――ベテルギウスの手記――
銀砂を撒き散らしたような――満天の星空。
故郷と変わらぬ景色を眺めながら、オレはため息をついた。こうしている間だけは、ここが遠い異国の地であることを忘れられる。
本当に、とんでもない遠征に付き合わされたものだ。
ローマ軍に合流してから一ヶ月半。オレたちは、ほとんどずっと歩き通しだった。
しかもエウフラーテス川を渡ってからはずっと砂漠の中だ。まだ五月だというのに、信じられない暑さだった。死にそうだったから、軍議中に寝落ちした。だからこうして早く帰されているわけだ。
オレの名はベテルギウス。
大ローマ帝国属州スパルタクスの、期待の新星だ。
スパルタクスといえば、世界最強の重装歩兵で知られた古豪だ。一時期はトラキヤ世界の覇者にもなったんだが、それが二百年ちょっと前、地中海で力を付けてきた大ローマ帝国に敗れて、属州に組み込まれたらしい。
そしてオレは今、その憎きローマの手先となって、さらに東の国を侵略しに行こうとしている。まったく、クソみたいな役を押し付けられたものだ。
出征を渋るオレに、かつての鬼教官――ソグナトゥス将軍がこんなことを言っていた。
―――ブーブー言うな! こうした軍役をこなしてきたからこそ、スパルタクスは特別に自治を認められているのだ!
なるほど、見事に飼い慣らされている。
誇り高きスパルタ戦士がローマの忠犬とは……先祖様が聞いたらわんわん泣くだろうな。
ちなみにオレが選ばれたのは、ローマが騎兵を重要視していたかららしい。敵側は騎兵が強いみたいだしな。
ソグナトゥス将軍の専門はスパルタクスの花形――重装歩兵だから、合わなかったと。どうせ、自分が行きたくないからオレに行かせたんだろうけどな。絶対そうだ。
まあでも、今回の遠征は悪いことばかりではない。
なんたって、遠征先はあのパルテミラ帝国だ。オレの部下の中でも、それを聞いた途端に乗り気になった者が多い。まったく単純な奴らだぜ。
篝火に群がるローマ兵が、ちょうどその話題で盛り上がっていた。
「クラウスス将軍の話じゃ、このまま敵と出くわさなければ、半月以内にはテシオンに着くらしいぞ」
「あの男人禁制の都か……」ニヤついた男が応じる。「前から思ってたんだがよ、女だけでどうやって子孫残してきたんだろな」
「さあてな。他の街に男を漁りに出てるんじゃないのか? クク……まあ、もうすぐその必要もなくなるけどな」
「そうだな。おおし、なんかやる気出てきたぜ」
「いろんな意味でな!? グヘヘヘ……」
くたばれローマ兵ども。グヘヘへ……
心の中で毒づきながら、オレはその場を通り過ぎて行った。
女帝が統べる砂漠の大国――パルテミラ。
男たちが甘い幻想を抱くのも無理はない。いや、女であっても一度は行ってみたいと思うだろう。あの地域は元々美男美女が多いと評判だったからな。
たしか、今の体制になったのは百年ちょっと前のことだ。詳しい経緯はオレも知らないが、どうせ男たちが女を怒らせたんだろう。女たちが反乱を起こして国を乗っ取ったらしい。
それにしても、男人禁制の都か。
美男美女の中から男を締め出したら、美女しか残らないに決まってる。男も女もみんな男臭いスパルタクスと比べたら、まさにオアシスみたいな所なんだろう。
できれば侵略者ではなく、旅行者として行ってみたかった。
悲しいかな、これからオレが見に行くのは、美しいオアシスが、外からやってきた獣に蹂躙される光景だ。
今の大ローマ帝国には、誰も敵いやしない――
* * *
翌朝、オレたちはようやく砂漠を抜けて荒野に出た。
相変わらずの暑さだが、砂と空だけが延々と続く世界に比べればよっぽどマシだ。
川沿いに進めばいいものを、なぜこんな進軍ルートを選んだのか。この遠征の最高指揮官――クラウススによれば、常識外れの進軍ルートを選ぶことで、敵の備えがない所を突く狙いがあったという。
三百年前、アルペン山脈を越えて、大ローマ帝国を滅亡寸前にまで追い込んだヤバい奴がいたらしいが、その戦術を今度はローマが使っているわけだ。
まあ言ってみれば、これがローマの強さの秘訣だ。
数多くの強敵と戦い、敗北を重ねながらも、彼らは敵の優れたところを取り入れ、自分のものにしてきた。
ああクソ! ローマを褒めたら気分が悪くなってきた!
丘の向こう側から偵察部隊が駆け戻ってきたのは、ちょうどその時のことだった。
一騎がクラウススの元へ向かい、それから間もなくして、オレの所にも伝令が飛んできた。
「前方に敵影あり! ただちに戦闘隊形に移行せよ!」
その報せを聞いて、兵たちは狼狽したようだった。
やっとこさ砂漠を越えたところでこれだ。そりゃそうなるよな。オレも油断していた。
しかし、それにしても早過ぎる。砂漠越えは読まれていたのだろうか……?
疑念を抱きながらも、オレは言われた通りに隊を組ませた。
全体の陣形は、中央を歩兵で固め、その両翼を騎兵が守るという、ローマの鉄板スタイルだ。
中央が指揮官のクラウスス率いる歩兵四万。
右翼はその息子プブリウスの騎兵二千。
そして左翼がオレのスパルタクス騎兵一千。
計四万三千の兵力でパルテミラ軍を待ち構える。
ついさっきまでは嫌々だったのに、オレの心はすっかりスパルタ戦士のものに切り替わっていた。さあ来い、パルテミラ!
右翼の方で、ざわめきが起こった。
見れば、丘の上に騎馬の一団が姿を現している。
ここからだと遠過ぎてよく見えないが、あのテカテカ具合は多分重騎兵だ。
パルテミラの前の時代の王国は、重騎兵が主力だったと聞いている。今もそうなのかは分からないが、クラウススは作戦を練るにあたって、重騎兵を一番警戒していた。そのせいでオレが駆り出される羽目になった。
が、どういうことか、パルテミラ側にはまだ騎兵の姿しか見えなかった。それも、プブリウスの騎兵部隊と見比べるとその半数程度。後続が来る様子もない。
ローマ軍本陣からラッパの音が鳴り響いた。
前進の合図だ。オレはクラウススの歩兵部隊と足並みを揃えて、騎兵を前進させた。
別途指示があったのか、あるいは独断か、この時すでに、右翼プブリウスの騎兵は突撃を敢行していた。
迎え撃つパルテミラ重騎兵。
だが案の定、数の力で押され、すぐに逃げ出してしまった。
他愛ない。ただの偵察部隊か、足止め役だったのだろうか……
プブリウスはそのまま追撃し、後続部隊もつられて前進の足が早まる。
誘い込んでいるように見えなくもなかったが、このような遮蔽物のほとんどない見晴らしのいい荒野では、伏兵、奇計を恐れる必要はないように思えた。
早くも気が緩み出したのか、背後で、オレの自慢の部下たちが私語を交わす。
「なあ、見えたか!? あれ、全部女の騎士だったぞ!」
「なんだって!? 噂は本当だったのか……!」
ああ、あったな。そんな話。
大ローマ帝国は、まだパルテミラ帝国と一度も戦火を交えていない。ここ百年の間は、ローマも何度か内乱があったし、七年前なんかは魔峰ヴェシモス山が大噴火して、戦争どころじゃなかった。
だからこれは、他国から流れてきた噂に過ぎないのだが――
パルテミラ帝国の兵は、ほとんどが女の戦士らしい。
まあ、そうだろうな。
首都が男人禁制になるくらい、女が偉い国なんだ。女のための国を男が命を張って守るだなんて、虫が良過ぎる。
女の戦士だけで、どうやって他国の男の戦士に立ち向かうのか、甚だ疑問だが……確かなのは、パルテミラの女たちは、旧王国の男たちに戦争で勝って、今の帝国を作り上げたということだ。
オレの愛すべき部下たちは、相も変わらずおしゃべりを続けている。
「女相手だとどうもやり辛ぇな……スパルタクスの男として、女に剣は向けられねぇよ」
ああ、分かるぜその気持ち。
だがな――
お前ら、気が緩みすぎだ! もう戦は始まってるんだぞ!
そう、叱り飛ばそうとしたその時――どこからともなく、角笛の音がオレの耳に飛び込んできた。
ローマ軍のものではない。
その音に反応したのは、丘の陰に身を潜めていた者たちだった。
一斉に立ち上がった白い軍旗が、陽の光を反射してオレたちの目を眩ませる。
そして次の瞬間、丘の上から、夥しい数の騎兵が駆け下りてきた。
緑と白を基調とした軍服に、弓を装備した軽騎兵。
聞いた通りだ。オレのへなちょこな目でも、そいつらがすべて女の戦士であることが分かった。
しかし中でもオレの目を引いたのは、女たちが乗っている動物だった。
二本の長い角を持った、鹿のような動物――なんて言うんだ? あれは……?
とにかく、恐ろしい速さだった。
オレたちがあっけに取られているうちに、軽騎兵は半ばローマ軍を包囲してしまった。
その時になって、オレはもう一つ、パルテミラにまつわる、ある伝説を思い出した。
遥か昔、この地には鹿に乗った戦士がいたという。
その美しい出で立ちと、鮮やかな弓術から、彼らは古い伝承にちなんでこう呼ばれていた。
砂漠の妖精と――
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