第21話:決別

 武蔵坊はゆったりと戦場を見渡した。
 彼の放った一矢で、幕府軍の気勢は削がれてしまったようだった。
 増援が来たとはいえ、兵力はまだ拮抗している。鴉天狗の精強さを思えば、どちらが不利かは明らかであった。幕府軍はその現実を突きつけられたのである。
「上江洲の奴、まだ戦うつもりらしいな。あまり長引くとまた新手が来るぞ」あきれたような口ぶりで言ったのは、白銀のくノ一――唯月である。「それに犬童の奴も、この乱戦の中であの術を使うとは……まったく、なに考えてやがる」
 その隣で、武蔵坊は大弓に矢をつがえる。
「大丈夫だ、そのためにオレたちがいる。しっかり援護するぞ」
 手にしていたのは、かつて故郷の人々を守るために使った弓。それは今、幕府軍の人々を殺めるために使われている。
 ためらいなど無かった。もうとっくに覚悟はできている。不幸な侵蝕人を幕府の手から守るためなら、どんなことでも――
 だが弓を引き絞った時、群衆の中に一人の少年を見出し、武蔵坊は手を止めた。
「どうした?」
 唯月が怪訝そうな顔をした。
 武蔵坊は答えない。ただ群衆の中の一点だけを見つめて、つぶやいた。
「……なんであいつがこんなところに」

     *  *  *

 斜面の上にたたずむ男を見て、影狼はその名を口に出さずにはいられなかった。
「武蔵坊……」
 それを聞いて、早くも戦闘態勢に入っていた伊織が思わず振り向く。
 栄作は盾代わりにしていた山梔子をぽとりと落とし、しばらくその場を動けなかった。
「武蔵坊? あの男が!?」
 ようやく聞き返した栄作の頭には、影狼から、ヒュウから伝え聞いた一人の男の像が浮かび上がっていた。
 しかし実際に目に映っている男は、その人物像とはどこかかけ離れている。
「どういうことだ!?」伊織が問い詰める。「武蔵坊ってのは、お前を鴉天狗から連れ出した人だよな? なんで鴉天狗にいるんだよ?」
「オレだって分からないよ。武蔵坊は幕府と戦おうとする鵺丸の事を止めようとしてた。こんな事……」
 ありえない――と言いかけて、影狼は再びその男に視線を向ける。
 ―――一緒には行けない……オレにはどうしても行きたい所があるんだ……
 彼が別れ際に言った言葉が、脳裏をよぎる。
 ―――オレがここまで来たのは、お前のことを頼まれたからだ……
 なんで気付かなかったんだ。武蔵坊はあの時からこうするつもりだったんだ。
 鴉天狗のために戦っている武蔵坊。考えてもみれば、これが自然な姿だった。それに比べて自分は、鴉天狗に刃を向けて……
 悲鳴と怒号が飛び交う中、影狼は魂が抜けたように立ち尽くしてしまった。
 今の今まで何のために戦っていたのかさえ、おぼろげになってしまった。
「行くぞ!」伊織がどやしつけると、影狼は正気に戻った。「考えるだけ無駄だ。あいつに直接聞くんだ」
 どの面下げて行けばいいのか分からないが、こうなっては会わないわけにはいかない。
 影狼は無言でうなずき、不安を残したまま武蔵坊のもとへ向かうことになった。
「あれが影狼……幸成の弟分か」
 二人の護衛を伴った少年を見つけ、唯月は物珍しそうに言った。月光の間でも影狼の名はそれなりに知られているらしい。
「幕府に寝返ったのか?」
「いや……そんなはずがねぇ……」
 目の前で起きていることを、武蔵坊はなかなか受け入れられなかった。
 メランの親子に預けた後で、影狼の身になにがあったのだろう。思い返せば、かわいそうな事をしたとは思う。影狼の身になってみれば、出会ったばかりの人に預けられるのは、たまったものじゃない。
 しかし一体、どうしたらこうなるのか。
 幕府に捕まるのならまだ想像できた。そうなれば幸成にあわせる顔がなくなるところだが、影狼の様子を見るとどうもそんな風には見えないのだ。さっき見た時は抜刀していたし、捕虜にしては自由が過ぎる。
 ―――影狼は鴉天狗を裏切ったのか……?
 落胆と入れ替えに激情がこみ上げるのを、武蔵坊は感じた。
「来るぞ!」
 迫りくる三つの人影をとらえて、月光の忍が身構える。
 斜面を駆け上がって現れたのは、影狼とその護衛の人たちであった。武蔵坊はこみ上げる感情を懸命に抑えながら、影狼と正対した。
「武蔵……」
 自分からやって来たというのに、影狼の声は震えていて、おびえているようだった。
 騒乱の中で離れ離れとなって以来、影狼も武蔵坊も心のどこかで互いの身を案じていた。本来なら、互いの無事を喜び合うところだっただろう。しかしどちらにも喜びは無く、付き従う者たちの間にも物々しい空気が漂っていた。
 鴉天狗で志を共にした二人は、望まれない形での再会を果たしたのである。
「どうしてお前がここにいる? ヒュウたちはどうした?」
 武蔵坊は出来るだけやさしい声で言った。
「……途中ではぐれたよ。オレは一回、妖派に捕まったんだ」
 それを聞いて、武蔵坊は内心ほっとした。
 やっぱり、影狼は裏切ったわけじゃないんだ――心の中で芽生え始めていたものが、急速に冷めていく。
「そうか……悪かった。お前をそんな目にあわせるなんて、オレは本当に大馬鹿者だ。一人だけで辛かったよな」影狼に手を差し伸べる。「ここで会えたのは幸運だ。一緒に行こう。今度こそ、お前を置いて行ったりなんかしないから」
 風が吹き抜け、乾いた草木をざわめかせる。
 影狼は、手を取らなかった。差し出された手を悲しそうに見つめるだけで、その場を動こうともしない。
「……どうした!? 早くしないと幕府の奴らが来るぞ!」
 武蔵坊の声がうわずる。
 これ以上、オレを困らせないでくれとでも言っているかのようだった。
 弱者の味方で居続けるため、武蔵坊は修羅となる覚悟を決めている。鴉天狗がこれから背負う罪をすべて引き受けるつもりだった。これ以上不義を重ねたら、おかしくなってしまいそうだ。
 だがそんなことは、影狼には知りようもなかった。
「武蔵……こんな無駄な戦いは、もうやめようよ」
「!」
「鴉天狗は、なんのために戦ってるの? 侵蝕人を守るため……? その為なら、他の人がどれだけ死んでも良いの? こんなの……絶対におかしいよ」
 武蔵坊の中で、なにかが壊れた。
 半妖としてこの世に生を受けながらも、一度だって捨てたことのなかった大切なものが、音を立てて崩れ去った。
「だったら、なんだ……? 鴉天狗は全員死ねと言うのか?」
 武蔵坊のまとう空気が一変した。影狼を睨む双眸に、火が灯る。
「そうじゃない」背筋に冷たいものを感じながらも、影狼は続けた。「妖派の代表が約束したんだ。妖派に協力するなら鴉天狗を許すって。幕府だって侵蝕人なら許してくれる。他の人も、もしかしたら……」
「ふざけるな! お前は妖派が約束通りにしてくれると、本気で思ってるのか?」
「……!」
 ―――何を言い出すかと思えば……妖派との約束だ? 影狼はこんなくだらない口車に乗せられたってのか!?
 失望に失望が重なり、怒りがどうしようもなく噴き上がってくる。
「じゃあその後ろの二人は……やっぱり妖派の奴なのかよ!?」
 栄作が違うのはさておき、妖派の護衛を従えた影狼はもう立派に妖派の仲間入りを果たしているように見えた。
「お前は今までそいつらがしてきたことを忘れたのか!? 鴉天狗に来たばっかりのオレよりは分かってるはずだよな。散々ひどい目に遭わされては泣き寝入りしてきたんだろ。それを見過ごしてきた幕府も同じだ。鴉天狗が生き残るにはもう戦うしかないんだよ! それなのにお前は妖派に媚びて……!」
 そんなんで幸成に顔向けできるのか!? そう言ってやろうと思ったが、それがそのまま自分に返って来るような気がして、武蔵坊は口ごもってしまった。影狼も武蔵坊も、幸成の望んでいたのとは程遠い存在となってしまったようだった。
 だがもう――どうでもいい。どうせ望まれない道を行くのなら、影狼もオレと同じ道を行くべきだ。そんな独りよがりな考えが武蔵坊の心を黒く染めていった。
「来い!」武蔵坊はいきなり影狼の手首をひっつかんだ。「お前はこっちだろうが!」
「いや……! 行きたくない!」
 強い力で手を引かれ、影狼の表情が恐怖にひきつる。
 少し前までの影狼だったら拒みはせず、むしろ自分から望んで鴉天狗に逃げ込んでいたかもしれない。だが今の影狼にとって、引き込まれるその先は地獄でしかない。手を引いている武蔵坊も鬼にしか見えない。あらん限りの力で抵抗する。
 武蔵坊の力の前では無駄な足掻きに違いなかった。それでも引き込まれずに済んだのは、武蔵坊が動きを止めたからである。
 銃口が、武蔵坊に向けられていた。
「どうしてこうなったのかは知らねぇが、とりあえずその手は放しな」武蔵坊を銃で牽制しながら、栄作が言った。「影狼は鴉天狗に戻ることは望んでない。分かるだろ? 今の鴉天狗は、とても影狼の居つける所じゃないはずだ」
 武蔵坊は鬼の形相を変えずに栄作を睨みつける。
 少しの静寂を挟み、唯月が小太刀を抜き放った。
「武蔵坊、相手は二人だ。我らでも十分に殺れる」
 鞘鳴りが連鎖し、影狼と武蔵坊を挟むようにして殺気がぶつかり合った。
 二対五。栄作が牽制のために身動き出来ない事を考えれば、影狼側で戦えるのは伊織だけ。武蔵坊が影狼を盾にすれば、簡単に邪魔者は排除できるはずだった。
 しかしその時、斜面下の戦場から喚声があがり、聞き捨てならない叫びが耳に飛び込んできた。
「幕府軍の本隊だ! 総大将の笹暮もいるぞ!」
 月光の忍たちの間に緊張が走った。本隊が来たということは、他の隊も続々とこちらへ向かっているかもしれない。こんなところで時間を食っているわけにはいかない。
「もういい」武蔵坊は小さくため息をつき、影狼から手を放した。「もう何を言っても無駄みたいだな。力ずくで連れてっても、邪魔になるだけだ」
 そして愛想を尽かしたように背を向けると、斜面の下に向かって歩き出した。
「武蔵……」
「行け!」影狼の呼びかけに振り返らず、武蔵坊は言った。「妖派なり幕府なりどこへでも行け。鴉天狗がこの先どうなろうが、お前には関係のないことだ。お前はもう、鴉天狗の影狼じゃない」
 武蔵坊が最後にかけたのは、友情のかけらもない言葉だった。
 影狼はなにも言い返せず、遠ざかっていくその背中を見つめることしかできなかった。
 やがて月光の忍たちも走り去ると、戦場の狂騒が息を吹き返すように膨れ上がっていった。

     *  *  *

 笹暮友晴は部下の一人から戦況報告を受けていた。奇襲を受けた隊に羽貫衆もいたと聞いて、笹暮の表情が険しくなった。
「敵の数は二百人弱。大将は元殲鬼隊の上江洲でございます。鵺丸をはじめとする一部の中心人物、それと侵蝕人の姿が見えませぬ」
 侵蝕人をしっかり避難させていることからも、これは計画されていた戦闘であることがうかがい知れる。逃げる時間はあったのになぜわざわざ幕府軍の前に躍り出たのか、そこまでは笹暮も考えが及ばなかったのだが。
「鵺丸たちのことはもういい。ここにいる者を殲滅すれば後はどうにでもなる。包囲しろ!」
 勢いを取り戻した幕府軍は、一ヶ所に集結した鴉天狗に三方から突撃した。
 ここに至って、上江洲もようやく戦況のまずさを悟ったようだった。
「このオレと張り合うとは、大した野郎だ。名を聞いておこうか」
「林坊だよ!」
「林坊……覚えておくぞ! お前との決着はいずれ付けてやる。その時までこの上江洲様の名を忘れるなよ!」
 上江洲は太郎次郎との決闘を放棄して退却の号令をかけた。
「逃がさないぞぉ~」
 むろん、太郎次郎はそれを黙って見過ごすつもりはなかった。長引いた決闘が彼の負けん気を刺激してしまったようだった。その猛進が止まったのは、駆け付けた柳斎が制止したからである。
「一人で追うのは危険だ。あとは幕府軍に任せようじゃないか」
 太郎次郎はその言葉に従った。笹暮本隊の意気は盛んで、疲弊の色の見える鴉天狗がこの追撃を振り切るのは難しいように思われた。
 上江洲率いる鴉天狗は、後退しながらも絶えず追いすがる敵部隊と刀を打ち交わしていた。包囲を逃れるのがやっとである。そこへ唯月らが合流した。
「遅いぞ上江洲。どうするつもりだ? このままだと、足止めに何人か残さないと全滅だ」
「別に、どうもしねぇよ……足止めは雇われ者の月光がやればいい」
 上江洲は悪びれる様子も無く、けろりと言ってのけた。あるいは己の失態を責められたことへの反発だったのかもしれない。当然、唯月はそれに頷くほど自己犠牲的では無かった。この阿呆の不始末でいちいち犠牲を出していては、命がいくらあっても足りない。
「こうなったのは、お前がチンタラしてたからだ。まずはお前が責任をとって残るべきじゃないのか? 月光が動くのはそれからだ」
 二人は後退するのも忘れ、その場で睨み合った。その光景を見た者の中には、二人とも残ればいいのにと思った者もいたかもしれないが、それを口に出せる勇者はいなかったようだ。
「二人とももういい。オレがやる」
 睨み合いが終わったのは、武蔵坊がそう買って出たからである。
 唯月はキッとした目で振り向いた。
「そういう問題じゃない。足止め役を月光から出すか、鴉天狗から出すかだ。お前一人でなにが出来る?」
「いいから、オレ一人でやる」
 そう言うと、武蔵坊は後退する鴉天狗とは反対の方へ歩き出した。
「なにをする気だ? まさか……!」
 武蔵坊の腕を見て、唯月は悪寒を覚えた。徐々に黒みを帯びる腕。それからゴツゴツと硬化していき、トゲが生え――
 武蔵坊の能力。一面を枯れ葉で敷き詰められた林。この組み合わせは、嫌な予感しかしなかった。
「よせ! それはまずい!」
 唯月が叫んだ時には、すでに手遅れだった。
 武蔵坊が短い雄叫びと共に手をかざすと、草地から炎がふきあがり、あっという間に戦場を呑み込んでいった。

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