第56話:風流の術士

「なっ……!?」
 驚きの声を上げたのは、笹暮だった。
 それからすぐに、広間全体が蜂の巣をつついたような騒ぎになる。
「言われてみれば確かに……あの茶色い髪は九鬼の特徴だ」
「九鬼だと!? なぜ鴉天狗にそんな者が?」
 ただ驚いているだけならばいいのだが、中には敵意を含んだ目を影狼に向ける者もいた。
 ―――なんだよこれ……なんなんだよ一体!?
 影狼には分からなかった。柘榴がなぜこんな時に九鬼の名を出したのかも、大名たちが騒ぐ理由も。
「影狼」笹暮が恐る恐る尋ねる。「君は本当に、九鬼家の血を引いているのか?」
「……はい」
「どうしてそんな大事なことを黙っていたのだ?」
「だって……九鬼家はもうなくなったって」
 そう柘榴から聞いていたのだが――
「確かにその通りだ。だがそれは元の領地を失っただけで、勢力が完全に失われたわけではない」笹暮は少しの間考え、「皇国の他にも、東国同盟に敵対する勢力があるのは知っているか?」
「越後国と……駿河国?」
「そう。その駿河国を治めているのが九鬼家だ」
「えっ……」
 かなりまずい状況になっていることを、影狼は悟った。
 つまり影狼は、東国同盟と二重の敵対関係にあるのだ。特に一国が丸々離反している九鬼家は、どう考えても許容範囲を超えている。
 完全に盲点だった。そして柘榴はここを容赦なく突いた。
「影狼殿が九鬼の一族であるならば、人質として大いに利用価値があります。この場合は、東国同盟を代表して上野国が預かるべきかと存じますが、いかがでしょう?」
 愉快げに成り行きを見守っていた盟主近藤は、その進言を受けてさらに口角を上げる。
「ククク……人質が勝手に転がり込んで来たわけか。よかろう。影狼はこちらで預かることにする」
 この会合で、彼がどんな人物であるかは影狼もよく分かった。柘榴と同質――いや、もっとたちが悪いかもしれない。そんな男の所へ人質に出されれば、ただでは済まない。鴉天狗のことも揉み消されてしまう。
「盟主様、お待ちください!」笹暮が慌てて抗議する。「九鬼家が、人質になり得る者をあえて敵地に残すでしょうか? 影狼と九鬼家の縁はもう切れているのではありませんか? だとすれば、影狼を人質に取ることに意味はないはずです!」
 笹暮は羽貫衆から影狼を託されている。人質に取られることだけは、なんとしても避けなければならない。
 だが、笹暮と影狼の望みは、思わぬ形で断たれることとなった。
「無意味かどうかは、人質にしてみれば分かることでございましょう」
 そう言ったのは、古代人風の男だった。
「いずれにしても、これは武蔵国一国の都合でどうこうできるものではありません。柘榴殿が言ったように、盟主国である上野国が預かるのが妥当かと思います」
 それは静かな声であったが、誰もがすんなりと受け入れてしまいそうな、不思議な力があった。
 近藤の威圧感が強過ぎて気付きにくいが、実は彼こそがこの会合の真の支配者なのではないかと、影狼は思った。彼の言葉は、そっくりそのまま近藤の最終判断になるのだ。
「そういうことだ」近藤は胡座の足を組み直し、頬杖をついた。「笹暮。お前がなぜそこまで影狼を庇うのか分からんが、あまりしつこいと、下心があるのかと疑ってしまうぞ」
 返す言葉もない。
 鴉天狗に始まった話は、それで終いだった。

     *  *  *

 会合が終わるまで、影狼は席を外していた。
 人質が会合に出るという茶番を避けるため、退席を言い渡されたわけだが、影狼にとってもその方がよかった。あの場にとどまっていたら、どうにかなってしまいそうだった。
 やがて会合を終えた笹暮が、影狼のもとへやって来た。
「すまない影狼……すまない……!」
 あまりにもあっけない幕引き。まったく想定していなかった事態を前にして、笹暮はどうすることもできなかった。影狼にどんな言葉を掛けてやればよいのかも分からず、己の情けなさに打ち震えることしかできない。
「笹暮さんが謝ることじゃないです。全部、オレが悪いんです。でも……」
 会合参加を望んだのは影狼。自分が九鬼家であることを黙っていたのも影狼自身。すべては自分が招いた結果。誰のせいでもない。
 しかしそれは影狼にも、どうしようもないことだった。
「あんなの……」こらえていたものが、じわりじわりと目から滲み出る。「あんなの……卑怯じゃないですか! 九鬼の血を引いているからなんだって言うんですか! なんなんですか、あの古代人みたいな人は……!?」
 やけになった影狼が、そう叫んだ時のことだった。
 影狼のすぐそばで襖がすすっと開き、あの美豆良結いの男が現れた。
「私のことですか? 古代人みたいな人というのは」
 ギョッと凍りつく影狼。
 笹暮は震えた声で、古代人呼ばわりされた男の名を口にした。
「タカミ……殿……!」
「タカミ……?」
 影狼は驚きと困惑の入り混じった瞳で、もう一度はっきりと古代人を見た。
「じゃあ、この人が……」
「うむ……この会合に影狼が参加できるよう、取り計らってくださった方だ」
 古代人はたった今開いた扇子で口元を隠し、今度は自分で名乗った。
「どうも、高見たかみ遊山ゆさんです。猿山の件ではヒューゴさんが世話になりましたね」
 こちらこそ――本来ならば、会合参加に一役買った高見に対し、そう返すところであったが、影狼は素直にその言葉を口にできなかった。笹暮も同じだった。
「なぜ……影狼を庇ってくださらなかったのですか? あなたなら影狼に味方してくださると思っていたのに」
「ご不満ですか? 私としては、影狼を会合に参加させたことで十分義理は果たしたつもりでしたが」高見は癪に障るほど平然としていた。「影狼には恩義がありますが、それ以前に私は上野国の家臣なのです。味方してくれるだろうと変に期待されても困りますね」
 扇越しにこちらを見下ろす高見。その目が心のすべてを見透かしているようで、影狼は気味が悪かった。
 そこで突然、高見がパチンと扇子を閉じた。
「と、まあ……無粋なことを言うのはこの辺にしておきましょう。これでは私が意地悪みたいになってしまうので」
 影狼は目をパチクリさせた。言い込められたところで急に柔らかい態度で来られ、すっかり気が抜けてしまった。
 ―――なんだ? この人は……?
「安心してください。あなたたちが恐れていたようなことにはなりませんから」
「そ、それは……影狼が人質にならないということですか!?」
「ええ、なりませんよ人質には。九鬼家など取るに足らぬ弱小勢力です。人質などいてもいなくても同じです」
 言っていることが矛盾しているように、笹暮は感じた。会合の席で、影狼を人質に取ることは無意味だという笹暮の訴えを退けたのは、高見だったはずだ。
「……ではなぜ、高見殿はあのようなことを」
「その場の空気ですよ。空気を読んだのです」
「空気……?」
「そうです。突然九鬼の名が出てきて、皆気が昂っていました。あの場で無理に影狼を庇うのは立場を危うくするだけです。自分も他の者も冷静になった後で、まとまった意見を述べるべきでございましょう」
 思い返せば、笹暮も冷静じゃなかった。羽貫衆から託されたという責任感もあってか、一大名の立場を超えて影狼を庇おうとした。高見が議論を終わらせなければ、どうなっていたか分からない。
「会合の後で隆介様に一言申し上げたら、影狼を人質に取るという話をすぐに撤回してくださいました」
「そんな簡単に……」
 それだけ、近藤にとって影狼を人質にするかどうかは些細なことだったらしい。
 高見はここまで見越して、九鬼の名が出てからのあの短時間で判断を下したというのか。だとすればこの男、とんでもない傑物だ。
 松平兼定、柘榴、笹暮友晴――影狼は幕府四天王を三人までしか知らないが、残る一人はこの高見遊山に違いないと思った。
「ありがとうございます! 本当に、なんとお礼を言ってよいのか……」
 深々と頭を下げる笹暮と影狼。だがそこでまたパチンと音がして、二人はハッとなった。
「まだ話は終わっていませんよ」
「!?」
 高見はあの見透かすような目で、影狼を見据えた。
「影狼君。あなたは晴れて自由の身になりましたが、九鬼一族の者であることには変わりありません。これから先、大名たちからはそういう目で見られることになります。これは非常にまずいことだと思いませんか?」
 ゴクリと、影狼は唾を飲んだ。
 つまり、影狼の声はもう、東国同盟に一切聞き入れてもらえないということだ。どれだけ筋の通った話をしても、所詮は九鬼の者が話すことだからと一蹴されてしまうだろう。
「このままでは終われませんよね」
「……はい」
「では私から提案です」
 扇子をゆらゆらとあおぎながら、高見は言った。
「九鬼家と協力して、志摩国を攻略してください。そうすれば、大名たちから信頼を得ることができるでしょう」
「志摩国を……?」
 ぽかんとする影狼。笹暮もいまいちその意味が呑み込めないようだ。
「高見殿。影狼は九鬼家の内情を知りません。分かるように話していただけませんか?」
「そうでしたか。これは失礼」
 照れ隠しのつもりなのか、高見は扇子で口元を隠した。それからまた静かに話し始めた――

 九鬼家の歴史も少し交えて話すことにしましょう。
 まず志摩国というのは、かつて九鬼家が治めていた国です。三方を海に囲まれた小さな国で、古くから海賊衆と呼ばれる無法者たちが勢力を築いていました。九鬼もその中の一つでした。
 戦国時代、九鬼の先祖はこれらの海賊衆を束ね、かの天下人――信長のぶながのもとで水軍の大将として活躍しました。破天荒なその戦歴から、海賊大名――と今では呼ばれています。凄かったのですよ、あなたのご先祖は。
 戦国の世が終わった後も、九鬼家は志摩国とその近海の支配を認められました。九鬼家にとって、志摩国は一族の象徴となる大切な領地だったのです。
 しかし、もう分かっているでしょうが、九鬼家は志摩国を失いました。今から七年前、朝廷が挙兵した時に、それに呼応した隣国に攻め取られてしまったのです。当主は殺され、その家臣たちも多くが殺されました。
 では、現在駿河国を支配している九鬼家とはなんなのか――と、思いますよね?
 実は志摩が攻め込まれた時、跡継ぎを含む三人の豪傑が、殲鬼隊として甲斐に留まっていました。
 跡継ぎの名は九鬼くき影虎かげとらと言います。帰る場所を失った影虎は、幕府直轄領となっていた駿河国を与えられましたが、やがて幕府が滅びると、そのまま独立してしまいました。
 なぜ影虎が東国同盟に反抗的なのかはさておき、志摩の奪還が彼らの悲願であることは間違いないでしょう。我々が志摩奪還に協力すると申し出れば、そうやすやすとは断れないはずです。
「影狼君。あなたには、その橋渡しとなってもらいます。東国同盟の兵を連れて九鬼家のもとに参じ、志摩奪還のお手伝いをしてもらいます」
 海賊大名――それが自分の祖先だというのか?
 九鬼影虎――彼が、実の父なのだろうか?
 想像していたものとあまりにもかけ離れていて、影狼は実感が湧かなかった。
 だが、高見の言わんとすることは、なんとなく分かったような気がした。
「それで、大名たちからの信頼が得られるんですか?」
「もちろん」高見はうなずいた。「九鬼家が志摩に攻め込めば、皇国は喉元に敵を作ることになり、そちらに兵力を割かざるを得なくなります。これは東国同盟が反撃に転じるための、重要な布石となります。そしてこの重要な役目を果たしたあなたの功績は、誰もが認めるところとなるでしょう」
 静まり返った御殿の中で、高見の声だけが朗々と響き渡った。
「どうします? ちなみにこの計画は、まだ隆介様にも話していません。やるかやらないかは、あなた次第です」
 まだ話していない――それでも、高見には近藤が提案に乗るという確信があるのだろう。ちょうど会合でも、信濃大名が反撃に出るという話をしていたところだ。時期的にはちょうどいい。
「ま、待ってください!」そこで、笹暮が堪りかねたように口を開く。「駿河から西は完全に皇国の領土です。志摩に攻め込むためには、皇国が支配する海を渡らなければなりません。一度攻め入れば退くことはほぼ不可能……そんな所に、影狼を行かせると言うのですか!?」
「笹暮さん、口出し無用です。私は影狼に聞いているのです」
 底の知れない光を宿した眼差しで、高見は影狼を再度見下ろす。
 とても好条件とは言えない提案。この高見という男も、どこまで信用していいのか分からない。だが、この機を逃せば二度と挽回の機会は訪れないかもしれない。
 影狼は逡巡の末、答えを出した。
「……やります」
 その瞬間、高見が扇子越しに微笑んだように見えた。
 反対に笹暮は目に見えて青ざめていった。
「なにを言うんだ影狼……今すぐ考え直すんだ! 鴉天狗のことなら私がなんとかしてみせる! だからこんな無茶苦茶な話に乗る必要は――」
 説得を試みる笹暮だったが、拳を震わせながらうつむく影狼を見て口をつぐんだ。
「笹暮さん、ありがとうございます。でも、今日会合に出てみて、このままじゃダメだって思ったんです。ずっと笹暮さんに頼ってばっかりで、自分ではなんにもできなかった」
 その悔しさからの決断だった。
 笹暮は優しいから、多少無茶してでも味方してくれるだろう。しかし、それに甘えてばかりではいられない。それではいつまで経っても、妖派には勝てない。これからは、元鴉天狗である影狼自身が力を持たなければならない。
「ありがとうございます。しかと返事はいただきました」二人の間に沈黙が立ち込めたところで、高見が言った。「進展があればこちらから使いを出しますので、それまでは自由にしていてください」
 そろりそろりと立ち去ろうとする高見。
 だがそこで、影狼はあることを思い出した。
「高見さん」衝動に駆られるままに、呼び止める。「高見さんは、その……侵蝕の研究をしているんですよね」
 そう。今の今まで怖くて忘れていたが、高見はヒューゴの雇い主。妖派とは別で、独自で侵蝕の調査をしている。
 なんのために……? 会う時が来たら、聞いてみようと思っていた。
「ええ。妖派ができる、ずっとずっと前からね」曰くありげな様子で、高見が振り向く。「気になりますか? あなたのおかげで、今少し面白いことになっているのですよ。まあ、楽しみにしていてください」
 それだけ言って、高見はまた背を向けて歩き出した。
 これからなにかが大きく動き出す――そんな漠然とした予感が、影狼の胸に残った。

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