カテゴリー: 創作論

作家のタイプ

カクヨム近況ノートのやり取りより。

最近、自分の物書きとしてのあり方をまた考えるようになったのですが、物書きには二つのタイプがあるんだと思います。
一つはとにかく書くのが好き、話を作るのが好きで、読者を楽しませることに喜びを感じるタイプ。
こちらは流行に合わせて柔軟に話を作ることができ、文章術やストーリー手法の学習意欲も旺盛。力がつけば面白い作品を量産できるので、プロ作家になりやすい。(特に作品が多いことは新人賞でかなり有利)
そしてもう一つは、書きたいものがすでにあって、それを(自分の納得できる)形にしたいタイプ。
はい、私です笑
「この作品じゃなきゃダメ」という気持ちがあり、自分の気持ちと乖離した作品を書いて仮に書籍化したとしても、多分あまり嬉しくないです。
本命を至高の作品に仕上げたいという一心で続けてきたので、「小説家になりたい」とはちょっと違います。より多くの人に読まれるためには、やはり書籍化(それも有名誌での漫画化まで)を目指さなければなりませんが。
前者のようなやり方で書籍化作品を出してから、肩書きを利用して本命を売り込むのが正解なのかな……とは思います。
ただ、書きたくない作品を書くのは自分の気持ち的にどうなのか……徒労に終わるかもしれないし、そんな時間あったら先に書きたい方を仕上げてしまいたい……という葛藤で身動きが取れない状態です。

追記

元々、読み手としてもかなりの偏食で、プロの作品でもほとんど読める作品がありません。そんな中で私の心を動かすのは、決まって後者の作品でした。

後者は流行と無縁な分、作者が描きたいものをひたすら突き詰めたものに仕上がります。なので時代や流行が移り変わっても、良くも悪くも魅力は変わりません。

プロとしてやって行くには難易度は高いですが、不朽の名作を生み出すポテンシャルは後者の方が高いのではないでしょうか。

『宝永の乱』再開にあたって思うこと~作家である以前に思想家であれ~

※今日はちょっとデリケートな話になります。控えめに書きますが、苦手な方はスルーしちゃってください。

 

     *  *  *

『宝永の乱』第一部の十四話で、鵺丸のこんな台詞があります。
「たとえ世の為だとしても、侵蝕人を虐げてよいはずがない。彼らの犠牲を当然だと思っているこの世を、儂は変えたいのだ」

最近、この言葉がよく思い起こされます。
というのも、今まさに、世界中でこれに近いことが起きているからです。
人権が尊重されている現代で、こんなことが起きていることが信じられません。
公共の福祉を盾に、人の生命権すら踏みにじるようなことが、あろうことか民主主義国家で起きています。
幸いにも日本は、それはいけないと政府が公言してくれていますが……
世界中でこんな流れになっていることには、ショックを通り越して憤りすら感じています。
公共の福祉のために我慢しなければいけないことがあるのは分かります。しかし生命に関わるところだけは、公共の福祉であっても決して侵してはならない領域だと私は考えています。
たとえそれで救われる命があったとしても、体を差し出せというのはおかしいです。

言いたいことは山ほどありますが、この辺にしておきます。
本来ここで話すべきことではないと思うので、かなり遠回しな書き方をしました。分かりづらくてすみません。
ですが、分かる人には分かってもらえたかと思います。

私は今世の中で起きていることを、『宝永の乱』に重ねています。
いろいろと激しい感情が渦巻いています。
でも、それがむしろモチベーションになっているところがあります。
こんな世の中だからこそ、なおのこと『宝永の乱』を書く価値があると。

     *  *  *

以上、デリケートな話でした。

作家が自分の政治的立場や社会思想を打ち明けることは、結構リスクのあることだと思います。
炎上はまだいいとして、作品にまで批判が及ぶのが作家としては一番怖い。

でも、作品には少なからず作者の思想が反映されるものだと思いますし(特に歴史系は)、その方が作品に深みが出るのではないかとも思います。
私がここに書いた考えも、『宝永の乱』に反映されていることなので(まさか現実になるとは思っていませんでしたが)、今日は思い切って書いてみました。

私の書く作品って、結構自分の思想や経験が強く反映されています。
ずっと前に漫画のネーム(今思えば、スッカラカンな内容でした。ページ数を守ることしか頭になかった)を出版社に持ち込んだことがあって、その時に「なにかテーマ性を持たせるといい」と言われました。
ただそれだけなんですが、それから結構意識するようになりました。
それまでの『宝永の乱』は世界観しか見どころがなく、侵蝕にも深い意味はありませんでした(あんまり覚えてないけど)。
それが「侵蝕人を救う」というテーマを得たことによって、ようやく本物の作品になったと思っています。
別に、無理にテーマ性を持たせなくても、面白ければいいとは思いますが――単なる娯楽で終わらせたくないという気持ちが、今はあります。
物語が書かずにいられないのと一緒で、心の中にしまっておけない気持ちや考えが、やっぱりあるんです。だから物語に組み込んで表現する。
そして読者が共感したり、考えたりするきっかけになれば、作品を作った甲斐があるというものです。
(パルテミラなんかは、世界観と思想が上手く絡み合って物語にまとまった感じで、その意味でも大満足の作品でした)
いつからか、私は自分にこう言い聞かせるようになりました。

作家である以前に、思想家であれ――

文脈を作らない書き方/新作公開のお知らせ

御無沙汰です!
現在、新作の第五章(一章=一話で書いています)が終盤に差し掛かったところですが、書き始めてから一ヶ月くらい掛かってしまっています。計画的二度寝作戦(早く寝て、深夜に起きて、目標分まで書いて寝る!笑)でなんとか詰まっていた場面を切り抜けました。

遅筆を改善するために、最近は主に生活習慣を見直しているところですが、書き方についてもまた少し思うところがあったので、今日はそれを書きます。

【文脈を作らない書き方】
文章を書いていて、いざ読み返してみると「なんか違うな」と思うことがあります。
文法がおかしいわけでもない。単調なわけでもない。延々と悩んで書いては消して、それが原因で書くのが嫌になってしまうことが、結構多いように感じます(違和感があってもとにかく書き進めるやり方がよく推奨されていますが、私の場合は全部書き直す羽目になりそうで……笑)。
そこで思いついた対処法が、地の文に「文脈を作らない」ことです。
私の場合、書きたいことを無理に詰め込もうとするので、文脈に歪みが生じるのだと思います。
ならば最初から文脈がなければいいじゃないか、というわけです。
「文脈を作らない」なんて、そんなことできるのかと思われるでしょうが……例えば漫画なんかは文脈がなくても成立しています。つまり、漫画で表現できること――情景描写に絞って書くということです。

実はこれ、以前二回にわたって話した「情緒的な文章」なんじゃないかと思います。
情緒的な文章は理路整然としているわけではないけれど、余計なことに頭を使わなくていい分、心地良く感じる――なんてことを書きましたね。
文脈を生まない、絵的に表現できる文章は「ふ~ん」で流せますが、
そうでない――思考や知識が絡んだ文章が出てくると、読者はそれが出てきた意味を考えます。なのに意味を持たせないままにしてしまうと、もやもやが残り、違和感となるでしょう。作者としてはその一文を書きたかっただけで、これといった意味はないのですが笑
どうしても書きたければ、会話文にさりげなく入れたり、地の文に入れるならちゃんと話の中での意味を持たせるか、ただの豆知識だよと分かる形にする必要があるかと思います。

「文脈を作らない」書き方は、文章の美醜を問わなければすらすら書けてしまいます。
特に新作の場合は一人称なので、多少は雑に書けます。むしろそれが主人公の魅力を引き立たせることも。
もちろん文脈を作るところは作ります。書き出しなんかは特に、状況説明や豆知識から入ると読者も物語に入りやすいと思います。作者からすれば、書き出しは書き損ねた豆知識を書くチャンスでもあるかと(前後の繋がりをほぼ無視できるから)。要はバランスですね。

ということで、詰まった時は「文脈を作らない」書き方を意識してみようかと思います。
なんだか一人称を書くようになってから、いわゆる「情緒的な文章」を書く頻度がかなり多くなった気がします。『宝永の乱』に戻った時、どうなるんだろうか。

【新作公開のお知らせ】
個人ブログ『幻想歴史資料館~ナマオの館~』にて、プロローグまでを公開しました(と言っても、プロローグはすでに近況ノートで公開してますがね笑)。
本当なら第六章まで書き上げてから公開する予定でしたが、これ以上遅らせるわけにもいかないので、とりあえず。
まあ二月中に第六章が書き上がれば、予定通りと言えなくもない。

ネット小説にプロローグは必要か

※カクヨムの近況ノートでの交流で書いたものに少し書き足した内容となっています。

 

だいぶ前のことですが、プロローグ不要論なるものを見たことがありました。「プロローグがある作品は駄作」とでも言わんばかりの強い論調だったような気がします。

私が見たのはかなり極端なものでしたが、やはりプロローグはない方がいいといった意見は、少なからずあるようです。理由としては、「内容がない」「本編との繋がりが薄いから読む必要がない」「せっかく物語に入り込んだと思ったら、第1話でまた新しいのが始まって……疲れる」などがあるようです。

そう言えば、『宝永の乱』をカクヨムに投稿したての頃は、なぜかプロローグがすっ飛ばされる現象が起きていました(PV数が第1話の方が全然多いという……)。

『宝永の乱』はプロローグを読まないと内容が分からない構成にしているので、プロローグはほぼ必須だったんですよね。それをすっ飛ばしていきなり第1話を読んで、「なにこれ分からない」と離脱されてはたまったものじゃないです。今は第1章の方に移した効果があったのか、ちゃんと第1話より多く読まれるようになりましたが。

 

私は「プロローグは必要」派です。

無理に入れなくてもいいんですけどね。必要だと思えば入れればいいんです。

そもそも、「内容がない」「本編との繋がりが薄いから読む必要がない」だのって、そんなのは作品によるじゃないですか。そんなしょうもない先入観でプロローグをすっ飛ばすのは、読者にとってもなに一ついいことはないと思います。

プロローグには、その作品の世界観を掴んで自分に合っているかを見定める大事な役割があると、個人的には思います。たいていは字数が少ないので、気軽に読めます。これが読者にとってのメリットです。

漫画でも、ファンタジーや歴史ジャンルの作品は、扉絵の前にプロローグ的なものが入ることが多いですよね。ページ数の都合で第1話に含まれてはいますが、内容的には区切ることもできるはずです。

作者にとってのプロローグを書くメリットは、迷っている人に「まあプロローグくらいなら読んでみよっか」と思わせられることではないでしょうか。

いきなり第1話だと、どこまで読めばその作品の世界観を掴めるのか検討がつかず、自分ならためらってしまいます。第1話で掴めればまだいいけど、第2話、第3話まで読まないと分からないものも……そして迷った末に読んでみて、合わないと感じた時には、まあまあな時間を消費しているわけです。内容的な区切りが悪いところで離脱したら、モヤッとしますよね。

対して、プロローグは1000字すら行かないものもチラホラ。プロローグだけ読んで「合わない」と離脱しても2分程度。内容の区切りも良いので、読後感はスッキリです。「ふ~ん、いいじゃん」と応援ボタンを押す余裕もあるでしょう。

 

プロがやってるから「なんとな〜く」入れるプロローグはともかく、

「世界観を手軽に掴んでもらう」などといった、目的を持って書かれたプロローグは、プラスになるのではないでしょうか。