第10章:雷光祭

 九月二十三日――雷光祭の日がやって来た。
 まだ夏の暑さは残っていたが、うだるほどではない。時折吹く風が心地いい。
 地上最速の競争が見れるとあって、テシオン郊外に設けられた会場には朝から多くの観客が集まっていた。競走に参加するジェロブとエミールは、先に着いているはずだ。
「おおっ!? そこにいるのは、ベテルギウス将軍じゃないですか!」
 ジェロブたちの元へ急いでいると、テシオンでは聞くことのなかった野太い男の声が掛かった。振り向けばそこには、ただの観客にしては屈強過ぎる男たちがいた。
 スパルタクス時代の部下たちだった。
「久し振りだな、お前たち! 元気にしてたか?」
「見ての通りっすよ。将軍の方こそ、どうなんですか? テシオン楽しいですか?」
「フッフッフ……知りたいか?」
 オレは散々に焦らしてから、部下たちにテシオンでの体験を話してやった。
 ヴェルダアースとの再戦の話に始まり、王宮前広場やテシオン劇場の賑わい、美女に美少年、美食の話……ずるいとは言わせないぞ。「オレたちの分まで楽しんで来てください」と言ったのは、お前たちだ。まあでも、ジェロブのことは黙っておくことにしよう。
 部下たちの方はというと、エウフラーテス川の畔にあるセルキヤという都市に移されていたようだが、それなりに楽しく過ごしているようだ。そこも、かつてはどこぞの国の首都だったらしい。
「悪い、今日は雷光祭に出場する友達を応援しに来てるんだ。またあとでな」
 オレは途中で話を切り上げて、その場を離れた。
 久々に会った部下たちとの時間も大事だが、エミールたちとの約束はもっと大事だ。
「ベテさ~ん! こっちこっち!」
 向こうでジェロブが手を振っている。
「誰なんですか、あの可愛い子は!?」
「ずるいですよベテルギウス将軍!」
 喚く部下たちから逃げるように、オレはジェロブの方へ走り去った。

 雷光騎兵による競走は、一スタディオン約百八十メートルの距離で行われる。
 二百騎が出場し、予選は二十組、準決勝が四組。それぞれの組の上位二騎が勝ち上がり、最終的には八騎で決勝が争われるとのことだ。
 観客たちが集まる小さな丘の下には草の走路があり、すでに出場者たちが練習を始めていた。
天使の羽マラライカ!』
 体重を軽くする魔法を唱え、次々に駆け出す雷光騎兵。
 なぜだかジェロブとエミールは、それを他人事のように遠くから眺めるばかりだった。
「お前たちは練習しないのか?」
 そう聞いてみたら、練習中の幼精たちを見つめたまま、ジェロブが教えてくれた。
「狩猟豹はあんまり体力がないから、今走らせたら決勝まで持たないよ」
 言われてみれば、今練習している者たちも、走り出しの感触を確かめているだけのように見える。少なくとも、最後まで突っ走ってる奴は一人もいない。
「オレたちにとっちゃ、予選が準備運動みたいなもんだろ」
 背後から声がして、オレは振り向いた。
 オレの知らない幼精が、そこに立っていた。
 明るい赤毛が特徴的で、背丈はそこらの幼精よりさらに一回りも二回りも小さい。人を食ったような笑みを浮かべ、エミールの方ににじり寄る。
「よお、エミール。見ない間にまたでかくなったな」
「アルバロス……」
 返すエミールの声はどこか苦々しい。嫌な奴に出くわしたといった感じだ。
「半幼精ってのは本当に成長が止まらないんだな。もう雷光騎兵辞めた方がいいだろ」
「辞めねぇよ。狩猟豹に乗れるうちは続けるって言っただろ」
「ふ~ん? まあどうでもいいけど……オレはお前のために言ってんだぜ? どうせ来年には乗れなくなるだろうし、無理して続けても惨めなだけだ」
 助言なのか嫌味なのか分からない台詞を吐いて、アルバロスは立ち去った。
「嫌な奴……」とジェロブがつぶやく。
 聖人ジェロブをしてそう言わしめるとは、あいつ、なかなかやるな……
「なんなんだ? あのちっこいの」
「アルバロス。去年の雷光祭の優勝者だよ」
 道理で、態度がでかい。しかしそれだけではないだろう。
「エミールとは、仲が悪いのか?」
 少しの沈黙のあと、当のエミールが口を開いた。
「あいつは、オレが半幼精ってことをみんなに言いふらしたんだ」
「!」
「時間が経てばそのうち分かることだったし、宮廷事情に詳しい人なら誰でも知ってることだ。でも嫌だった」
 それはエミールの心を傷付けるための、これ以上ない方法だっただろう。
 幼精に悪い奴はいない――などというオレの幻想は崩れ去った。
 あの野郎……可愛い顔してるくせに、えげつないことをしやがる……あとで覚えてろよ! ほっぺムニムニしてやるからな!
「王立学校の頃から、アルバロスは剣術と騎乗技術でエミールと一番、二番を争ってたんだ」ジェロブが言った。「それで多分、エミールが邪魔になって、悪口言うようになったんだと思う。才能はすごいもの持ってるんだから、お互いに高め合えばいいのに、なんでそんな卑怯なことするんだろう」
「剣ではもう絶対に負けないけどな」と、エミールがボソリ。「あいつは一番になるために、オレをこき下ろした。絶対に許さない」
 エミールにとってこの祭典は、最後の晴れ舞台であるにとどまらず、屈辱を晴らすための、またとない絶好の舞台でもあった。

 角笛の音が高らかに鳴り響き、丘の上に、堂々たる出で立ちの褐色の美女が現れた。
 女帝ゼノビアだ。
 帝都以外では滅多に拝むことができないであろうその威容に、会場は沸き立つ。
 手を上げて歓声に応えるゼノビアを眺め遣り、オレはエミールと言葉を交わした。
「やっぱり来てたんだな」
「雷光祭は、言わば女帝親衛隊の力を見せつけるための祭典だ。陛下が来られてこそ、その価値がある」
「そうか。でも、いいのかい? 他国から見に来てる人もいるんだろ? 雷光騎兵はせっかくの珍しい兵なのに、これじゃみすみす敵に手の内を明かすようなものじゃないか」
「その方がいいんだよ。別に、それで戦争が不利になるわけでもない」
 少しためらってから、エミールは話を続けた。
「認めたくはないけど、雷光騎兵は実戦ではほとんど役に立たないって言われてるんだ。いくら速さがあっても、一スタディオン約百八十メートルを二、三本走っただけでバテるようでは話にならないだろ」エミールの自虐は止まらない。「おまけに乗っているのは、選りすぐりの剣士とは言え、小柄な幼精ばかり。しかも最悪なのは、狩猟豹が霊羊の天敵ってことだ。下手に動いて霊羊騎兵とかち合おうものなら、大混乱間違いなしだ」
「壊滅的だな……」
「でも雷光祭では、その欠点は見えてこない。実際より強く見せることに意味があるんだ。見た目だけなら、雷光騎兵は一番派手だからな」
 つまりは、パルテミラはこんなヤバい兵を持っているぞ――と、他国を牽制する狙いがあるということか。むろん、単なるお祭りとしても十分面白いが。

 開会式が終わってすぐに、エミールとジェロブは出場者たちの待機場所に向かった。
 オレは走路の終着地点寄りの席で、二人の出番を待つ。
 一応、『蜃気楼ミラズ・アルサラブ』でどこからでも見えるようになるそうだが、生で観るならここがいい。
 丘の端っこの方に、屈強な集団が見えた。連れて来てやりたいところだが、ここで観戦できるのはテシオン市民だけだ。悪いなお前たち。
 衛兵で厳重に固められた一番いい席には、ゼノビアが陣取っていた。
 普段から身辺を守る、可愛い親衛隊たちの真剣勝負を見て、なにを思うだろうか。
 予選の第一組――
 早速ジェロブの出番がやって来た。
 名前が呼ばれ、『蜃気楼』に姿を映し出されると、ゼノビアが登場した時の十倍くらいの歓声が上がった。流石はパルテミラの至宝。
 角笛の音とともに、競走は始まった。翼でも生えているかのような、軽やかで伸びのある走りで、ジェロブの狩猟豹は終始先頭を行き、危なげなく勝ち上がった。なかなか調子がよさそうだ。ちなみに前回は四位だったらしい。
 待機場所へ引き返す時に、ジェロブはオレを見つけて手を振ってくれた。
 予選八組目――
 前回王者のアルバロスが、ここで登場した。
 激しく波打つ狩猟豹の背に、しがみつくような姿勢で跨り、開始直後から他の騎手を大きく突き放した。中盤までは完全な独走状態で、終着地点のかなり手前から速度を緩めていた。緩め過ぎて二着だったが。
「危ねぇ危ねぇ。予選落ちするところだったぜ」と、三着の騎手の背を叩いて、アルバロスは引き上げていった。
 予選十七組目――
 エミールの出番がやっと来た。
『蜃気楼』に映し出された顔には、緊張の色が見られる。ちょっと心配だ。
 硬い表情のまま、エミールは位置に着いた。そして角笛が吹かれ、狩猟豹が一斉に走り出す。
 反応は、エミールが一番早かった。他より一回り大きいエミールの狩猟豹が、一気に先頭に躍り出る。が――それもつかの間、二騎の狩猟豹が、すぐにその横に並んだ。抜きつ抜かれつの展開が中盤まで続き、観客たちが波乱の予感にざわめく。
 だがそこからのエミールは、圧倒的だった。他が失速していく中、エミールの狩猟豹は大きな歩幅でぐんぐんと差を広げていき、そのまま最後まで駆け抜けていった。
 終わってみれば、大差をつけての一着だった。
 二着の幼精となにやら話しながら、引き上げていくエミール。オレが手を振っても気付いてくれなかったが、その打ち解けた顔を見て、オレは安堵した。

 すべての予選が終わったあと、オレはエミールたちの元へと駆けつけた。
 準決勝まではまだだいぶ時間がある。待機場所では、狩猟豹と騎手たちが、寝そべったり昼飯を食べたりしていた。
「やったなエミール! 最初はどうなるかと思ったけど、全然余裕だったな」
 オレが差し出した手を、エミールは遠慮がちにペチッと叩いた。
「いや、オレも最初は焦ったよ。去年とは走り方変えてるし、練習通りに行くかがちょっと不安だったんだ」エミールは寝そべる狩猟豹をモフモフして、「でも、こいつならやってくれるって信じてた」
「そっか。頑張ったなモフモフ!」
「フワワだよ!」
 それが、エミールの狩猟豹の名だった。
 強そうな見た目に似合わず、可愛い名前だ。一応は『英雄王ビルガメス』に登場する怪物に由来するらしい。ジェロブの狩猟豹は、女神の名を取ってアルルと名付けられている。
「おいでフワワ。回復してあげる」
 アルルに餌をやっていたジェロブが、手招きする。
 フワワがそばに来ると、ジェロブは優しい子守唄のような声で古代語を唱え、木の杖をひと振りした。
 すると鮮やかな緑色の光が、杖の先から流れ出て、フワワを包み込んだ。
 水面のように揺らめく光の中で、フワワは気持ちよさそうに目を閉じている。
 疲労回復を早める魔法――『英気の光オル・マクマーナ』だ。
 練習でもよく使っていた。もっとも、一晩寝ただけでは疲れが抜け切らないように、あくまで応急的なものではある。しかしそれでも、雷光騎兵の欠点を補うには十分だ。
「競技中にも使えばいいのに」
 というオレのつぶやきは、エミールによって即座に否定された。
「そんなことが許されたら、ジェロブが優勝しちまうだろ」
 確かに。
 純粋な騎乗技術を競うため、最低限必要な『精霊の囁きウェスパーシ』と『天使の羽マラライカ』以外の魔法は禁じられているとのことだった。狩猟豹の能力に差があるのは、致し方ないといったところか。
 昼飯を食べ終え、しゃっくりが治まってきた頃、準決勝の組み合わせが『音響魔法エコースティカ』を通して発表された。
 第一組。ジェロブ、アルバロス……

 観戦場所に戻るや否や、オレは信じてもいない神に、ひたすら祈りを捧げた。
 ジェロブが勝ちますように……ジェロブが勝ちますように……
 上位二騎が勝ち残れるのは、予選と同じだ。だから、ここでアルバロスに勝つ必要はないのだが、そのアルバロスが予選二位だったことが事を難しくしている。すべての組に予選一位の騎手が五人いるわけだが、この組ではその五人に加えて、前回の優勝者を相手取らなければならない。準決勝四組の中で最も激しい競争になるのは、間違いない。
 おお神よ! どうかご慈悲を……!
 開始を告げる角笛の音が鳴る。
 隣り合うジェロブとアルバロスは、ほとんど同時に動き出した。
 速い。速すぎる。そんなに速くていいのか!?
 決勝のために余力を残しておこうと考える者は、一人もいなかっただろう。だがそんな中でも、ジェロブとアルバロスは突出していた。準決勝でここまで差が出るか……中間地点を過ぎても、まだ二人は並んでいた。
 そしてついに、ジェロブの狩猟豹が頭一つ突き抜けた。オレは客席の柵に身を乗り出す。
 その、直後だった。
 アルバロスに抜き返されたジェロブが、急に失速していった。差はどんどん広がっていき、終着地点まであと一歩のところで、追い上げてきた狩猟豹に抜き去られてしまった。
 オレは頭を抱えて地面に倒れ込んだ。
 あんなに祈りを捧げたのに、なんと無慈悲な神様だろうか……そんなにジェロブの泣き顔が見たいか!?
 あいにくと、ジェロブは泣かなかった。代わりに、神よりジェロブを信ずる者たちが、そこかしこで泣いていた。オレも泣きたい気分だったが、それはスパルタクスで鍛えられた涙腺が許さなかった。
 さて、一方のエミールはというと、第四組での登場だった。
 ジェロブの敗退で沈んでいたオレは、第二、三組の競争を見逃していたが、エミールの名が呼ばれた時は流石に我に返った。ジェロブ一人を応援しに来たわけじゃない。こんな気持ちじゃダメだ。
 動揺するオレとは違って、エミールは落ち着いていた。
 笛の音に素早く反応し、爆発的な加速で他を引き放すと、途中から歩調を変え、最後まで失速することなく駆け抜けていった。
 この時になって、オレは初めてエミールの乗り方の特異さに気付いた。
 練習で見た時は気にならなかったが、大勢の騎手と並んで走るとかなり目立つ。
 他の騎手はしがみつくような姿勢なのに、エミールはただ座っていた。上体は前傾させていたものの、違いは一目瞭然だ。アルバロスのような躍動感はないが、なんと言うか……一人だけ馬に乗っているかのような、優雅な乗りこなしだった。

 決勝前の小休止の時間。
 オレが待機場所に来た時、ちょうどジェロブがエミールに叱られているところだった。
「どうしたんだよジェロブ!? あんなに飛ばしたらすぐバテるに決まってるだろ」
「隣がアルバロスだったから、ついムキになっちゃった」てへっ、とジェロブ。「無理させてごめんね、アルル」
 友達のためにムキになっちゃうなんて……可愛いじゃないか。
 悲しい結果に終わったが、これはこれでよしとしよう。
「決勝進出おめでとう」
 オレが祝いの言葉を贈ると、エミールは「どうも」と照れくさそうに応じた。
「なんか、エミールの乗り方って結構変わってるよな。馬に乗ってるみたいな」
「ああ、あれね……」
 そう、あれあれ。
「あれは新しい走り方のせいだよ。オレは騎乗したまま両手で剣を使いたかったから、揺れの少ない安定した走り方を、フワワに覚えさせたんだ。それでああなった」
「なるほど…………って、狩猟豹に乗りながら双剣使うって、もう訳分からんな」
 しれっと、とんでもないことをやってのけているエミール。「まあ、今のところはオレにしかできないし」と、誇らしげだ。
「新しい走り方は、元のより遅くなる代わりに、長く走ることができた。それがたまたま、一スタディオン約百八十メートルを三回も走る雷光祭にはピッタリだった」
 偶然の発見には違いない。が、エミールの飽くなき努力あってこその発見だ。
 いつ引退するかも分からないのに、なぜそこまで頑張れるのだろう?
 狩猟豹に乗れなくなる日が来たら、エミールは耐えられるだろうか?
「フワワは、女帝陛下が贈って下さったんだ。オレのために一番大きかったのを選んで」
「ほう」
 結構世話焼いてんだな、あの方も。
「だから、フワワで優勝することが一番の恩返しだと思ってる」エミールは言った。「フワワの実力は、まず間違いなく一番だ。あとはオレ次第なんだ」
 エミールの視線の先では、主人を差し置いてジェロブと戯れるフワワの姿。
 こりゃあ、ジェロブに文字通り乗っ取られるのも時間の問題だな――と、オレは意地悪な想像を巡らせる。下手すればエミールの引退より先かもしれない。その方が喪失感は少ないかもしれないが。
 ジェロブが『英気の光』でフワワを癒していると、あいつがやって来た。
「オレのも回復させてくれよ」
 アルバロスだった。隣には主人に似て小柄な狩猟豹もいる。
 準決勝を争った相手の要求に、ジェロブは曰くありげな笑みを浮かべ――
「いいよ。負けた腹いせに細工しちゃおっかな」
「やめろ」
 世にも珍しいジェロブの冗談に、アルバロスは苦笑する。
 あらかじめ回復役として配置された王宮魔術師がいるのに、あえてジェロブに頼むあたり、よほど信頼しているらしい。一方で、エミールとは目を合わせようともしなかった。またなにか言ってくるんじゃないかと、警戒していたのだが……
『英気の光』に包まれる狩猟豹を見つめたまま押し黙る因縁の二人。
 やがてエミールが口を開いた。
「次で最後だな」
「なにが?」
 アルバロスの返答は短い。視線は狩猟豹に向いたままだ。
 エミールはムッとした表情を浮かべて、
「決まってるだろ。オレとお前の勝負だ」
「…………だから、なに?」
 わずかに目が泳いだようにも見えたが、アルバロスが口にしたのはそれだけだった。
 柔らかそうなほっぺを少し膨らませて、再び押し黙る。
「素直じゃないな、お前も」オレは、ほっぺをムニムニしたい衝動を抑えて、言った。「こんなにいい競争相手は、他にいないだろ。最後くらい、正々堂々と向き合え。あとになって、競争相手がいなくて寂しいとか言って泣くなよ」
「泣かねぇよ!」
 思いがけない方向からの横槍に、アルバロスがやっと素の反応を見せた。
 ハッ、とエミールの方を見遣り、決まり悪そうに言った。
「まあ、確かにお前はいい競争相手だったよ。正直、今年も決勝まで残るとは思ってなかったけどな」そして、力のある眼差しをエミールに向けて、「最後に相応しい勝負にしようぜ。勝っても負けても、恨みっこなしだ」

 休憩の合間の歌舞で盛り上がっていた観客たちの声も、決勝が始まる頃には低いざわめきに変わっていた。地上最速を決める戦いが始まるのを、静かに待っていた。
「細工は上手く行ったか?」
「抜かりなく」
 オレが悪い顔をして言うと、隣に来ていたジェロブがワッルイ顔で応じた。
 そんな顔もできるんだな。オレの邪気が移ってしまったのだろうか……
 だがジェロブは、すぐに天使の顔に戻り――
「うそ、うそ!」クスクスと無邪気に笑った。「ちゃんとアルバロスの狩猟豹も回復させたよ。二人には最高の状態で勝負して欲しいんだ」
 決勝を争う八人の騎手が、走路の前に立った。
 名を呼ばれた者から、丘の上にましますゼノビアに一礼し、開始位置に着いていく。
 太鼓の合図で、全員が狩猟豹に跨る。
『蜃気楼』に映されたエミールは、ただ前だけを見ていた。
 ジェロブが、祈るような形で、胸の前で手を組む。観客のざわめきも止んだ。
 そして、地上最速の称号を懸けた戦いが始まった。
 誰が最初に動き出したのかは分からない。類稀な才を持った八人の騎手が、八人とも最高の走り出しを見せた。
 だがやはり、最初に抜け出したのはアルバロスだった。序盤のアルバロスはまさに無敵。
 ジェロブよ……よくこんな奴と並べたな……
 そう、思った時だった。
 無敵だったはずのアルバロスを上回る加速力で、ひときわ大きな体をした狩猟豹が追い上げてきた。狩猟豹はどれも同じ顔をしていたが、そいつだけは間違えようがない。
 誰あろう、もっふもふのフワワだ。
 しかしこの展開は、まったく予期していなかった。新たな走法を身に付けたフワワの持ち味は、持久力のはずではなかったのか。それが序盤のうちからアルバロスの狩猟豹に並んだ。それも中間地点に達する前には、抜き去ってしまったのだ。
 エミールは、フワワの背に必死にしがみついていた。
 それで分かった。エミールは、フワワの本来の走り方で決勝に臨んだのだ。
 決勝までに温存していた力をすべて出し切るには、それが一番だと考えたのだ。
 前回王者を圧倒するフワワの激走ぶりに、会場が沸き立つ。
 だがアルバロスも執念を見せた。前半の遅れを取り戻す勢いで、エミールに迫る。
「行け行けぇ!」
 気付いたら、オレは心の中で念じていた言葉を、そのまま叫んでいた。
 逃げ切れフワワ! 優勝したら――――――ジェロブが抱きしめてくれるぞ!
 オレの『悪魔の囁きウェスパーシ』が届いたのかどうか、失速しかけていたフワワが勢いを取り戻した。まだ、アルバロスの狩猟豹とは大きく差がついている。
 そのまま――――――行け!
 走路の最後の線を一番に越えたのは、エミールだった。
 一秒の半分もしないうちにアルバロスが。さらに一秒もしないうちに、残りの騎手すべてが勢いよく駆け抜けていった。
 時間にすればわずかだが、大きな差だった。ほんの十秒ほどの戦いだったのだ。
 大地を揺るがさんばかりの歓声が上がっていた。
 ジェロブが登場した時でさえ、これほどの歓声は上がらなかった。
 歓声は次第に一体となって、新たな王者――エミールの名を連呼する声となる。
 エミールは、なにが起こっているのか分からないといった様子で、観客で埋め尽くされた丘を見上げていた。それから、狩猟豹に顔を埋めて泣いているアルバロスを、複雑な表情で見つめるのだった。

 決勝の余韻が抜け切らないうちに、表彰式が始まった。
 衛兵が隊形を変え、丘の麓からゼノビアの席まで続く一本道を作った。
 登って来たエミールを、女帝ゼノビアは席を立って出迎えた。
「凛々しくなったな、エミール。そなたのことを小さな頃からずっと見てきただけに、此度の優勝は、自分のことのように嬉しいぞ」
「ありがたきお言葉」跪いたエミールが、うやうやしく頭を下げる。「陛下のご恩に報いたい一心で、これまで鍛錬に励んで参りました。このような場で成果をお見せできたことを、大変喜ばしく思います」
 女帝は微笑み、隣に控えた幼精になにやら指示を出した。
 その幼精は、開会式で引退が発表された雷光騎兵の隊長だった。肩に掛けていた飾り帯を外し、エミールの肩に掛ける。それは、隊長の座がエミールに引き継がれたことを意味していた。
 再度、エミールはゼノビアに頭を下げ、誓いの言葉を述べた。
「これから先もずっと、この命が続く限り、陛下をお守りすると誓います」

「なんだか、愛の誓いって感じだったな」
 表彰式から戻って来たエミールに最初に掛けた言葉が、それだった。
「あ、あれは臣下としての言葉だから!」
 半ば放心状態にあったエミールの顔に、血色が戻って来た。
 よかった。いつものエミールだ。
 隊長に昇格するだなんて聞いてなかったから、急にどこか遠くへ行ってしまったような気がして……オレに構ってくれなくなるんじゃないかと……
 全然、心配はいらなかったな。
「アルバロスはあんなもんじゃねぇ。多分、ジェロブとの準決勝でかなり消耗してたんだ」
 改めて、オレが優勝を祝うと、エミールは真面目くさった顔でそう言った。
「ジェロブ、やっぱりなにか細工した?」
「なにもしてないよ。ホントだよ? フワワが頑張ったからだもんね。あ、アルルもだよ」
 二頭の狩猟豹をギュッと抱きしめて、ジェロブは黒い噂を消し飛ばしたのだった。
「ともかく、勝ったのはお前だ。勝者に値するだけのことを、お前はしてきたんだ。誇っていいと思うぞ」
「ああ。もう十分だ。思い残すことはない」今までにないくらいの、晴れ晴れとした顔で、エミールは言った。「応援に来てくれてありがとう、ベテルギウス。お前の声、ちゃんと聞こえてたよ」

 それは、心からの笑顔だったろう。
 だからオレは、その笑顔の裏に秘められた決意に、気付くことができなかった――

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