終章:そして英雄へ――

 考えてもみれば、無謀なことだった。
 雷光騎兵は二百騎。対するナバタイ騎兵はまだ二千はいる。いくら相性がいいとは言え、十倍する敵の中に突っ込むなんて……ヴェルダアース隊のような精鋭ならともかく、女帝のお飾りにも等しかった雷光騎兵が、戦術的な理由だけでそれをやるだろうか?
「こんなつもりじゃなかったんだ」泣き出しそうなジェロブ。「威嚇するだけにしようって言ったのに、繰り返すうちにエミールがだんだん無茶するようになって……」
「話はあとだ! すぐ探しに行くぞ!」
 まだ状況も感情も整理できていなかったが、ここで嘆いてばかりはいられなかった。オレは敵陣の方へ馬を進め、ジェロブたちもそれに続いた。
 エミールの馬鹿野郎! 一体なにを考えているんだ!? ジェロブを泣かせるなんて!
 最悪の予感が、脳裏をよぎる。
 最後に見た、どこかぼんやりしたようなエミールの顔。
 思い返せば、あの時から少し様子がおかしかった。
 エミールは死ぬ気だ。
 あいつは、永遠の幼精になるつもりなんだ。
 オレが気付かなかっただけで、本当はまだ、エミールは幼精と男の狭間で苦しんでいたのかもしれない。雷光祭ですっかり気が晴れたと思っていたのに、有終の美でめでたしめでたしと思っていたのに、まだエミールは……
 理想とする幼精の姿のまま、戦場で華々しく散ることが、お前の望みだというのか?

英気の泉エン・マクマーナ!』
 ジェロブが杖をクルッと一振りすると、色鮮やかな光の帯が、味方全体を包み込んだ。
 身体の奥底から力が湧き、連戦の疲れが取れていくようだった。愛馬の足取りも、心なしか軽くなったように感じる。
 オレは五十騎ばかりの重騎兵を率いて、ジェロブたちのあとに従った。
 雷光騎兵は向かうところ敵なし。迫られた敵の騎馬は逃げ散り、そのおかげでオレたちはほとんど敵と剣を交えずに進むことができた。
 重騎兵の馬は普段から見慣れているからか、味方の狩猟豹を恐れはしなかった。オレの馬も、行軍中にジェロブのアルルと、恋人と呼べるくらいには親しくなった。ジェロブ曰く、元来狩猟豹は体格の大きい馬は襲わないんだとか。
 ところがそれは、相手にとっても同じだった。
 敵陣の中を進むうちに、雷光騎兵に接近戦を仕掛ける敵が多くなった。特に回復役のジェロブが集中的に狙われている。
 誰だ! 今ジェロブに矢を射かけた奴は!?
 お前か? いや、お前だな!?
 オレは手当たり次第に弓で反撃した。気が済むまで矢を放ったあとは、ジェロブに近い奴から順に斬り飛ばし、永遠にジェロブに近付けないようにしてやった。
 ジェロブに剣を向けるなんて……お前ら、人間じゃねぇ!
 そうしているうちに、馬も人もオレを恐れて、距離を取るようになった。
 ジェロブしか眼中になかったオレの目が、新たな騎影を捉えたのは、その時だった。
 狩猟豹が一匹……狩猟豹が二匹……人馬の群れを突き破って、続々と雷光騎兵が飛び出す。間違いなく、はぐれていた一隊だ。その中に――
「エミール!」
 無我夢中で突っ走っていたそいつは、弾かれたようにビタリと止まり、振り返った。
「ベテルギウス!? なんでお前が……」
「なんでじゃねぇよ! お前を助けに来たに決まってんだろ!」
 オレというこの上なく頼もしい助っ人が来たというのに、エミールに喜びの色はなく、深い後悔と罪悪感に打ちのめされたような顔をしていた。
「なんでこんな無茶なことをしたんだ。お前、死ぬ気だったのか?」
 うつむき、相棒フワワの首輪をギュッと握り締めるエミール。オレは続けて言った。
「お前が雷光騎兵でいられる日はもう長くない。逸る気持ちがあるのは分かる。この先のことを考えると、辛くなるのも分かる。けど、だからって死にに行くのは――」
「違う!」
 エミールが吼えた。
「オレはただ、雷光騎兵の隊長として、やるべきことをやっただけだ。確かに、無茶な作戦だったとは思うよ。でもオレがためらってパルテミラが負けたら、絶対後悔するから……勝つために命を懸けるのは、戦士なら当然のことだろ!?」
「!」
 なんと言い返してやればいいのか、分からなかった。
 スパルタクスでは戦場での死こそが至高の名誉とされ、オレ自身も、カルデアの戦いでは部下をそう導いた。蛮勇であるには違いないが、エミールの行動は、スパルタクスであれば称賛されるべきものだった。
 しかしオレはもう、あの時とは違っていた。エミールを死なせたくない。
 エミールに付き従っていた雷光騎兵の一人が、オレの気持ちを代弁してくれた。
「馬鹿。お前のは死に急いでるだけだ。部下を置いて、一人で突っ走ってんじゃねぇよ。隊長としての自覚が足りないんだよ。自覚が」
 燃えるような赤髪のちっちゃい幼精――アルバロスだった。
「死んだら許さないからな。お前には、雷光祭の借りがある。こんな所で死なれたら、オレは一生お前に勝てなくなるだろうが」
 お前、たまにはイイこと言うじゃないか!
 生きて帰れたら、ご褒美にほっぺムニムニしてやるぞ!
「エミール。勝つために命を懸けようっていうその意気は認めてやる」
 オレの方からも、エミールの馬鹿野郎に言ってやった。
「だがな、今回ばかりは、それはオレの役目だ。お前が命を張るにはまだ早い。一人前の戦士になる前に、お前はまず、女帝が惚れ込むぐらいのいい男になれ」
「なんで女帝陛下なんだよ!?」
「好きなんだろ?」
 エミールの顔が、みるみるうちに紅潮していった。
「はぁ!? 違うし!」
「じゃあ嫌いなのか?」
「そういうことじゃねぇよ! 陛下には恩があるし、尊敬しているけど……別に好きだとかそんな……」
 話の途中で襲ってきた不躾な敵をぶった斬って、オレは言った。
「だったら、その尊敬する陛下の期待に応えてやれよ。今ここで死ねばそれまでの男だ。陛下が期待してるのは、そんなことじゃねぇだろ。お前は、今よりもっといい男になれる。もっと強くなれる。半幼精のお前ならな」
「!」
 純粋な幼精としてのエミールは、もうすぐ終わる。
 だが、それですべて終わりではないのだ。エミールはまた新しい、より強い自分を見つけるだろう。いずれオレと肩を並べる日が来るまで、死なせるわけにはいかない。
 突然、群がっていたナバタイ騎兵が攻撃をやめた。
 オレたちから離れ、綺麗な包囲の円を描いて静止した。
 人馬の列の間から、一人の男が進み出た。
 男は頭に白いターバンを巻き、鼻筋高く、クルミのむき身色の肌をしている。顔にはまだ若さも残るが、何十年もの年月を戦場で過ごした、老将のような風格も漂わせていた。
「その小勢で我が軍勢に挑むとは、大した度胸だ。そこの男。お前が噂のベテルギウスか?」
「いかにも。そういうあんたは、噂のキュロスで間違いないな?」
「ああ。私がキュロスだ。ティリオンが世話になったそうだな」
「なに、礼には及ばんよ」
 暗く光る瞳で、キュロスはじっとオレを見つめている。それは獲物を狙う獣のようでもあり、美女を品定めする男のようでもあった。
 オレは全身の血が沸き立つのを感じた。
 こいつがすべての元凶。スレイナの暗殺を指示し、この戦争を引き起こした張本人。
「わざわざそっちから出向いてくれるとはな。ちょうどいい。あんたを倒して、この戦は終わりだ」
「無駄だ。私が斃れても百人の同志が跡を継ぐ。お前たちはこの包囲から逃れられない」
 キュロスの背後には、漆黒の外套を着た者たちが控えていた。
 どいつもこいつも復讐に燃えるような目をしていて、他のナバタイ騎兵とは明らかに雰囲気が違う。キュロスが同志と呼ぶ者たちらしかった。
「ベテルギウス、私の同志にならないか?」
「……!」
「お前をここで殺すのは惜しい。もし、今からでもパルミュラ再興のために力を貸してくれるというのなら、これまでの罪は水に――」
「断る」
 キュロスが一瞬、面食らった鶏のような顔をした。
「即答だな」
「当然だ。あんたらは私怨を晴らすためだけにローマ軍を祖国に引き込んだ。そんな愚か者どもと手を組もうだなんて、まっぴら御免だね」
「この国は間違っている」キュロスは言った。「パルテミラの男たちは生まれながらにして悪人のような扱いを受け、帝都に入ることも許されず、政からも遠ざけられ、一生を日陰者として生きていかねばならない。我々は、女による不当な支配を打破し、この国を正しく導くために戦っているのだ。決して私怨を晴らすことだけが目的ではない。お前も男ならば、分かってくれると思ったのだがな……」
 ―――歴史が、繰り返されようとしている……
 まったく、ゼノビアの言った通りになった。
 パルテミラの建国者セミラミスは、女たちの中に燻っていた不満を利用することで、革命を成功させた。皮肉か単なる偶然か、キュロスはその歴史をなぞろうとしている。
 因果応報ではある。だが、オレにはどうしても許せないことがあった。
「どうしようもない阿呆だな、お前は」
「なんだと……?」
「ローマが敵対者にどんな仕打ちをしてきたか、知らぬわけじゃあるまい。脅威となる敵に対して、ローマは無慈悲だ。滅ぼされた国のいくつかは、都市を徹底的に破壊し尽くされ、大地に塩が撒かれ、人は殺されるか奴隷として売り飛ばされた。パルミュラ時代から因縁のあるこの国を、ローマがただで済ますはずがない。そんな奴らを、お前はむざむざこの地に引き入れたんだ」
 キュロスの顔が険しさを増した。殺気が砂漠の熱風のように吹き付けてくる。
「お前は、この国を正しく導くために戦っていると言ったが、これが正しいことなのか? かつての栄華など見る影もないくらいに荒廃した大地に、王国を築こうとでもいうのか?」
 長い沈黙。やがてゆっくりと面を上げたキュロスが、低い声を震わせた。
「お前は……お前はこの国がこのままでいいのか!?」
「いいとは思わん」
「だったらなぜ……!」
「国を離れて、こそこそ暗躍してたあんたには分からないだろうがな、この国は今まさに変わろうとしている。テシオン唯一の男であるこのオレが、肌で感じていることだ。ゼノビアなら、あんたの言うこの国の間違いも正せると、オレは信じている」
 キュロスの表情から、急速に熱が引いていった。
 オレを見据える目は冷淡で、しかし殺気はむしろ増したようにも感じられる。
「随分と偉そうなことを……所詮はよそ者。我々とは分かり合えないようだな」
「そうかもな……オレはあんたらの苦労を知らない」オレの方も落ち着きを取り戻し、小さくため息をついた。「いろいろと話したが、結局のところオレは、今の楽しい生活を壊されたくない。その気持ちが一番なんだろう。だが確かに言えるのは、オレが、お前たちの中の誰よりも、この国を愛してるってことだ。ここは譲らねぇぜ」
 話はここまでだった。
 周りもそれを感じ取ったのだろう。合図があったわけでもないのに、誰からともなく戦闘態勢に戻っていた。
「ああ、そうだ。あんたのために一つ言っておこう」戦いの火ぶたが切られる前に、オレは釘を刺しておいた。「ジェロブに怪我一つでも負わせたら、パルテミラ全土の民を敵に回すことになる。せいぜい気を付けることだ」
 それはキュロスに向けた言葉だったが、まったく違うところで反応が起こった。
「なにっ!? ジェロブがいるのか?」
「どこだどこだ?」
 キュロス自慢の同志たちが騒ぎ出した。テシオン幼精歌劇団の公演を見に来た女たちのように、興奮した様子で。
 お前ら……意外と気が合いそうだな!
 考え方は違えども、ことジェロブのことに関しては、こいつらはお仲間のようだ。
 敵が目的を忘れて騒いでいる隙に、オレたちは逃げ出した。
「お前たち、なにをぼさっとしている!? 追え! 奴を逃がすな!」
 多分、キュロスもぼさっとしていたんだろう。遅れて指示を出すと、自らも先頭に立って追撃を始めた。その時には、雷光騎兵が包囲の一角を大きく突き崩している。
 キュロスと対話している間に、雷光騎兵は回復魔法ではどうにもならなかった呼吸を整えることができた。狩猟豹に慣れてきた敵の馬も、活力を取り戻した狩猟豹の群れに迫られればひとたまりもない。騎手の意に反して、道を開けてくれた。
 問題は重騎兵だ。雷光騎兵のあとに続けば一直線に進むことができたが、ほとんど裸馬同然のナバタイ騎兵には、どうしても追いつかれてしまう。
 オレは殿になって、敵の追撃を食い止めた。
 簡単な相手ではなかった。ナバタイ騎兵はハエのようにオレに群がり、三日月のように湾曲した刀で次々に斬りつけてくる。なかなか反撃の隙を与えてはくれない。
 なんとか五人目までを馬上から斬り落とした時、オレの胸を矢がかすめた。
 矢を放ったのはキュロスだった。目が合うや否や、すぐさま三日月状の刀に持ち替え、突進してきた。
「貴様は私が直々に地獄に叩き落としてくれよう」
「地獄か……帰り道があるのなら行ってやってもいいぜ。スパルタクスとどっちがキツイかな」
「寝言は死んでから言え!」
 キュロスの手首が旋風を起こした。
 ギャリィン!
 剣と剣がぶつかった瞬間、刃が滑ったような感触があった。自由になったキュロスの刀が、小さく弧を描いてオレの横っ腹を狙う。オレは肘にはめ込んでいた丸盾で、その斬撃を弾いた。
 独特な剣術だった。ナバタイに潜伏している間に身に付けたのだろうか。小さな円を描くように振り回されるキュロスの剣は、流水のように滑らかで、止まることを知らない。防御を滑り抜けた剣は、しばしばオレのお気に入りの鎧を傷つけた。
 こんな奴に負ける気はしなかったが、これ以上手こずっていたら死ぬのはオレの方だ。オレは長剣をキュロスの顔めがけて突き出し、奴がのけぞった隙に馬の尻を向けて逃げ出した。
 ところが、この時にはすでに、オレは黒ずくめの男たちにほぼ包囲されていた。遠巻きに矢を射かけられ、ともに殿を務めた重騎兵が一人、また一人と脱落していく。追いついたキュロスが、オレを狙って弓を引き絞っているのが見えた。
 退き時を誤ったか――そう、思った時のことだった。
 一筋の雷光が、オレの横を疾り抜けたように見えた。
 雷光はジグザグに進みながら、黒い包囲網を蹴散らし、弓を構えたキュロスを襲った。
「あっ!?」
 オレのことしか眼中になかったキュロスの間抜け野郎は、反応が遅れた。両手に弓矢を持っていたおかげで防御もできず、繰り出された二つの斬撃を馬体と太ももに受けて、派手に転倒した。
「エミール、なんで戻って来た!? 先に行けって言っただろ?」
「お前がもたもたしてるからだよ! オレにあんなこと言っといて、自分は死ぬ気かよ!? ふざけんな!」エミールは反転して、またオレの横を駆け抜けた。「早く行くぞ!」
「はぁ……」
 返す言葉もない。
 エミールにこんな剣幕で怒られたのは、本当に久しぶりだった。ちょっとカッコつけすぎたか……
 包囲を突破する中で、オレはエミールの剣術の冴えを目の当たりにすることとなった。
 狩猟豹に跨りながら双剣を振るえるのは、エミールしかいない。話には聞いていたが、実際に目にすると、どれだけ神がかったことだったのかに気付かされる。両手を放しているにもかかわらず、激しくうねる狩猟豹の背の上でも、エミールはまったく体勢を崩すことがなかった。
 引退が近いのが、本当に惜しまれる……
 これがエミールの、雷光騎兵としての最後の輝き。
 遠くで角笛の音がした。これは攻勢の合図。オレは勝利の時が近いことを知った。
 前方にはもう、味方の歩兵の列が見えていた。あと少し――
 ドンッ
 妙な衝撃が、鞍から伝わってきた。
 途端に馬が歩調を乱し、オレを乗せたまま枯れ草の中に倒れ込む。
「エロース! どうしたエロース!?」
 受け身を取って着地したオレは、愛馬の尻に矢が刺さっているのを見た。
 後ろを振り返ると、今、弓を放ったばかりのキュロスが迫って来るのが見えた。
「チィ……しつこい奴だ」
 びっくりして立ち止まったエミールに、オレは言った。
「エミール、先に行ってろ」
「だから何度も言わせんな。お前を置いていけるかよ」
「アルルの体力はもう限界だろ。オレに構ってる場合じゃない。早く行け」
「嫌だ!」
 頑なに拒むエミール。オレから離れることが不安で仕方がないようだった。
「まったく、この……甘えん坊が……!」
 追いついたキュロス直属の配下たちが、オレたちの退路を断とうとしている。
 徒歩になったオレを庇いながらでは、エミールも満足に戦えないだろう。
「キュロス、もう一つ忠告しておく」オレはキュロスの頭に、もう一本釘を刺しておいた。「こいつを傷つけたら、パルテミラの全ての民とまではいかなくとも、半分は敵に回すことになる。気を付けることだな」
「貴様に言われなくとも、部下には無闇に幼精を殺さぬよう言いつけてある。安心して逝け!」
 言うと同時に、キュロスは馬腹を蹴って突進してきた。
 オレは剣と盾とを構えて、キュロスを待ち受けた。一撃で決めてやるつもりだった――
 ローマ本軍の方から、連続したラッパの音が響き渡ってきたのは、その時のことだった。
 オレたちを取り囲んでいた敵の顔が、みるみるうちに蒼ざめていった。
 ローマ軍の撤退を告げる合図だった。
「マンティコラスの腰抜けめが……!」
 忌々しげに、ローマ軍総帥の名をつぶやくキュロス。
 この瞬間、彼の野望は打ち砕かれたのだった。
「キュロスよ……お主の負けじゃ」
『音響魔法』が、鷹揚な女の声を運んできた。
「お主が雷光騎兵に手を焼いている間に、ローマ軍は崩壊したぞ」
 パルテミラの軍列の前に、女帝ゼノビアが馬を立てていた。

「ゼノビア……!」
 キュロスは飢えた胡狼ジャッカルのような目を、女帝に向けた。
「私は諦めぬぞ! 今日は無理でも、必ずまた軍を起こして、国を取り戻しに行く!」
 敗北が決定的となり、すでにナバタイ騎兵の多くが逃げ出している。
 それでもキュロスは、未練がましく女帝を睨みつけたまま、その場に留まり続けた。
「キュロス。もう終わりにしよう」静かに、なだめるようにゼノビアは言った。「我々が争う理由などもうなにもないはずじゃ」
「なにもないだと……? 貴様らのために、私の一族がどれだけの屈辱を受けてきたか知らぬから、そんなことが言えるのだ!」キュロスは牙を剥いた。「最後の王ダライアスが殺されてから百二十年余り。私の一族は祖国の土を踏むことすら許されなかった。時には奴隷に身をやつし、時には野盗に化け、我々は異国の地で、およそ王族とはかけ離れた惨めな時を過ごしてきた。それを、なかったことにしようとでも言うのか!?」
「そうではない。パルテミラ建国の陰で起きた数々の惨劇は、私も決して忘れはしない。同じ過ちを繰り返さぬために」
「………」
「我々は同じ過去を共有する身。ならば未来も共有できるはずじゃ。そうは思わぬか?」
 キュロスは答えない。戦場から遠ざかるローマ軍の、怒号と絶鳴ばかりが聞こえてくる。
 オレとエミールは、ナバタイ騎兵が動かないうちに包囲を抜け出していた。そして無事敵の陣中から抜け出した時、ようやくキュロスが口を開いた。
「ゼノビア……この者たちが見えているか?」キュロスは黒い同志たちを指差した。「彼らはこの国に絶望し、私を頼ってきた者たちだ。どんな言葉で取り繕おうが、貴様が彼らを不幸にした事実は消えぬ! 彼らの存在こそ貴様の悪政の証! 貴様にこの国を治める資格はない! この国の王になるべきは、この私だ!」
 思わず本音を漏らしてしまったキュロスは、指を女帝に向け、さらに叫んだ。
「者ども、あの女を殺せ! もはや勝敗は問わぬ。奴を殺した者には、千人分の報酬をくれてやるぞ!」
 ナバタイ騎兵が色めき立った。元より、盗賊稼業で身を立てていた者も多い。目の前にちらつかされた極上の餌に、彼らはかぶりついたのだった。
 野犬のような喊声を上げてゼノビアに殺到するナバタイ騎兵。キュロスもあとに続く。
 だが、その勢いは一瞬にして潰えた。
 歩兵の列に並べられていた大盾がどけられた、次の瞬間――隠れていた弓兵が一斉に矢を放ったのだ。
 ゼノビア一点に集中していたナバタイ騎兵は、全面から横殴りの矢の雨を受けてバタバタと倒れていった。後続の者も、仲間がなすすべなく死にゆくのを見ると、ワッと叫んで逃げ散ってしまった。
 矢の雨が止むと、今度はまた別のものが、恐ろしい速さでパルテミラの軍列から飛び出した。
 雷光騎兵――だが、その先頭に立つ者の姿が、オレには信じられなかった。
「!?」
 ゼノビアだった。
 女帝が騎乗しているのは馬――なのに、全力疾走に近い雷光騎兵を、置き去りにするくらいの勢いで突き進んでいる。両隣には霊羊に乗った幼精も従えている。ナバタイ騎兵を追い散らしながら、一筋の雷光となって、キュロスに迫る。
 女帝の姿を認めたキュロスが、弓を引く。
 神速の馬の上で、ゼノビアもまた弓を引く。瑞々しい唇を淀みなく動かしながら。
風雲神イル・エンリル!』
 矢が放たれたのは、ほぼ同時だった。
 対局する二本の矢は、同じ一筋の糸を辿るように進み、衝突するかに見えた。
 が――その寸前で、キュロスの矢が弾けた。見えない力に押しのけられるように。
 ゼノビアの矢は、口笛のような高い風切り音をともなって直進する。
 うめき声が上がった。
 キュロスが、仰け反るようにして馬の背から転落する。矢は貫通してどこへ行ったのかも分からない。だが、キュロスの肩口から血が噴き出しているのは見えた。
 主人が射落とされたのを見て、残っていたナバタイ騎兵が、故郷のある南へと落ちていく。
「キュロス!」
 痛みにのたうち回るキュロスに、ゼノビアが声を投げ落とす。
「自分がなぜこの国の民に歓迎されないか、よく考えるのじゃ。その上でまだ私を許せぬというのなら、何度でも挑むがよい。だが、パルテミラの民を傷つけるようなことを、二度とは許さぬ! 今日犯した罪を、忘れるな!」
 それまで穏やかに見えたゼノビアが、激しい怒りを露わにしている。
 恐らく、キュロスを説得するために、今の今まで抑え込んでいたのだろう。キュロスの暗躍によって、ゼノビアは大切な人を何人も失った。そしてこの日も、罪なき者の血が多く流れた。ゼノビアはパルテミラの守護者として、最後に毅然とした態度を示したのだった。
「ぐうう……くうっ……!」
 キュロスは悔しそうに女帝を見上げていたが、やがて言葉にならぬ声を発して馬に飛び乗り、逃げ出した。部下の何人かも後を追ったが、キュロスは振り返ることなく、たった一人、南へと馬を走らせた。
「なぜ、キュロスを殺さなかったのです?」霊羊に乗った幼精の一人が、女帝に問いかけた。「奴を生かしておけば、また後の禍いとなるでしょうに」
 勝者となった女帝は穏やかさを取り戻していたが、その表情は重い。
「キュロスを殺したところで、この戦いは終わらぬ。人々の心が変わらなければ、また同じことが繰り返されるだろう。私はキュロスにこの手を取ってもらう形で決着をつけたい。キュロス一人を変えることができずして、どうしてこの国を変えられようか」
 ふと女帝は、戦場に留まっている漆黒の外套をまとった集団に目を向けた。
 彼らは国に絶望し、一度はキュロスの元へと奔った者たちだ。それが今、馬を降りて帰順の意思を示している。
「ほう……私の手を取ってくれる者が、こんなにいたか」
 女帝の顔が、真夏の太陽のように輝いた。

 ゼノビアが馬を寄せてきた時、エミールは跪いた姿勢でひたすらに震えていた。
 唇は固く引き結ばれ、大きく見開かれた目は地面を向いている。
 結果的に、雷光騎兵の活躍がパルテミラの勝利を手繰り寄せたのは間違いない。だがゼノビアがエミールの作戦を知れば、決して許可しなかっただろう。形式上はエミールにも指揮権があったとはいえ、女帝の意に反した行動に出てしまったことに、後ろめたさがあるようだった。
 馬を降り、つかつかと歩み寄るゼノビア。目を閉じ、覚悟を決めるエミール。
 だが――
「!?」
 次の瞬間には、エミールは女帝の豊かな胸に抱かれていた。
 驚きと恥ずかしさで面を上げるエミール。そのすぐ横には、死の恐怖から解放されたような
 安堵を浮かべる、ゼノビアの顔があった。
「エミール、よくぞやった。此度の勝利の立役者はそなたじゃ」
 絶対に離すまいとするかのように、ゼノビアは強く、深くエミールを抱き締める。
「だがもう二度と、こんな無茶はしないでおくれ。私がそなたらをそばに置いたのは、己を奮い立たせたかったからじゃ。守りたいものをそばに置くことで、この国を守る覚悟を固めたかった。だから、命を投げ出すようなことはしないでおくれ」
「陛下……」
 赤面しながらも、エミールは子供のくせに生意気な、かしこまった口調で言った。
「お言葉ながら、これでも私は親衛隊です。陛下の身に危険が及んだ時は、命を懸けて守るつもりです。今はまだ頼りないかもしれませんが……いつか必ず、陛下に認めていただけるほどには、強くなってみせます!」
 ゼノビアはゆっくりと体を離し、頼もしい半幼精に微笑みかけた。
「そうか……楽しみに待っておるぞ」
 いい男になれよ、エミール……
 顔に若干の下心をにじませながら、オレはうんうんとうなずいた。
 ふと首振りの動きが止まったのは、大事なことを思い出したからだった。
 ジェロブはどうした?
 そういえば、先に行ったっきり姿が見えない。
 キュロスには釘を刺しておいたが、矢で狙われていたところを見ると、命令が徹底されているとは言い難い。回復役のジェロブは狙われやすいということもある。
 不安が募り、オレは必死に視線を巡らせる。
 あいつは違う。あいつも違う。あんな奴いたっけ? でも可愛い……じゃなくて!
『……ベテさん…………』
「!」
 耳元で、ジェロブの声がした。間違いない。これは『精霊の囁きウェスパーシ』!
『……う…………し……ろ…………』
「えっ?」
 反射的に振り向けばそこには、こちらへ駆け寄るジェロブの姿。
 視界いっぱい――――大きく両手を広げ――――
 ちょっ、待っ……心の準備が……!
 ムギュウウウ!

 オレの意識はそこで途絶えた――

     *  *  *

 意識が朦朧とする中で、優しく囁きかけるような、どこか懐かしくも感じられる歌声が、かすかに聴こえてきた。

 安息の地へ、精霊の光があなたを導くでしょう
 そして天使たちの合唱があなたを迎えるでしょう
 おかえりなさい、安息の地へ、テシオンへ
 モーリヤに眠る精霊の魂とともに、あなたが永遠の安らぎを得られますように

 何重にも重なり合った、透き通るような綺麗な高音。
 オレはその歌声に身を委ね、しばらくの間、自分がどこでなにをしていたのかすら忘れていた。
 ああ、そういや……オレは死んだんだっけな。
 じゃあこれは、天国から迎えに来た天使たちの歌声だ。
 魂が、あるべき場所に還ろうとしている。聴いているうちに、そんな安らかな気分にさせられる。
 さあ天使たちよ、オレを天国へ連れて行ってくれ。
 我が人生に悔いなし。
 これからは天上の星となって、パルテミラの行く末を見守ることとしよう。

  ――ベテルギウスの手記 終――

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