して、胸の内を明かしたのだった。
「オレは、みんなから愛される少年のままでいたかったんです。甘ったれたことを言ってるのは分かってる……けど、今までの自分じゃなくなるのかと思うと、嫌で嫌で……」
「!」
「みんな、前のようにはオレを見てくれないんです。ヌルポウス教官はやたらと鞭打ちしてくるし、先輩たちもやけによそよそしくなるし……」
それは、普通の人には理解しがたい感情だったのかもしれない。馬鹿にされるかもしれない。
でも、ソグナトゥス先生は真剣に受け止めてくれた。
「そうか……お前がそこまで思い詰めていたとはな。だが、ヌルポウスのことは気にするな。あやつは加虐趣味だからな。鞭打ちされるのは、気に入られている証拠だ」
「………」
「それとな、子供の頃から面倒を見た教え子は、いくつになっても可愛いものだ。儂は今でも、これからもお前を愛しているぞ」
「全然嬉しくないです」
「それは悲しいな」
そう言いながらも、まんざらでもなさそうなソグナトゥス先生だった。
短い、色っぽいため息をついてから、先生はまた口を開いた。
「確かに、大人になるにつれて、少年のような愛らしさは失われる。誰よりも愛されていたお前だ。戸惑うのも無理はない。しかしな、ベテルギウスよ。大人になって失われるものもあれば、得られるものもある。お前は大人になって、もっと素晴らしいものを手に入れるだろう」
「もっと素晴らしいもの……?」
「そう、愛だ」
「!」
「お前を愛してきた儂だから分かる。誰かを愛することは、愛されることよりも幸せだ。誰か一人でも愛する者がいれば、それだけで生きてきてよかったと思える。愛情に包まれて育ったお前ならば、誰よりも愛情深い男になれるだろうと、儂は期待しておる」
ソグナトゥス先生の低く重々しい声が、この時は魅力的に感じられた。
愛――腐るほど聞いてきた言葉だが、その本当の価値に気付いたのはこの時だったのかもしれない。そして男として生まれたことに誇りを持てるようになったのも、この時からだったのかもしれない。続けて先生が口にした言葉は、オレの胸に深く刻まれている。
「愛は、戦士が持つべき最も大切な資質でもある。愛する者のために戦う時、人は真に強い戦士になれる。守るべきものがあるからこそ、人は身命を賭して戦うことができる。儂は、そのこともお前に期待しているのだよ」
次の日から、オレは訓練に復帰した。
オレはもう完全に開き直っていた。今まで自分が愛されてきたように、可愛い後輩たちに愛情を注いで注いで注ぎまくった。そうすることで、オレの心は満たされていった。
かつての美しかった自分はもういない。だがそれは、もう大した問題じゃなかった。もっと美しいものが、この世には溢れているではないか。オレはそれを愛でればいい。
おお、神よ! お前、いい奴だな! 酷い奴だとか言ってごめんな!
誰かを愛することで、こんなにも幸せな気持ちになれるなんて……
神よ……愛を授けてくれて、ありがとう。
「守りたいものが、できたんです……なんのために戦っていたのか分からなかったオレも、やっと……見つけたんです。戦う理由を」
ソグナトゥスの締め付けに必死に抗いながら、オレは言った。
「オレはスパルタクスを愛しています! でも、パルテミラもそれに負けないくらい、好きになってしまったんです! オレはローマの下で戦うよりは、パルテミラを守るために戦いたい! 愚かな教え子のわがままを、お許しください……!」
このような形になるとは、夢にも思わなかった。どう取り繕ってもオレは、ソグナトゥスが期待していた通りの戦士になったとは言えないだろう。
だが、ソグナトゥスは怒りはしなかった。
「ベテルギウス……立派な……戦士になったな」
敵として見えたオレを、一人前の戦士として、認めてくれた。
愛しそうにオレを見つめるその目から、涙が零れ落ちる。
チンッ
「ぬおおおおお!?」
その瞬間、オレはソグナトゥスの股間を蹴りつけたのだった。
最低だ……オレ。
そう思うのもそこそこに、締め付けから解放されたオレは馬に飛び乗り、味方に呼びかけた。
「今だ! 突破しろ!」
ソグナトゥスが痛みに悶えている隙に、オレたち重装騎兵はスパルタ戦士の壁を迂回して、先へ進もうとした。だが――
「待てい! そこまでだ!」
あっという間に復活したソグナトゥスが、再び重騎兵の前に立ち塞がった。
「スパルタクスのために、儂は戦わねばならぬ。ここは通さん!」
おかげでオレは、ヴェルダアースの本隊から切り離されてしまった。付き従う味方は五十騎もいない。
「ベテルギウス! 先に行け!」ヴェルダアースは言った。「霊羊騎兵と合流すれば、協力して戦うこともできるだろう」
「御意!」
こんな半端な兵力でスパルタ戦士の相手をすれば、すぐに叩き潰されてしまう。ヴェルダアースとの合流は諦めるしかなさそうだった。
「そこの若いの! 儂の相手をせい!」
ソグナトゥスの挑戦に、ヴェルダアースが応じる。
「私もここで止まっているわけには行かないのでな。手加減はできないが、それでもいいか?」
「スパルタクスをなめてもらっては困る。戦場で死ぬことこそ我らが本懐だ。来い!」
スパルタクスの胸筋大魔王対パルテミラの胸筋大魔神。究極の対決を見届けることなく、オレは霊羊騎兵との合流へ急いだ。ソグナトゥスへの思いを胸につづりながら。
先生、最後まで迷惑かけてばかりですみません。
そして、今まで愛してくれてありがとう……
* * *
戦場をグルっと回って、分かったことがある。
鷲獅子騎兵とローマ騎兵を壊滅させたものの、戦況は思わしくない。
敵の歩兵は見たところまだ二万はいる。対してこちらの歩兵は一万。兵の質も多分ローマ軍の方が上だ。このまま正面から押し合えば、長くは持たないだろう。そうなると騎兵が頼みだが、ヴェルダアースは足止めされ、霊羊騎兵のエクサトラも生死が分からない。
そしてオレが駆けつけた時、左翼の霊羊騎兵は半壊状態だった。
累々と横たわる死体は、そこで激しい攻防があったことを物語っていたが、その多くは女精で、戦慣れしたオレも思わず目を背けてしまった。
それでも立ち止まらずに馬を走らせ続けているうちに、見知った顔を見つけた。
「エクサトラ! 無事だったのか!」
「ええ、とても無事とは言えませんが……なんとか命だけはあります」
エクサトラは笑ってみせたが、なんとも痛ましい姿だった。腹部を槍が貫通し、光沢自慢の緑の絹服は、生々しい血の色で照り輝いている。鹿に跨ってはいたが、走らせるのはもう無理だろう。心配した部下の一人が、悲痛な声で訴えた。
「将軍、もうじっとしていてください! あとは私がやりますから!」
「いや、私がやる!」エクサトラは譲らなかった。「この戦の勝敗は私たち霊羊騎兵の働きにかかっているのよ。私が指揮を執らないと……!」
一万にもなる霊羊騎兵は、パルテミラ軍の要。その指揮官という役目は、ある意味、総指揮を執るゼノビアより重要と言えた。エクサトラはそのことを、よく理解している。そしてその役目を全うするだけの覚悟もあった。見た目は可愛いのに、芯の強い女だ。
オレが事情を説明すると、エクサトラはナバタイ騎兵と戦う味方を援護するように言った。
ナバタイ騎兵はすでに霊羊騎兵の抵抗を突き破り、ゼノビアの歩兵部隊に仕掛けているとのことだった。エクサトラは、二万を超えるローマの歩兵も抑えなければならず、こちらには手が回らないようだ。
「気を付けてください。相手は相当の手練れです。恐らく指揮しているのはキュロス。あれは我が軍のことを熟知している者の戦い方です」
「分かった。キュロスの方は任せておけ! そっちも死ぬなよ」
ナバタイ王国は、パルテミラの南に位置する遊牧民の国で、元々は隊商貿易や盗賊稼業で栄えていたと聞く。近年は陸の交易路の重要性が落ちて国力が衰えたこともあり、隊商の護衛や盗賊崩れが、こうして傭兵として出張ってくることが多くなってきたという。
エクサトラの言った通り、ナバタイ騎兵の戦闘技術は侮れないものだった。裸馬に跨り、疾走したまま弓と剣を巧みに操る。そして戦い方がこれまた嫌らしい。
霊羊騎兵には、雷光騎兵と同じように、部隊毎に回復役の魔術師がついているのだが、奴らはそれを集中的に狙うのだ。序盤から戦場を駆け回っていた霊羊騎兵の体力は、もう限界が近かった。駱駝部隊も追い返され、矢を補充することもかなわない。
オレが来てからも、状況は少しもよくなる気配がない。ヴェルダアースが到着しなければ、どうにもならないように思われた。
そんな中で突如、敵の陣列が崩れ立った。意外な方向から、意外な形で。
敵の後方から、馬のいななきが聞こえ、振り向いた馬たちがまた驚いたような声を発して、まるで犬に追い立てられる羊のように逃げ出したのだ。混乱の中で、何騎かのナバタイ騎兵が落馬した。
左右に逃げ散った敵の間から現れたのは、小さな騎手を乗せた黄色い猫――
まさかの、雷光騎兵だった。
雷光騎兵は逃げ散った馬をさらに追い回し、敵の陣列をさんざんにかき乱す。
―――最悪なのは、狩猟豹が霊羊の天敵ってことだ。下手に動いて霊羊騎兵とかち合おうものなら、大混乱間違いなしだ……
オレはかつて聞いたエミールの言葉を思い出した。
どうやら、オレの馬がそうだったように、敵の馬も初めて見る狩猟豹にビビっているらしい。雷光騎兵最大の欠点が、この場合は強力な武器になったようだ。
なんだよ、なんだよ…………強いじゃねぇか雷光騎兵!
なにが戦じゃ役に立たないだ。バリバリ活躍してるじゃねぇか!
感心して見ていると、一騎のふわふわした雷光騎兵の姿が目に留まった。
ああ、なんてこった。ジェロブだよ。
「おお〜い! ジェロブゥ〜!」
「ベテさん!」
声に気付いたジェロブが、こちらへやって来る。
会えて嬉しいと思う一方で、オレはジェロブがこんな危険な所にまで出てきていることにぞくりとした。だってほら、ジェロブも不安そうな顔をしているじゃないか。
だが、その口から放たれた一言は、オレをさらにぞくりとさせた。
「ベテさん、大変なんだ! エミールが……」
「どうした!?」
「エミールがいないんだ! 敵の中に入ったまま、戻ってこないんだよ!」
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