『宝永の乱』再開にあたって思うこと~作家である以前に思想家であれ~

※今日はちょっとデリケートな話になります。控えめに書きますが、苦手な方はスルーしちゃってください。

 

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『宝永の乱』第一部の十四話で、鵺丸のこんな台詞があります。
「たとえ世の為だとしても、侵蝕人を虐げてよいはずがない。彼らの犠牲を当然だと思っているこの世を、儂は変えたいのだ」

最近、この言葉がよく思い起こされます。
というのも、今まさに、世界中でこれに近いことが起きているからです。
人権が尊重されている現代で、こんなことが起きていることが信じられません。
公共の福祉を盾に、人の生命権すら踏みにじるようなことが、あろうことか民主主義国家で起きています。
幸いにも日本は、それはいけないと政府が公言してくれていますが……
世界中でこんな流れになっていることには、ショックを通り越して憤りすら感じています。
公共の福祉のために我慢しなければいけないことがあるのは分かります。しかし生命に関わるところだけは、公共の福祉であっても決して侵してはならない領域だと私は考えています。
たとえそれで救われる命があったとしても、体を差し出せというのはおかしいです。

言いたいことは山ほどありますが、この辺にしておきます。
本来ここで話すべきことではないと思うので、かなり遠回しな書き方をしました。分かりづらくてすみません。
ですが、分かる人には分かってもらえたかと思います。

私は今世の中で起きていることを、『宝永の乱』に重ねています。
いろいろと激しい感情が渦巻いています。
でも、それがむしろモチベーションになっているところがあります。
こんな世の中だからこそ、なおのこと『宝永の乱』を書く価値があると。

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以上、デリケートな話でした。

作家が自分の政治的立場や社会思想を打ち明けることは、結構リスクのあることだと思います。
炎上はまだいいとして、作品にまで批判が及ぶのが作家としては一番怖い。

でも、作品には少なからず作者の思想が反映されるものだと思いますし(特に歴史系は)、その方が作品に深みが出るのではないかとも思います。
私がここに書いた考えも、『宝永の乱』に反映されていることなので(まさか現実になるとは思っていませんでしたが)、今日は思い切って書いてみました。

私の書く作品って、結構自分の思想や経験が強く反映されています。
ずっと前に漫画のネーム(今思えば、スッカラカンな内容でした。ページ数を守ることしか頭になかった)を出版社に持ち込んだことがあって、その時に「なにかテーマ性を持たせるといい」と言われました。
ただそれだけなんですが、それから結構意識するようになりました。
それまでの『宝永の乱』は世界観しか見どころがなく、侵蝕にも深い意味はありませんでした(あんまり覚えてないけど)。
それが「侵蝕人を救う」というテーマを得たことによって、ようやく本物の作品になったと思っています。
別に、無理にテーマ性を持たせなくても、面白ければいいとは思いますが――単なる娯楽で終わらせたくないという気持ちが、今はあります。
物語が書かずにいられないのと一緒で、心の中にしまっておけない気持ちや考えが、やっぱりあるんです。だから物語に組み込んで表現する。
そして読者が共感したり、考えたりするきっかけになれば、作品を作った甲斐があるというものです。
(パルテミラなんかは、世界観と思想が上手く絡み合って物語にまとまった感じで、その意味でも大満足の作品でした)
いつからか、私は自分にこう言い聞かせるようになりました。

作家である以前に、思想家であれ――

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