第2章:カルデアの戦い

 荒野に響き渡る異国の笛の音。
 鹿のような動物にまたがり、飛ぶように駆け回る女の騎士たち。
 神々しさすら感じられる出で立ちだった。緑と純白に彩られた軍服が、陽光を受けて鮮やかに光り輝いている。パルテミラ帝国軍本隊のお出ましだ。
 オレたちはその荘厳な雰囲気に、完全に呑まれていた。
 大軍が待ち構えていたことで、恐慌に陥った者も多かったのだろう。号令も掛からないうちに、大ローマ帝国軍は進軍の足を止めてしまった。
 ようやく動きがあったのは、パルテミラの軽騎兵がまさに背後に回り込もうとしていた時のことだった。ローマ軍中央の歩兵部隊は、横陣から方陣に組み直そうとしているようだったが、間に合いそうもない。
 オレは自分のやるべきことを思い出し、部下たちに呼び掛けた。
「迎撃しろ! 歩兵の背後を取らせるな!」
 おう、と頼もしい喊声がふきあがり、オレたちスパルタクス騎兵は駆け出した。
 迎撃というよりは、背後に回り込もうとする軽騎兵を追うような形だった。
 それほどに、パルテミラの軽騎兵は速かった。
 だが速いと言っても、内から回るのと外から回るのとでは大違いだ。オレたちはなんとか、敵と並走するところまで追い付くことができた。
 そのまま、歩兵から遠ざけるように圧力をかけていく。
 近くで見るパルテミラの軽騎兵は、思っていた以上に華奢だった。
 正面からぶつかれば、鹿もろとも吹き飛ばせそうだ。
 むろん、簡単には近寄らせてもらえそうもないが……
 それにしても、こいつらの平衡感覚は一体どうなってんだ?
 あの鹿みたいな動物――確かに速いが、揺れが大き過ぎてとても人が乗れたものじゃない。オレでも多分、三十秒と持たずに吹っ飛ばされるだろう。
 そんなことを考えていると、奴らは疾走の速度そのままに、一斉に弓を引き始めた。
 おいおい、嘘だろ……!?
 射ってきた。
 弓を装備しているから当然と言えばそうなのだが、せいぜい止まってから射つものだとばかり思っていた。あんな乗物に揺られながら両手を離すなんて、正気じゃない。
 オレは盾で防ぐことができたが、部下の何人かは、馬体に矢を受けて脱落した。
 これはまずい。奴らは、オレたちの剣が届かないところから、一方的に矢を射かけることができる。このまま追いかけっこを続けていても、無為に兵を死なせるだけだ。
 右翼の方では、もっとまずいことが起きていた。重騎兵カタフラクトを追っていたプブリウスが、まだ戻って来れていない。そのせいで、パルテミラの軽騎兵はやりたい放題だった。
 幸い、この時にはもう、中央歩兵部隊の方陣はほとんどできあがっていた。この陣形ならば、どこから騎兵が突っ込んできても耐えられるだろう。
 オレは一旦、その方陣の内側に退避することにした。
 方陣が完成するまでの時間稼ぎができただけでも、今はよしとしよう。
 中に入ると、プブリウスの騎兵部隊もそこにいた。ほとんど無傷なのが妙に腹立たしい。
 改めて、周囲を見渡す。
 四方八方、鹿、鹿、鹿だらけ。オレたちは完全に包囲されていた。
 しかしこの時点では、ローマ軍の多くがまだ心に余裕を持っていたようだ。
 多分、敵の包囲の輪が薄かったからだろう。
 見たところ、パルテミラ軍の数は五千から八千程度。大軍と言えなくもないが、四万を超えるローマ軍に比べれば可愛く見えるだろう。
 だがさっきの戦闘で、オレは知った。奴らが見た目ほどに可愛くないということを。
 ローマ兵たちも、すぐに思い知ることになった。
 奥の方では、最高指揮官のクラウススが、兵を鼓舞している。
「恐れることはない! 相手は女だ! 数でもこちらが圧倒して――」
「ぎゃぁああああ!?」
 その声が、断末魔の悲鳴に掻き消された。
 軽騎兵の放った矢が、ローマ兵の眼窩に突き立ったのだ。
 それを皮切りに、空を埋め尽くすほどの矢が、方陣の全周から注ぎ込まれた。
 ローマ軍の主力は大盾スクトゥムを装備した重装歩兵。多少の矢はものともしないが、流石に五千を超える射手から間断なく放たれる矢を、すべて防ぎきることはできなかった。
 ある矢は盾の隙間を通り抜け、またある矢は盾を貫通した。
 ローマ軍も矢や投槍ピルムで反撃するが、まったく届かない。
 果敢に追いかけた者も、振り向きざまの騎射で削られて逃げ帰る始末だった。
「盾を掲げよ! テストゥドの隊形を組め!」
 悲しいほどになすすべがないこの状況で、クラウススは新たな指示を出した。
 大盾スクトゥムで周囲を固めた、防御特化の密集隊形――テストゥド。
 これで矢の雨が止むのを待つらしい。
 なるほどな。なすすべがないなら、ないなりの戦い方がある。
 弓や投槍ピルムを使った遠距離戦から始まり、その後白兵戦に移行していくのが戦の常道だ。
 今は遠距離戦で完敗しているが、いずれ矢が尽きれば、パルテミラ軍も白兵戦で決着をつけるしかない。その時が勝負だ。
 今は耐える時。
 しかし、どれだけ待っても、勝負の時というものは来なかった。

 反撃がなくなったのをいいことに、至近距離から矢を射かけるパルテミラ軽騎兵。
 矢は次々と盾を貫通し、ローマ軍の戦力を外から徐々に削り取っていった。
 テストゥドを組んだからと言って、盾の強度が上がるわけでもないのだ。
 そして時とともに、暑さに倒れる者も増えていった。
 この炎天下で、重装備で身を固めて密集隊形を維持するのは、地獄の苦しみだった。
 戦が始まる前から、勝敗が決まっていたようなものだった。まともな戦闘すらさせてもらえないまま、地中海最強を誇った大ローマ帝国軍は、ゆっくりと敗北に向かっていた。
 冗談じゃない……!
 オレはもうほとんど諦めていた。
 この一ヶ月半の苦労は、一体なんだったんだ!?
 海路で行くはずが嵐に遭って難破し、仕方なく北から迂回して陸路を行く羽目になり、ようやくパルテミラ領に入ったと思えば砂漠の横断行。挙句にはこのザマか。
 天を仰ぐオレの横では、クラウススとその息子が、まだ諦めずに打開策を練っていた。
「奴ら……まさか、最初からこうするつもりで、大量の矢を用意していたのだろうか」
「そのようで。先程から、軽騎兵があの丘の辺りを行き来しているのが目に付きます。恐らく、あそこに補給部隊を隠しているのでしょう」
 それから息子プブリウスは、続けて進言した。
「父上、出撃の許可をください! 私が様子を見て参ります!」
「ならぬ! 今外に出るのは危険だ! 出たところで、なにができるのかも分からぬというのに」
「では、このまま我が軍が壊滅するまで待てというのですか!?」
「分かった。ならばベテルギウスに行かせよう」
 ざけんなクラウスス! オレを捨て駒みたいに……!
「いいえ、ベテルギウスの隊は負傷者が多く使いものになりません。私が行きます!」
 プブリウスてめぇ! オレらが弱いみたいに……!
 かくして、プブリウスの騎兵部隊が、一縷の望みをかけて出撃することになった。

     *  *  *

 プブリウスはすぐに戦果を挙げた。
 なんと、軽騎兵の一団に追いつき、潰走させたのだ。
 ずっと走り回っていたパルテミラ軽騎兵に対し、プブリウスの騎兵は方陣の中で体力を温存していた。この違いが、機動力の差を埋めたのだ。
 なにもできなかったことが、思いがけなくも幸運を引き寄せたのだった。
 予想を遥かに超えるプブリウスの活躍に、熱射と矢に打ちひしがれて陰鬱に沈んでいたローマ軍が、一気に沸き立った。
 これはいける――オレも一瞬そう思った。
 だがプブリウスが丘の向こうへ消えたところで、オレはハッとなった。
 なんだこの感じは?
 事は上手く運んでいるのに、なにか間違った方へ進んでいるような――
 そうだ、これは既視感!
 逃げる敵を追うプブリウス。最初にパルテミラ軍と遭遇した時と、重なる光景だ。
 間もなく、オレの嫌な予感は的中することとなった。
 それは、クラウススが乱れた隊列を整えている最中のことだった。
 丘の方から角笛の音が高々と鳴り響き、追い散らされたパルテミラの軽騎兵が続々と戻ってきた。
 少し遅れて、序盤以降姿が見えなかった重騎兵も丘の上に現れる。
 オレたちは、最後の希望が潰えたことを悟った。
 そして駆け下りてきた女騎士が、方陣の中に丸い物体を投げ込んだことで、それは確信へと変わる。
 投げ込まれたのは――
「! プブリウスゥウウ!?」
 の生首だった。
 息子の変わり果てた姿を目の当たりにし、絶叫するクラウスス。
 その叫び声が、恐怖の波となって、兵たちに伝染していった。
「ヒィ……こ、殺される!」
「うわあああぁん! 死にたくない! 死にたくないよぉ!」
 ローマ軍最大の強みだった団結力が、ここで崩れた。
 そこへパルテミラ軍が総攻撃を仕掛け、戦場は阿鼻叫喚の地獄と化す。
 両翼から軽騎兵が矢を射かけ、中央からは重騎兵カタフラクトが方陣を串刺しにする。
 それに抗うだけの力は、もうローマ軍に残されていなかった。
 こうなったら終わりだ。
 あとは、どう逃げるかだ。
 だがあいにくと、ここは敵国の領土深くの、砂漠とほとんど変わらぬ荒野のど真ん中。果たして生きて帰れる者がどれだけいるのやら。
 どうやら、神聖なオアシスを踏み荒らそうとした、その報いを受ける時が来たようだった。
 理不尽極まりないが、一番重い罰を受けるのは、オレたちスパルタクスの兵だ。
 ローマ兵が全員戦場を離脱するまで、オレたちは残らなければならない。
「お前らぁ! 覚悟はできてるかぁ!?」
 オレは千人の戦友に向けて、最後の檄を飛ばした。
「この戦、大ローマ帝国の負けだ。オレたちは今日ここで死ぬ! だがローマのためじゃない! スパルタクスのために死ぬんだ! 戦士として恥じることのないように、最後まで全力で行くぞ!」
 おう、と男らしい返答があった。
「どこまでもついていきますぜ! ベテルギウス将軍!」
 くぅっ……なんっていい奴らなんだ、お前たちは!
 そうさ、オレたちは腐ってもスパルタクス人。
 戦場で死ぬことこそが最高の栄誉。今さらなにを恐れることがあろうか!
 意外にも、ローマ人たちも徹底抗戦の構えだった。
 敵に背を向けて逃げれば、さらなる大惨事になると踏んでのことだろう。クラウススは総崩れになったはずの軍を、なんとかその場に押しとどめた。敗軍の将ではあるが、あの男も大した奴だ。
 オレの騎兵部隊は、方陣の中に侵入した軽騎兵をいくらか撃退した。
 敵も疲労が溜まっていて、序盤のような勢いはなかったし、数の利を活かした連携で白兵戦に持ち込むこともできた。
 女に剣を向けることに抵抗があった者も、この時には覚悟を決めていた。戦場に立てば男も女も関係ないのだと。
 しかしプブリウスもそうだったように、快進撃は長く続かなかった。
 目の前のことに夢中になり過ぎて、オレはすっかり失念していた。パルテミラ側にも、まだ余力を残した部隊があることを。
 テストゥドの分厚い壁を破って、オレたちの前に立ちはだかったのは、人馬の全身を鉄の鎧で覆った騎兵――そう、重騎兵カタフラクトだった。
「!?」
 その先頭を行く者の姿を見て、オレの思考は停止した。
 指揮官級であることは、一目で分かった。
 他の騎士にはない、大きな緑の外套を纏っている。
 オレの目を奪ったのは、その騎士が被っている黄金の兜だった。
 三本の飾り羽の付いた丸兜から、鎖帷子くさりかたびらが垂れ下がり、口元を除く顔の全体を覆っている。暗くなっている目元が、こちらを透かし見ているようで、なんとも禍々しい。
 そしてその口元には、ありえないものがあった。
 髭!?
 オレは目を凝らしてもう一度よく見てみたが、間違いない。
 顎下まで垂れ下がる、二筋の見事な口髭が生えていた。
 どういうことだ?
 パルテミラには、男の騎士もいるというのか?
 いやしかし、それにしては胸が大きいような……
 男臭い女ばかりのスパルタクスでも、流石に髭を生やした女はいなかった。男のオレですら生えていない。こいつは一体……
 胸の膨らみを凝視していると、不意にその騎士は槍を構えて突進してきた。
 雷光の閃きにも似た鋭さだった。
 オレは顔面めがけて繰り出されたその突きを、間一髪、上体をのけぞらせてかわした。
 続く打ち込みは盾で防いだ。骨にまで響く、凄まじい衝撃だった。
 その騎士はオレと並ぶくらいには長身と言えたが、重厚な装甲の上から見ても、体の線は細い。どこからそんな力が湧いてくるのだろうか。
 オレも人のこと言えねぇけどな!
 髭騎士の猛撃をしばらく盾で凌ぎ、慣れてきたところでオレは反撃に出た。
 盾で押し込むように距離を詰め、「ハアッ!」と気迫の息を吐き出しながら長剣を薙ぎ込む。
 が、その渾身の一撃は、振り上げた槍に弾き返され、髭騎士には届かなかった。
 威圧を感じるほどの重装備からは、想像もつかないほどの軽快な槍捌きで、髭騎士にはまったく隙がない。妙な兜のおかげで目線が分からないのも影響しただろう。それから二十合ほど打ち合ったが、オレはほとんど防戦一方だった。たまらずに距離を取り、息を整える。
 相手にとって不足なし。
 オレはついてるぜ。人生最後の戦でこんな好敵手に巡り会えるなんてな。
 せっかくだ。決着を急ぐことはない。もったいぶって行こう。
「あんた、名はなんて言うんだ?」
 オレの問いに、髭騎士はそっけなく応じた。
「パルテミラ帝国将軍――ヴェルダアース」
 それは女の声だった。
 女にしてはやや低めだが、耳にいつまでも残るような、しゃがれた声。
 口髭の下からこぼれ出た意外な美声に、オレは意表を突かれた。
 その隙を、ヴェルダアースは見逃さなかった。
 一気に馬を駆け寄せ、動揺の収まらないオレに、怒涛の連撃を浴びせる。
「ちょっ、待っ……オレの名はベテ――」

 オレの意識はそこで途絶えた――

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