作家である以前に思想家であれ(2)~科学万能主義・全体主義への警鐘~

※今回はデリケートな話になります。苦手な方はスルーしちゃってください。

 

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以前、「作家である以前に思想家であれ」のタイトルで近況ノートを書いたことがありました。

賛否が分かれる話なので、その時は肝心なところは伏せてお話ししましたが、最近ようやく風向きが変わって来たので、伏せずに話したいと思います。創作用のサイトでこのようなお話をするべきなのか微妙な所ではありますが、大切な話なので書いておきます。

はっきり言います。ワクチン義務化の是非についてのお話です。

新型コロナウイルスの流行で世界が混乱する中、いくつかの民主主義国家がワクチンを義務化し、日本でも「みんなのためにワクチンを打ちましょう」と同調圧力をかけるCMが当たり前のように流れていました。ネットにはワクチンを打たない人を差別する投稿が溢れ、主要なマスコミですらもワクチンを打たない人を「陰謀論を信じてしまった頭の悪い人」と印象付けるような記事を当たり前のように出していました。

私はこのことにかなり危機感を抱いています。

誤解のないように言っておきますが、私はワクチンそのものに反対しているわけではありません。ワクチンで予防するという選択肢があるのはいいことだと思いますし、打ちたい人は打てばいいんです。

ただ、「みんなのために打て」という全体主義的なやり方には強く反対します。

ワクチン接種はあくまでも「自分のため」であるべきです。

ワクチンの義務化は、人権、民主主義の健全性、科学的な合理性、生存戦略的な観点から見ても大きな過ちであると考えています。以下に詳しい理由を示します。

【①科学万能主義の危険性】

 天動説が地動説に取って代わったように、科学は絶対不変の真理ではなく、あくまでも暫定的なものです。反証可能性があることを忘れてはなりません。「反証可能性」が科学の大原則の一つであることは、私が大学で学んだことです。大事なことなのでしっかり覚えています。

 例えば、コーヒーを常飲している人としていない人を比較して、常飲している人の方が糖尿病のリスクが高いという結果が出たとします。この場合、果たしてコーヒーが糖尿病のリスクを高めていると結論付けていいのでしょうか。ぱっと見、この結論は正しいようにも思えますが、実際には「コーヒーを飲んでいる人の多くは砂糖を入れて飲んでいる」ということを見落としています。このように実験方法に誤りがあったり、見落としていた要素があると、途端に科学は覆ってしまうのです。

 他に身近なものだと怪我と消毒の話。私が子供の頃は怪我をしたら消毒して乾燥させるのが常識でしたが、近年では消毒も乾燥もさせない湿潤療法が一般的になりつつあります。消毒はばい菌だけでなく、傷を修復するための細胞も殺してしまいます。なので実際には水で汚れを洗い流すにとどめる方が綺麗に早く治るのです。

 新型コロナウイルスのワクチンでもこのような例がいくつか確認できています。厚労省が発表した資料に、感染者と接種者の心筋炎リスクを比較して、前者の方がリスクが高かった。だから打ちましょうというものがあります。しかしそもそも、比較するなら「未接種者」と「接種者」にすべきです。また、比較したデータは

感染による心筋炎は「発症/入院した人」

接種による心筋炎は「発症/感染した人」

を百万人あたりに直したものが使われていますが、なぜか感染者の方だけ入院した人が分母になっています。これでは感染者のリスクだけ不当に高く見えてしまいます。このデータがおかしいことはすでに国会でも指摘されていることですが、未だに修正されずにワクチン推奨の論拠として使われ続けています。

 また最近でも「コロナで死亡の子供の多くがワクチン未接種である」という記事が出ていましたが、その根拠となる調査は小児接種が始まる前(つまり小児接種率ほぼ0%)の期間が含まれていて、全体の接種率がそもそも低かったのです。さらに子供の死亡例そのものが少ないため、統計としても不十分です。一人二人の違いで結果がまったく変わってしまいます。

 マスコミに出演する専門家は口を揃えて「科学的に安全だから“絶対”に打ちましょう」「メリットがデメリットを上回るから“絶対”に打ちましょう」と、なぜか科学が絶対に間違えないものだという前提で話をします。彼らは科学の大原則を知らないのでしょうか? それとも金に目がくらんで政府やマスコミに都合のいいことしか言わなくなったのでしょうか? マスコミは専門家の意見を神託か何かのように扱いますが、専門家がすべて統一した見解を持っているわけではありません。同じ人が何度も繰り返し出演してワクチンに肯定的な意見しか言わないのには違和感を覚えます。

 マスコミが嘘と欺瞞に満ちたものであることも大学で学びました。マスコミが原発の安全神話を作り上げてから、震災によって安全神話が崩れるまでのことを講義で見せられた時は衝撃を受けましたが、マスコミがワクチン安全神話のような報道をするたびに、あの時のことが思い起こされます。

【②全体主義の危険性】

 全体主義と聞くと、皆さんどんな印象を抱くでしょうか。

 Wikipediaを開けば、トップの画像にスターリン、ヒトラー、毛沢東、ムッソリーニ、金日成というそうそうたるメンバーが顔を並べています。恐怖政治、独裁、ジェノサイドの代名詞ともいえる人たちですね。

 ワクチン義務化を肯定する人たちは、「私は違う! みんなの命を守るために言ってるんだ!」と言うでしょうが、実際やっていることは全体主義なんです。「社会全体のために体を差し出せ」と言っているわけですから。

 とはいえ、レッテル貼りで議論を終わらせるのもよくないので、ここでは全体主義的なやり方の合理性の是非について論じることにします。

 例えば、世界人口の半分が死亡する感染症が流行り、それに対応するワクチンが開発されたとします。ワクチンの効果は完璧で、接種すれば感染症で死ぬことは100%ありません。安全性も科学的に証明されているとします。

 しかし、先に述べたように科学とは絶対不変のものではなく、後の時代に覆る可能性も秘めています。ワクチンに現時点で判明していない致命的な欠陥がある可能性も否定できません(心筋炎のリスクにしても、当初はこれといった説明がなく、後から出てきましたね)。

 これを科学的に安全だからと全員が接種したらどうなるでしょう?

 何事もなければ誰も死なずに万々歳です。しかしワクチンに致命的な欠陥があった場合、「みんな打っちゃった……」では一巻の終わりです。

 パンデミックはなにも今に始まったことではなく、今後も繰り返し起こることです。そのたびにこんなやり方をしていては、人類史500万年分も持たないのではないでしょうか。

 全員で一つの道に突き進むやり方は、その道が正しければ大きな成果を生みますが、間違っていたら取り返しのつかないことになります。「メリットがデメリットを上回るから“全員”打て」だの「科学的に安全だから“全員”打て」だのという話は、まったくもって合理的ではないのです。

 大きな危機に直面した時に我々が取るべき生存戦略は、リスクを分散させることです。

 多様性が種の保存に有利であることは学校で習ったはずです。上記の例で言えば、ワクチンを接種する人がいれば感染症で人類が死滅することはありませんし、ワクチンに致命的な欠陥があった場合でも打たない人が半分いれば四分の一は生き残れます。

 打つ打たない、どちらの選択もできることが重要なのです。

 ワクチンの義務化を推進した政治家たちは、「感染症から人命を救った」という名声欲しさに全国民に薬害という負う必要のないリスクを負わせたことを反省するべきです。

「命を守る」という美辞麗句で思考停止している人があまりにも多過ぎます。

【③民主主義の危機】

「ワクチンにはマイクロチップが埋め込まれていて、接種すると監視される」

「コロナ渦は人口削減のための陰謀であり、ワクチンには毒が入れられている」

 これらはまあ間違いなくデマでしょう。私はネットやSNSの情報は鵜吞みにしませんし、むしろ大手マスコミの報道を情報源にしているので、世論誘導や印象操作に惑わされることはあっても陰謀論に惑わされることはありません(大学ではメディアリテラシーの講義を好んで履修していましたし、科学系のゼミではゼミ内最高評価をもらっているので、情報を正確にとらえる力にはそれなりに自信があります)。

 しかしワクチンの義務化はつまるところ、「政府が指定したものを強制的に国民の体に入れることができる」という前例を作ることになるのですが、みなさんは本当にそれでいいのでしょうか?

 上記に挙げたデマは荒唐無稽なものですが、悪意の入り込む余地があれば、それに近いことが起こるのはまったくあり得ない話ではないのです。

 国家権力が国民の体に干渉することができるようになれば、それは民主主義の崩壊です。この権力を以って、政権に批判的な人たちを脅すこともできてしまうのですから、国民主権など絵に描いた餅も同然になってしまいます。それこそ、ウクライナでこの間行われた住民投票のようなことになりかねません。

 我々は基本的人権を手放すべきではありません。特に自分の体に関する権利だけは絶対に。

 某有名漫画の台詞を借りるならば、「生殺与奪の権を他人に握らせるな」という話です。

【④公共の福祉の誤解】

 ワクチン義務化を肯定する人たちの論拠としてよく出てくるのが公共の福祉です。

「公共の福祉のために自由は制限されるもの」であると。

 そもそもワクチンを打たない場合でも生まれ持った体で生きているだけですから、公共の福祉に反しているとは全く言えないわけですが(地球温暖化が進むから呼吸するな的な論理ですね)……

 もっと根本的なことを言うと、彼らは「公共の福祉」というものを誤解しています。

 公共の福祉は「社会全体の利益のために基本的人権を制限する」ものではありません(私も学校ではそういう風に教えられてしまったので、最近まで誤解していました)。それではただの全体主義になってしまいます。

 実際には「それぞれに保障されている人権に矛盾・衝突が生じた時に調整する」ものであって、あくまで基本的人権を守るための考え方なのです。

「感染を広げないためにマスク、消毒の対策に協力してください」は理解できますが、「みんなのために体を差し出せ」は公共の福祉を逸脱しています。

 生き物である以上、人が病に罹るのは自然なことです。意図的でもない限り、「移したら悪」という考え方は全体主義的で、迫害にも繋がりかねない非常に危険な思想です。

 厳しい言い方になりますが、最後のところは自分の力で生き残るべきです。

 何億年もの間、途切れることなく命をつないできた丈夫な体を、我々は生まれつき持っているではありませんか。衣食住に医療という生きるために必要なものも充実しています。なんならワクチンで予防するという選択肢だってあります。この時点ですでに基本的人権は保障されているのです。

 そんな中で、他人の体に干渉してまで「罹りたくない」というのは単なる我が儘に過ぎず、基本的人権を逸脱しています。それこそ他人の基本的人権を一方的に侵害しているため、公共の福祉に反しているのです。

 繰り返しますが、ワクチン接種はあくまで「自分のため」であるべきです。

 

ワクチンの義務化の是非について、私は当初からネットニュースのコメントを通して警鐘を鳴らし続けてきました。日本は同調圧力の強い国ですから、当初はこのようなことを書き込めば批判の嵐でした(それでも賛成票の方が多かったのですが)。しかし今では、ワクチン義務化を肯定する声はほとんど聞かれず、私の意見も平均して九割ほどの人から支持を得られるようになりました。

ただ、それは「多くの人が接種しているにもかかわらず、感染爆発が収まらない」からワクチンに懐疑的な人が増えただけであって、私の考えが浸透しているわけではなさそうです。これでは今後新たなパンデミックが起きた時に、同じことが繰り返されるだけです。

この問題は、このまま有耶無耶にしてはいけないと思います。

パンデミックの混乱の中で、我々の民主主義、人権が脅かされていたという事実を直視し、これからの教訓にしていかなければなりません。

 

長文失礼いたしました。

かなり踏み込んだ内容で、ショックを受ける人もいるかもしれませんが……

私のことが嫌いになっても、幻想歴史資料館のことは嫌いにならないでください。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

YouTubeにてビジュアルノベル版『宝永の乱』を公開!

YouTubeにて『宝永の乱』のビジュアルノベル版を公開しました!

↓こちらがそのチャンネルです。
【幻想歴史資料館〜ナマオの館〜】 youtube.com/channel/UCm9pO4LD654lpC3XT6g-fSg

イラスト、立ち絵、BGM、ボイス(一部のみ)が付いたノベルゲーム風動画です。元々は漫画にしたくて描き始めた作品なので、これが一番自分に合った表現の形だと思います。
目と耳と文字で作品を楽しんでいただければと思います!

作家のタイプ

カクヨム近況ノートのやり取りより。

最近、自分の物書きとしてのあり方をまた考えるようになったのですが、物書きには二つのタイプがあるんだと思います。
一つはとにかく書くのが好き、話を作るのが好きで、読者を楽しませることに喜びを感じるタイプ。
こちらは流行に合わせて柔軟に話を作ることができ、文章術やストーリー手法の学習意欲も旺盛。力がつけば面白い作品を量産できるので、プロ作家になりやすい。(特に作品が多いことは新人賞でかなり有利)
そしてもう一つは、書きたいものがすでにあって、それを(自分の納得できる)形にしたいタイプ。
はい、私です笑
「この作品じゃなきゃダメ」という気持ちがあり、自分の気持ちと乖離した作品を書いて仮に書籍化したとしても、多分あまり嬉しくないです。
本命を至高の作品に仕上げたいという一心で続けてきたので、「小説家になりたい」とはちょっと違います。より多くの人に読まれるためには、やはり書籍化(それも有名誌での漫画化まで)を目指さなければなりませんが。
前者のようなやり方で書籍化作品を出してから、肩書きを利用して本命を売り込むのが正解なのかな……とは思います。
ただ、書きたくない作品を書くのは自分の気持ち的にどうなのか……徒労に終わるかもしれないし、そんな時間あったら先に書きたい方を仕上げてしまいたい……という葛藤で身動きが取れない状態です。

追記

元々、読み手としてもかなりの偏食で、プロの作品でもほとんど読める作品がありません。そんな中で私の心を動かすのは、決まって後者の作品でした。

後者は流行と無縁な分、作者が描きたいものをひたすら突き詰めたものに仕上がります。なので時代や流行が移り変わっても、良くも悪くも魅力は変わりません。

プロとしてやって行くには難易度は高いですが、不朽の名作を生み出すポテンシャルは後者の方が高いのではないでしょうか。

新人賞の振り返り/予告

昨日、「集英社ライトノベル新人賞」の二次選考結果が発表されました。
ブログ限定で公開していた『パルテミラ』での応募でしたが、結果は残念ながら二次選考落ちです。
今までは長編一本しか書いておらず、新人賞に応募することさえできなかったので、初めて土俵に立てたという点では大きな進歩ではあります。
ただ……進歩と言えば進歩なのですが、これから先どうしていけばいいのか、途方に暮れているのが実際の所です。
『パルテミラ』は自分の人生経験や思想、溜め込んでいた歴史上の小ネタ、4年分の執筆経験……まさに持てるものすべてを注ぎ込んだ渾身の力作でした。狙って書けるものではありません。自分の書きたかったものを書いて、たまたま応募に適した中編にまとまっただけの話です。
なので、「よし次!」とはならないんです。
書きたい話があるから書いているわけであって、プロ作家になるために書くというのは私のやり方ではありません。
なので次に『パルテミラ』のような応募できる形の作品を書くのは、『宝永の乱』を差し置いても書きたい話ができてからになるでしょう。
(しかし未完の長編を延々と書いていても、プロへの道が遠ざかるばかりなのもまた事実……)
この性格は、やはりプロ作家には向いていないようです笑
でも創作に没頭する時間を確保するためには、やはり書籍化して収入を得るのが一番ですから、プロ作家にはなりたいんです。贅沢な話ですが。
現時点で、その唯一の希望が『パルテミラ』でした。
まあ、他の賞にも回せるので、あまり落ち込みすぎることはないのですが、やはり悔しい……
フリーターになってまで、短期決戦のつもりで創作活動に励んでいましたが、この敗北でいよいよ方針転換を考えなければならなくなりました。

Twitterでも少し書きましたが、特殊な書き方や主人公の癖の強さが仇になったようです。プロローグとエピローグだけ三人称だったり、ベテルギウスの地の文が誤解を招いたり(ベテルギウス命名の技名がぞろぞろ出てきた部分……あれ、ネタだって気付いてもらえなかったようです笑)
本当に、「え? そんなこと?」と思うような指摘しかなく、それ以外はありがたい言葉ばかりで……作品へのダメージは皆無なのに、落選のショックが……

結果は残念でしたが、今回応募した賞はかなり好感触でした。特に気に入った点が二点ありまして、
まず募集要項に「応募作品の著作権は応募者に帰属します」って書いてあったこと。細かいことですが、こうもはっきり書いてくれると、安心して応募できます。
実際は他の賞も著作権は尊重してくれると思いますが、「版権は出版社に帰属します」って書いてあるものしか見たことがなかったので、地味にモヤモヤしていました。
そしてもう一つが、一次選考通過作品は希望すれば評価シートが送られるということ。
落選しても、選考担当者視点の評価が見れるのはありがたいです。

今回の応募で、新人賞にかなり可能性を感じました。
二次選考を突破して残ったのが30作。ネット小説サイトで埋もれる率を考えれば、比べ物にならないくらいチャンスがあります。
また今回のは募集要項を見た感じだと、選考担当者は恐らく各段階で一人(最終選考は複数人)。相性次第では全然あり得るんじゃないかと思います。
応募できる作品が複数あれば、どれだけ心強いことか……

【予告】
ブログ限定で公開していた『パルテミラ』を、近日中にカクヨムでも公開しようと思います。一話あたりの字数が多いので、ところどころ分割しての投稿になるかと思います。
これからもよろしくお願いいたします!

『宝永の乱』第二部公開のお知らせ

カクヨムにて『宝永の乱』の連載を再開しました。
第二部開始です!
漫画化作業と並行しての執筆になるので、更新はかなり遅くなりますが、お付き合いいただければと思います。

なお『パルテミラ』については、新人賞の結果が出てからカクヨムで連載する予定です。このままブログのみになる可能性もありますが。

『宝永の乱』再開にあたって思うこと~作家である以前に思想家であれ~

※今日はちょっとデリケートな話になります。控えめに書きますが、苦手な方はスルーしちゃってください。

 

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『宝永の乱』第一部の十四話で、鵺丸のこんな台詞があります。
「たとえ世の為だとしても、侵蝕人を虐げてよいはずがない。彼らの犠牲を当然だと思っているこの世を、儂は変えたいのだ」

最近、この言葉がよく思い起こされます。
というのも、今まさに、世界中でこれに近いことが起きているからです。
人権が尊重されている現代で、こんなことが起きていることが信じられません。
公共の福祉を盾に、人の生命権すら踏みにじるようなことが、あろうことか民主主義国家で起きています。
幸いにも日本は、それはいけないと政府が公言してくれていますが……
世界中でこんな流れになっていることには、ショックを通り越して憤りすら感じています。
公共の福祉のために我慢しなければいけないことがあるのは分かります。しかし生命に関わるところだけは、公共の福祉であっても決して侵してはならない領域だと私は考えています。
たとえそれで救われる命があったとしても、体を差し出せというのはおかしいです。

言いたいことは山ほどありますが、この辺にしておきます。
本来ここで話すべきことではないと思うので、かなり遠回しな書き方をしました。分かりづらくてすみません。
ですが、分かる人には分かってもらえたかと思います。

私は今世の中で起きていることを、『宝永の乱』に重ねています。
いろいろと激しい感情が渦巻いています。
でも、それがむしろモチベーションになっているところがあります。
こんな世の中だからこそ、なおのこと『宝永の乱』を書く価値があると。

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以上、デリケートな話でした。

作家が自分の政治的立場や社会思想を打ち明けることは、結構リスクのあることだと思います。
炎上はまだいいとして、作品にまで批判が及ぶのが作家としては一番怖い。

でも、作品には少なからず作者の思想が反映されるものだと思いますし(特に歴史系は)、その方が作品に深みが出るのではないかとも思います。
私がここに書いた考えも、『宝永の乱』に反映されていることなので(まさか現実になるとは思っていませんでしたが)、今日は思い切って書いてみました。

私の書く作品って、結構自分の思想や経験が強く反映されています。
ずっと前に漫画のネーム(今思えば、スッカラカンな内容でした。ページ数を守ることしか頭になかった)を出版社に持ち込んだことがあって、その時に「なにかテーマ性を持たせるといい」と言われました。
ただそれだけなんですが、それから結構意識するようになりました。
それまでの『宝永の乱』は世界観しか見どころがなく、侵蝕にも深い意味はありませんでした(あんまり覚えてないけど)。
それが「侵蝕人を救う」というテーマを得たことによって、ようやく本物の作品になったと思っています。
別に、無理にテーマ性を持たせなくても、面白ければいいとは思いますが――単なる娯楽で終わらせたくないという気持ちが、今はあります。
物語が書かずにいられないのと一緒で、心の中にしまっておけない気持ちや考えが、やっぱりあるんです。だから物語に組み込んで表現する。
そして読者が共感したり、考えたりするきっかけになれば、作品を作った甲斐があるというものです。
(パルテミラなんかは、世界観と思想が上手く絡み合って物語にまとまった感じで、その意味でも大満足の作品でした)
いつからか、私は自分にこう言い聞かせるようになりました。

作家である以前に、思想家であれ――

活動報告/今後の展望~漫画原作者改め~

ご無沙汰です!
ここ一年近く、中編小説『パルテミラ~砂漠の妖精帝国~』の執筆に集中するため、カクヨムでの執筆活動はお休みしておりました。このほど、パルテミラが完結いたしましたので、ご報告申し上げます!
『パルテミラ~砂漠の妖精帝国~』はブログの方で掲載しております。
カクヨムでの連載はあと半年ほどお待ちください。一応新人賞の結果を待ってからにしたいので(長い……)。

さて、気分転換(一年間……)の小説が完結したので、メインだった『宝永の乱』の執筆に戻りたいところですが、これまでと大きく変わるところがありまして、
「漫画原作者」の肩書きは今日で捨てることにします。
そしてこれからは「漫画家」(時々小説家……)として活動していきたいと思います。

元々、『宝永の乱』は漫画にしたくて作り始めたもので、これまでは「漫画だと後々修正が大変そう」「今から練習しても漫画家にはなれない」などという理由で、自分で漫画にすることをためらっていました。
その代わりに2016年から4年間、小説として書いてきましたが、元々文章を書くのは大の苦手で、今でも執筆が思うように進みません。『パルテミラ』の執筆で、ようやく書くことの楽しさを覚えたところではありますが、やはり筆力には限界を感じております。
なのでこれからは、『宝永の乱』を漫画として描いていきたいと思います。絵を描くことは好きなので、時間を掛けてでも、下手でもいいので、とにかく漫画として描いてみようと思います。

漫画って、連載の中で後付け設定が出てきたり、矛盾が出てきたり、当初の予定を変更したりということが結構多いですよね。でもそれは暗黙の了解みたいなもので、「面白ければいい」というのが実際のところだと思います(度が過ぎれば面白さ半減ですけどね)。
なので自分も、史実(小説版)をもとにした漫画という体で、細かいことを気にせずに「面白さ」に重点を置いていこうかなと。
そしたら「修正しなきゃ」という気も起きないでしょうから、漫画を描かない理由がなくなります。画力は、何とかなる気がする……笑

まったく小説を書かなくなるわけではないので、そこはご安心ください。噴煙シリーズの短編や中編をたまに書くかもしれません。
『宝永の乱』の方も、漫画にするための「下書き」くらいの開き直った気持ちで書くつもりではいます(意外とその方がいい文章がすらすら書けるかも……?)。
漫画で長編、小説で短編・中編って感じかな……詳しいことはまだ決まっていませんが、とりあえず『パルテミラ』の表紙イラスト、四コマ漫画で絵のリハビリして、まずはそこからですね。

【追記】
実は『パルテミラ』が完結したあたりから、家庭環境が急激に悪化しています。ちょうど創作活動がひと段落したところで、生活を立て直すべき時が来たようです。
家の中に「人がいる」と感じると、どうも落ち着きません。このままだと、今の家にはいられなくなるかもしれません。そろそろ引っ越しも視野に入れないと……

噴煙シリーズ

(カクヨム近況ノートより)

ブログで先行公開中の『パルテミラ』ですが、ストックが無くなりそうなので、次回更新は少し遅くなるかもしれません(いつの間にか、隔週で更新してましたね)。
最終話まで書き上げてからがいいのかもしれませんが、早く公開したい気持ちもあるので、二、三話分書き溜めてからにする予定です。

【噴煙シリーズ】
当初は、漫画原作の『宝永の乱』に作家人生を捧げるつもりでいました。
それが今は、完結作品を持たないとヤバイ……ということで、中編のスピンオフ作品を書き始めています。(しかも本編との関連性が比較的薄い……)
方針は変わったのでしょうか?
変わるには変わりました。でもよくよく考えたら、ただスケールが大きくなっただけなんですよね笑

『宝永の乱』の構想を膨らませていく中で、それと対になるもう一つの長編の物語が徐々に形を持つようになりました。
まだ詳しいことは話せません(そもそもまだ構想途中だし)が、『宝永の乱』を妖峰戦記と呼ぶならば、それは魔峰戦記です。
この魔峰戦記のスピンオフが、『パルテミラ』なのです(実は作中に、チラリと魔峰戦記について触れている場面が)。

つまり、私の新しい方針は、
「妖峰戦記と魔峰戦記――二つの大長編と、その世界観を引き継いだ作品群に、作家人生を捧げる」
ということになります。

果たして完結するのだろうか。
特に魔峰戦記の方は、幻の作品と化しそう……笑

これらの作品群は「噴煙シリーズ」と心の中で呼んでいました。とりあえず、そのままで呼ぶことにします。

創作とゲーム

(カクヨム近況ノートより)

ここ一ヶ月くらいの間、ゲーム中毒で執筆が滞っていました(なにやってんだか……)。
五年近くも細々と続けていたゲームがサービス終了して、その穴埋めにと始めたものでした。
ローマをテーマにしたシミュレーションゲームで、パルテミラのモデルになった国も出てきます(昔っからゲームをやり出すと止まらないので、時間が掛かるもの、ハマり過ぎるものは避けてきましたが、こういった自分の作品と関連性のあるものは許容しています)。
先月からアプリ制限の機能で抑え込もうとしたのですが、制限を破って続けてしまう有様で、昨日完全クリアが叶い、ようやく衝動がなくなったところです(他のモードもありますが、おまけみたいなものなのでゆっくり遊べるはず)。

新作開始で勢いに乗っていた時期でのこれは、なかなかの大惨事だと思います。
でもこれまでを振り返れば、ゲームはそれ以上の恩恵を、私の創作活動にもたらしています。
『宝永の乱』は、高校生時代に熱中した和風ダークファンタジーゲームの影響を、『ナルト』に負けないぐらい受けていますし、
去年までの一年間ハマっていた放置系RPGは、パルテミラの世界観構築に一役買っています。ベテルギウスの語り口も、ゲーム内チャットでジョークを言っているうちに醸成されたものだと思います。さらに去年、友達に誘われて始めたゲームは、ジェロブとエミールのキャラデザの元になっていたり……

とは言え、執筆に集中できなくては本末転倒ですね。
もっといいやり方はあるかもしれませんが、中毒に陥ってしまった時、私は納得が行くまでやることで衝動を抑えるようにしています(あるいは、やるメリットがないと言い聞かせてアプリを消す)。モヤモヤしながら小説を書いても、やっつけ仕事になってしまいそうなので。
今回、無事にこの段階まで持って行くことができました。
これからは本腰入れて書いて行きたいです。
ちょうど先月、仕事を一つ辞めたので、これからはその時間に絵を描いて、他で小説を書くスタイルでやっていこうと思います。

あ、でも今月中旬までは本業が繁忙期だ(今の仕事は楽しいからいいんだけど)。

 

文脈を作らない書き方/新作公開のお知らせ

御無沙汰です!
現在、新作の第五章(一章=一話で書いています)が終盤に差し掛かったところですが、書き始めてから一ヶ月くらい掛かってしまっています。計画的二度寝作戦(早く寝て、深夜に起きて、目標分まで書いて寝る!笑)でなんとか詰まっていた場面を切り抜けました。

遅筆を改善するために、最近は主に生活習慣を見直しているところですが、書き方についてもまた少し思うところがあったので、今日はそれを書きます。

【文脈を作らない書き方】
文章を書いていて、いざ読み返してみると「なんか違うな」と思うことがあります。
文法がおかしいわけでもない。単調なわけでもない。延々と悩んで書いては消して、それが原因で書くのが嫌になってしまうことが、結構多いように感じます(違和感があってもとにかく書き進めるやり方がよく推奨されていますが、私の場合は全部書き直す羽目になりそうで……笑)。
そこで思いついた対処法が、地の文に「文脈を作らない」ことです。
私の場合、書きたいことを無理に詰め込もうとするので、文脈に歪みが生じるのだと思います。
ならば最初から文脈がなければいいじゃないか、というわけです。
「文脈を作らない」なんて、そんなことできるのかと思われるでしょうが……例えば漫画なんかは文脈がなくても成立しています。つまり、漫画で表現できること――情景描写に絞って書くということです。

実はこれ、以前二回にわたって話した「情緒的な文章」なんじゃないかと思います。
情緒的な文章は理路整然としているわけではないけれど、余計なことに頭を使わなくていい分、心地良く感じる――なんてことを書きましたね。
文脈を生まない、絵的に表現できる文章は「ふ~ん」で流せますが、
そうでない――思考や知識が絡んだ文章が出てくると、読者はそれが出てきた意味を考えます。なのに意味を持たせないままにしてしまうと、もやもやが残り、違和感となるでしょう。作者としてはその一文を書きたかっただけで、これといった意味はないのですが笑
どうしても書きたければ、会話文にさりげなく入れたり、地の文に入れるならちゃんと話の中での意味を持たせるか、ただの豆知識だよと分かる形にする必要があるかと思います。

「文脈を作らない」書き方は、文章の美醜を問わなければすらすら書けてしまいます。
特に新作の場合は一人称なので、多少は雑に書けます。むしろそれが主人公の魅力を引き立たせることも。
もちろん文脈を作るところは作ります。書き出しなんかは特に、状況説明や豆知識から入ると読者も物語に入りやすいと思います。作者からすれば、書き出しは書き損ねた豆知識を書くチャンスでもあるかと(前後の繋がりをほぼ無視できるから)。要はバランスですね。

ということで、詰まった時は「文脈を作らない」書き方を意識してみようかと思います。
なんだか一人称を書くようになってから、いわゆる「情緒的な文章」を書く頻度がかなり多くなった気がします。『宝永の乱』に戻った時、どうなるんだろうか。

【新作公開のお知らせ】
個人ブログ『幻想歴史資料館~ナマオの館~』にて、プロローグまでを公開しました(と言っても、プロローグはすでに近況ノートで公開してますがね笑)。
本当なら第六章まで書き上げてから公開する予定でしたが、これ以上遅らせるわけにもいかないので、とりあえず。
まあ二月中に第六章が書き上がれば、予定通りと言えなくもない。