第20話:間合い侍

 犬童の刀を見て、柳斎は強烈な違和感を覚えた。
 墨のような――というような次元ではない。まるでそこだけ空間が切り取られたような、現実離れした黒。
 ―――それに、この感じは……
「あと数年早く生まれていれば自分も殲鬼隊になれたと、一度ぐらいは思ったことがあるだろう?」
「………」
「だがそれは傲りだ。当時殲鬼隊だった者は今、幕府で重役を担っていて前線に立つことはほとんどない。貴様ら下々の者が分不相応な名声を得ているというだけの話だ」犬童は黒刀を柳斎に向けた。「今ここで、それを証明してみせよう」
 それ以上、無用な会話は交わされなかった。ここから先は剣で語れば事足りる。柳斎は大太刀を脇に構え、犬童は黒刀を片手に、じりじりと間合いを詰めていく。
 先に仕掛けたのは柳斎だった。ゆらりと逆袈裟に斬り込むと、立て続けに攻勢に出た。
 手数はそれほど多くないが、巧妙なことに、柳斎はちょうど自分の刀だけが届く間合いを維持していた。敵が退けば間合いを詰め、詰め寄られれば退く。あまりに動きがシンクロしているために、二人で息を合わせて演武でもしているようにも見える。
 だが主導権は確実に柳斎のものだった。犬童は反撃の機会を与えられず、延々と柳斎の攻撃を受け続けるしかない。
「なるほど。武蔵国の者は貴様のことを間合い侍と呼ぶらしいが、その理由がよく分かった。完璧な剣捌きだ。だが――」
 攻撃後に生まれた隙を突いて、犬童は黒刀を柳斎に向けて突き出した。
 瞬間、柳斎の頬から血が飛び散る。
「!」
「刀の長さなら私も負けていない」
 柳斎の大太刀がかろうじて届く間合い。犬童の刀は遠く及ばないはずだが――その黒い刀身には鮮血がこびり付いていた。
「やはりその刀……妖刀だったか」
「妖刀無明むみょう。鵺丸様から授かったものだ」
 たった今見せたのは『伸尺しんしゃく』と『縮尺しゅくしゃく』――瞬間的に刀身を伸縮させる術。派手さはないが、黒過ぎて距離感、形状が掴みにくい刀身が、術の効果を何倍にも引き上げていた。
「卑怯とは抜かすなよ。至高の刀を探し求めるのは、武士もののふならば当たり前のことだ」
「別に……文句があるわけではない」柳斎は頬に付いた血を拭った。「ただただ残念だ。妖退治で名を馳せた男が、妖の力で世を乱そうとはな。お前には殲鬼隊の誇りというものがないのか?」
 答える前に、犬童は嘲るように低い笑声を漏らした。
「そんなものはとうの昔に捨てたわ!」
「!」
「殲鬼隊はお前が思っているほど誇らしいものではない。私が入隊した頃はすでに妖怪の多くは駆逐されていた。代わりに行われていたのは、侵蝕を利用した権力闘争だ」血走った目で柳斎を睨みつけながら、犬童は続ける。「昔は侵蝕人を見分ける術がなかったから、その人の普段の振る舞いから判断するほかなかった。政敵を陥れるのにこれほど都合の良いものはない。目を付けられた奴は侵蝕人だと言いがかりをつけられ、次々と抹殺されていった。嵌められたのは誰なのか……今となっては知りようもないが、おそらく鵺丸様もそんな殲鬼隊に嫌気が差していたのだろう」
 じっと相手の出方をうかがう柳斎。犬童は半歩退き、優位な間合いを確保する。
「妖怪が壊滅した今、私が斬るべきなのはその醜い権力闘争で成り上がった者ども――すなわち、今の幕府を牛耳っている連中だ!」
 怒号とともに、黒刀がうなりを上げた。
 剣が加速するにつれて伸びていく刀身。遠近感がまったく掴めないために、柳斎の側からはその伸び具合を視認できない。横から見れば、それはさながら黒い光線だった。
 黒刃と白刃が衝突し、赤い火花をまき散らす。それが数度繰り返され、今度は犬童が連続で突きを繰り出す。手数、リーチで圧倒する犬童の勝ちは動かないかに思えた。
 だが、先に動揺を見せたのは犬童だった。
 ―――なんなんだコイツは……なぜ当たらぬ……!?
 柳斎の動きはそれほど速く感じない。突きのいくつかは命中したようにも見えた。しかし終わってみれば、柳斎に与えられた傷は頬をかすめた最初の一撃だけ。そして、いつの間に柳斎は犬童を己の間合いに収めている。
 犬童は柳斎の力量を見誤っていた。一流の剣士ならば、使い込んだ愛刀の間合いぐらいは体に染み込んでいる。その中で柳斎だけが間合い侍と呼ばれるようになったのは、相手がどう動いても優位な間合いを維持できるからである。
 柳斎の本当の強さは、相手の動きを見切る力にあった。
「後期の殲鬼隊がどんなものか、知らなかったわけではない」柳斎は言った。「確かに、後ろ暗い面もあったのかもしれない。だが、結局はお前もそれを傍観していた一人だ。今になって正義面で刀を振るうのは、滑稽極まりないぞ」
 無感動な声で発せられたその言葉は、犬童を激昂させた。
「知った風な口を聞くな……若造が!」
 黒刀を両手で握り、力を込める。すると犬童の周囲の景色が急速に光を失い――
『無明・大黒天だいこくてん!』
 戦場の一角に、巨大な半球状の暗黒空間が出現した。
「あまり使いたくはなかったが、こうなれば終わりだ。闇の中で無様にくたばるが良い!」
 この暗闇の中では黒刀はおろか、犬童の姿を目視することすらかなわない。そうなれば柳斎の見切りも用をなさないはずだった。
 犬童はまたしても『伸尺』を利用した突きを連続で繰り出すが――
 ―――まただ……なぜ当たらないのだ!
 ゆらりゆらりと突きをかわす柳斎。その流麗な動きは、どういうことか先程にも増して洗練されているように見える。
 目で見えないのに、どうやって攻撃を見切っているのか。
 ―――音? いや、そんなはずはない……
 この騒乱の中で、犬童が立てた音だけを拾い上げるのは不可能だ。かつて唱十句大師しょうとくだいしという僧が一度に十の言葉を話せたという逸話は有名だが、その逆は聞いたことがない。
 すべての攻撃をいなした柳斎が、犬童の横に立つ。
「怒り任せの攻撃ほど読みやすいものはない。まして、妖刀使いとなればなおさらだ」
「!」
 犬童の目が驚きに見開かれる。
「まさか貴様……邪気だけでこの私の動きを……!」
 うろたえる犬童に、柳斎は無言で大太刀を薙ぎこんだ。

     *  *  *

 一方、力自慢同士の戦いはお互い一歩も引かない展開となった。
「やるなぁ……アンタ」
「……お前もな!」
 上江洲と太郎次郎。華麗さの全くない、激しいぶつかり合いの応酬は、敵味方問わず周囲を怯えさせた。
 だが僅かながら、その均衡にも綻びが見え始めていた。
 力はほぼ互角。武器捌きでは上江洲の方が何枚も上手だ。しかし押されているのは、上江洲の方だった。というのも――
「ヘイッホー! ホイ! ホイ! ホー!」
 ―――こいつ……声と振りが合ってねぇ!
 天性のリズム音痴から繰り出される変則的な攻撃が、上江洲の調子を狂わせていたのだ。
 なにも考えず、ただ適当に振り回しているようにしか見えないが、なかなか嫌なところを突いてくる。力の入れ方も絶妙だ。まぐれなのか才能なのか――
 滑稽な剣舞に打ち負かされそうになり、上江洲のイライラは頂点に達した。
 ―――ふっざけるな! このオレが、こんなヤツにぃ……!
 偃月刀が、唸りとともに振り下ろされた。
 やけくその一撃とあって、その烈しさは先程までの比ではない。だが、それだけではなかった。
「ぬおっ!?」
 防御の構えを取っていた太郎次郎は、偃月刀とは別の、なにかもっと巨大なものに迫られたような錯覚を覚えた。
 反射的に身をかわした、その瞬間――
 ドッゴオオオオオン!
 まるで大砲が撃ち込まれたかのような轟音と振動が、辺り一帯を襲った。
 偃月刀が打ち下ろされた地面は、五間約十メートル先まで陥没していた。
 ただの偃月刀ではこうはならない。どうやら上江洲の偃月刀も妖刀らしかった。
「チッ、外したか……まあいい」上江洲は土塊の向こうに太郎次郎を見つけ、口端を上げた。「今ので折れなかったのは大したもんだが、それじゃもう戦えねぇだろ」
 衝撃で吹き飛ばされた太郎次郎は、自分の刀を見て「ん?」と声を上げた。
 丈夫なだけが取り柄の刀が、鯱鉾しゃちほこのようにひん曲がっている。これはいけない。
 太郎次郎はしばしそれを見つめていたが、なにを思ったのか、刀の腹を両手で掴んでグッと力を込めた。
 すると――あら不思議。刀が元に戻った。
「よし!」
「よし――じゃねぇ! なんなんだテメェはぁ!?」
 やっと掴んだ勝機をあっさりと潰され、上江洲は発狂した。
 そこへさらに、上江洲を追い詰める報せが届く。
「上江洲様、お引きください! 敵の新手が来ます!」
「なに!?」
 先程の銃声を聞きつけたのだろうか、予想よりも早い到着であった。
 上江洲は舌打ちした。幕府軍との正面衝突は避けるように言いつけられている。これ以上の戦闘は危険だった。
「者ども、隊列を整えろ! あまり散らばるな!」
 その一声で、幕府軍に覆いかぶさるように展開していた鴉天狗が上江洲のもとに集合する。無論、退却の準備ではあるが、上江洲はまだ戦うつもりのようだった。
「鴉天狗が……引いていく」
 包囲が解けて、伊織は安堵のため息をついた。
 影狼たちはちょうど包囲の突破に成功したところだった。
 手始めに、栄作が山梔子を盾にし、怯んだ月光の忍を影狼と伊織で突き崩した。さらに分断されていた後続の部隊が挟撃し、包囲突破が実現したのである。
 そこへ、どこからともなく喚声が湧き起こる。
「おいおい、これは来たんじゃないか?」
 栄作が林の奥を見つめて言った。
 その先では、無数の人影がうごめいていた。喚声が大きくなるにつれて、姿がはっきりとしていく。
「あれは……味方だ。味方が来てくれたぞ!」
 誰かが声を上げると、絶望の淵にあった幕府軍は瞬く間に歓喜に包まれた。栄作の機転が功を奏したらしく、味方の部隊がようやく駆けつけてくれたのだった。
「みんな、こっからが正念場だ! 数の力で押し返すぞ!」
 鴉天狗の奇襲を受けてから初めて、幕府軍は攻勢に転じた。最初の部隊の生き残りは既に五十人を下回り、隊長も戦死していたが、当初の目的であった鴉天狗討伐を果たすべく果敢に挑みかかる。
 増援部隊も横合いから飛び出し、鴉天狗を突き崩すかに見えた。
 だがこの時、彼らの横合いから、恐ろしいものが迫っていた。
 影狼はそれを目の端に捉えた。
 林の奥から現れたのは一本の矢。鋭い風切音を伴って、突撃を仕掛ける増援部隊へ突っ込んで行く。枯れ葉を巻き込みながら直進する様は、鳥の群れが襲い掛かるかのようだった。
 矢は隊列を切り裂き、樹木をえぐり、地面に衝突してようやく動きを止めた。
 枯れ葉に混じって人血が宙を舞う。
 誰もが茫然として、その地面にめり込んだ矢を見つめていた。
 それから、反対側の斜面に現れた一団に、視線が集中する。
「!」
 影狼は目を見張った。
 数人の忍に守られながらこちらを見下ろしているのは、毛皮を身にまとった野人のような男――そんな奴は、鴉天狗に一人しかいないはずだった。

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