第48話:持ち込まれた火種

 独立を宣言して以来、越後国は朝幕の戦禍に呑まれることなく平穏を保ち続けてきた。
 ただ、それは領主の吉良に野心がなかったからではない。皇国も幕府も一国だけで立ち向かうにはあまりにも強大で、手出しができなかったからだ。天下取りの戦に加わるには、吉良家は武力も名声も欠けていた。
 そんなところへやって来たのが鴉天狗である。憐れな侵蝕人を守りながら幕府軍二千を撃退した――そんな彼らは、美談のネタとしても武力としても大いに利用価値があると、一部の家臣は考えた。
 だが、侵蝕人に偏見を抱く者は越後においても未だ多く、鴉天狗は幕府の回し者だと考える者もいた。鴉天狗の受け入れについての議論は、反対派多数のまま終わるかに見えた。
 事件が起きたのは、そんな矢先のことだった。
 越後国大名――吉良義秋が善見山城の厠で倒れたのである。家臣たちが見守る中、義秋は意識が戻らぬままその日の晩に死去したという。
 鴉天狗の幹部がこれを聞けば、暗殺の可能性を一番に思い浮かべたであろう。だが吉良家中でその可能性を口にする者はいなかった。あるいはいたとしても、義秋の最期を見届けた者から馬鹿馬鹿しいと一蹴されたか――
 いずれにせよ、吉良家の者たちには義秋の死について考えるだけの余裕はなかった。早急に、彼の後継者を決める必要があったからだ。
 義秋には二人の養子がいた。
 一人は義弘よしひろ。宝永の乱が起こる少し前に、南出羽国みなみでわのくに長尾ながお家からもらい受けた養子である。長尾家と言えば、戦国時代の軍神――長尾ながお影虎かげとらでよく知られ、越後に縁のある名家だ。序列も一番上とあって、当初は義弘が後継者と目されていた。
 もう一人は義氏よしうじ。義秋の甥という血筋の正当性が、吉良家が幕府に離反する頃になって注目されるようになった。義秋からも我が子のように愛されていたという。
 義秋は生前に後継者を決めていなかった。彼の急死によって吉良家は義弘派と義氏派に分かれ、一触即発の状態に陥ってしまったのである。

 鴉天狗にこの状況が伝えられたのは、義秋の死後から四日目の晩のことであった。色部正成を名乗る男が鴉天狗の館を訪ねて来たのだ。
「そんなことを儂らなんぞに話してよいのか? 仮にも儂らは幕府側からやって来た者だ。下手をすれば国を滅ぼすことにもなりかねんぞ」
 応対した鵺丸は相手の真意を測りかねた。
 それまで鴉天狗は上から物を言われるだけで、大事なことはなにひとつ知らされてこなかった。国内の危機を晒すような情報をくれたのは、どういう風の吹き回しだろうか。
「仰る通り……これは本来、外部の者には口外無用。鴉天狗との接触さえ今は禁じられております。しかし私はあなた方を信頼しています。その上であなた方の力を見込んで、禁を犯してこの場にいるのです」
「ほう……」少し先が読めて来た。「して、正成殿はどちらに付いておいでで?」
「義弘様です」
 色部は吉良家ではなく、義弘派の使いとして来ているのだ。そして禁を犯してまで鴉天狗を訪ねる理由はただひとつ――
「率直に申し上げます。鵺丸様」居住まいを正して、色部は言った。「一触即発とは言いましたが、すでに殺し合いは始まっています。昨晩は私の仲間が一人殺されました。このまま行けば……いや、もう明日にでも戦になるかもしれません。もしそうなった時に、鴉天狗の力をお貸しいただけないでしょうか?」
「力を貸したら、鴉天狗はなにを得られる?」
「侵蝕人とその一族の保護を約束いたします。お望みとあらば、戦に加わった者を吉良家の家臣として迎え入れる用意もあります」
 吉良家の家臣になれば、これ以後の戦に加わる義務も当然発生する。人を救うことを掲げてきた鴉天狗にとってはなんとも皮肉なことだ。だがこうなった以上、鴉天狗と吉良家は運命共同体。侵蝕人を守り抜くにはもうこれしかない。それに公認の下で侵蝕人を保護できるのは、これまでになかった好条件だ。
「悪くない話だ」鵺丸の顔から笑みがこぼれる。「今すぐにでもはいと言いたいところだが、他の者たちの意見も聞いておかねば反発がありそうだからな……返答は明日の夜ということでよろしいか?」
「承知しました。それでは、よい返事をお待ちしております」
 深夜の応対に礼を述べ、色部は館の表口から悠々と退出していった。
 もとよりこの館は、先代の義秋が色部に命じて手配させたものである。周囲に見張りはいたが、すべて彼の手の者。義氏派に今晩のことを悟られない自信があったようだ。
 色部の見送りが済むと、鵺丸は背後に控える気配に呼び掛けた。
「聞いたか武蔵坊。面白いことになってきたな」
「全然面白くねぇよ」
 いささか問題のある発言をした鵺丸に、武蔵坊は冷たく言い放った。
 もともと鵺丸は悪い冗談をよく言う男だったが、魔物に取り憑かれてからは特にひどい。だからこうして、密談の間も傍で見守っていなければ気が気でないのだ。
「お前が月光にやらせたのか?」
「なんのことだ?」
「死んだ義秋って奴のことだよ。オレたちが来てすぐに大名が死んで、ああいう話が来るなんざ、いくらなんでも都合がよすぎだ」
「儂は月光になにも指示を出しておらぬぞ。ましてや大名の暗殺などできるはずが……」そこまで言って、鵺丸は思い直した。「いや、月光ならやりかねんな。うちの間引きも三年間で二回しか失敗がなかったからな」
 病死と見せかけた暗殺は月光が普段からやっていたことだ。相手が一国の主となれば常軌を逸しているが、月光にそれだけの力量があるであろうことは武蔵坊も疑っていない。
 それにしても、鵺丸の指示がなかったというのは意外だった。月光が勝手に動いているのだろうか。彼らの仕業だと決まったわけではないのだが……
 いずれにしても不気味な連中だ。鵺丸に憑く魔物とどちらがより恐ろしいのか、もう分からない。
「さて、儂はもう寝るとしよう。お主も今日くらい寝たらどうだ? 半妖でも夜更かしは体に堪えるだろう?」
「いいや、遠慮しとく。つーか、あんたが寝たら誰かが侵蝕人見てなきゃならねぇだろ」
「ククク……そうだったな。忘れておったわ」
 わざわざ武蔵坊が夜更かしせずとも、恐らく月光の何人かはこの時間でも起きているだろう。
 しかし、だからこそ武蔵坊は寝る気になれなかった。

     *  *  *

 大名義秋が没した後の善見山城では連日重臣たちが集まり、跡継ぎを決めるための評議が行われていた。
 と言っても、有益な議論が交わされたのは最初の二日間だけである。それ以後は罵り合いが目立つようになり、死人が出た次の日は特に大荒れとなった。もはや両派とも話し合いで決着をつける気はなく、評議は戦の準備のための時間稼ぎだと多くの者が考えていた。
 鴉天狗との密談の翌日、集会所に入った色部は、義氏派からの強烈な視線を感じた。義弘派の筆頭として注目されるのは当然なのだが、この日だけはなにかが違った。
 席に着くと、義氏派の一人が早速問い詰めてきた。
「色部! 貴様、昨日の夜はどこへ行っていた!?」
 虎のような突っ張った口髭の男――本庄信繁である。かつては殲鬼隊で武名を轟かせ、家臣団の中で最高の権力を誇っていた。今や義氏派の中心人物だ。
 昨日のことが勘付かれていることに色部は背筋を凍らせたが、すぐに心を切り替えた。
「なぜ私がそんなことを聞かれねばならないのです?」
「いいから答えろ!」
「答える義理はありませんな。どうしてもというのなら、まずそれなりの理由をお聞きしたいものです」
 信繁は言葉を詰まらせた。色部が夜間に外出したことを彼が知っているのは、仲間に監視させていたからに他ならない。だが、たとえ意見が対立しているとはいえ、一家臣が同じ家中の者を監視するのは背信行為に当たる。暗殺が横行するこの状況下ではなおさら反感を買うことになる。
 信繁に代わって口を開いたのは、新発田晴家であった。彼も信繁と同じく殲鬼隊で活躍していた身であり、今は義氏派の実質的な指導者となっている。
「色部殿。我々はあなたが鴉天狗と無断で接触しないかと、常に監視していた。非礼は詫びるが、必要なことだったとご理解いただきたい。先代より鴉天狗の館の手配と監視を命じられたあなたならば、誰にも知られず館に潜り込めただろうからな。そして昨日の夜遅く、あなたが奉行人に紛れて外出したとの報告があった。なにかやましいことがあったのではないか? わざわざ遠い別居を使っていたのも怪しい」
 色部は善見山城内に屋敷を持っていながら、ここ数日は城外の別居で寝泊まりしていた。無論、監視の目を避けるためなのだが、逆に悪目立ちしたようだ。
 しかしこの言い様だと、鴉天狗と接触したことまでは知られていないらしい。当然だ。鴉天狗の館の周囲は私兵で固めてある。彼らに気付かれないように見張っていたとしても、夜闇の中では誰が出入りしているか分かるはずもない。いくらでもごまかしが利く。
「前の晩に仲間が一人殺されているのです。夜間の外出に慎重になるのは当然のことでしょう。別居を使っていたのも同じ理由からです」
「仲間……? 柿崎かきざきのことか? 奴は幕府側と内通していたのだぞ。それを仲間と呼ぶとは、なんの下心あってのことだ」
 強引に色部を貶めようと粘ったのは本庄。各所から野次が飛ぶ。
「ふざけるな! あんなものが内通の証拠だというのか!? 私には邪魔者を排除するための出まかせとしか思えぬわ!」
 柿崎は二日前に殺された義弘派の武将である。彼は義弘の生家である長尾家と定期的に挨拶の手紙を交わしていたのだが、それが叛意ありとみなされたのだ。
 長尾家は幕府を支持してはいたが、他の東北大名同様、覇権争いには加わっておらず、吉良家とは良好な関係が続いていた。そのこともあって、柿崎の誅殺には義氏派からも批判が相次いだ。
「信繁、もういい。これ以上は傷を広げるだけだ」
 この話がぶり返すとマズい――そう判断した新発田は、放っておくと止まらなそうな相方をなだめ、評議の本題へと話を変えた。
 かくして、色部は追及を免れたのであった。
 しかし、戦力となり得る鴉天狗と接触した可能性のある色部を、信繁たちは生かしておかないだろう。開戦の時期がまた一段と早まったのも確かだった。

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