第57話:海猫の秘密

 羽貫衆の屋敷に帰ってきた次の日、影狼はぐっすりと昼過ぎまで寝ていた。
 目が覚めた後もなかなか起き上がれず、頭から布団をかぶってゴロゴロしていた。
 ひどく重圧を感じる会合だった。あれを一言で表すならば、魔窟だ。隙を突こうと目を光らせる狡猾な魔物。この世のすべてを喰らわんとする強欲な魔物。そして人を術で惑わす聖者とも魔物ともつかぬ者。帰ってきた時にはもう、ひどい負け戦から命からがら生還したような気分だった。そんなものは経験したことがないけれど。
 昨日は寝る前に少しだけ、高見との約束のことを話した。
「もう一度ちゃんと考えた方がいい。その作戦に手を貸せば、お前は朝幕の戦争に深く踏み込むことになる。オレたちが傭兵やるのとは話が違う」
 と、栄作は心配していた。その言葉がずっと頭を離れない。
 傭兵はお金をもらって戦に参加するだけだが、高見の作戦では、影狼は半ば戦を起こす立場にあると言ってよい。それは信条的に受け入れられることなのだろうか。
 悶々と考え込んでいると――
 バチッ
「痛った!」
 突然電撃が走り、影狼は堪らず跳ね起きた。
「いつまで寝てんの? もうご飯冷めちゃうよ。てかとっくに冷めてるよ」
 見れば、布団のすぐそばに來が座っている。布団を被っていたこともあってか、まったく気付かなかった。
「うるさいなぁ……昨日大変だったんだから、もうちょっと休ませろよ」
「なによ、せっかく起こしてやったのに」
「もっとマシな起こし方あるでしょ!」
 ぶつくさ言いながらも、影狼は食事を求めて階段を下りていった。
 電撃のおかげで疲れが抜けたようにも感じたが、多分気のせいだ。
 食堂に入ると、まだ一人だけ食事を続けている人がいた。柳斎だ。そう言えば、柳斎はいつも食べ終わるのが最後になる。朝の挨拶を交わすと、二人はしばらくの間、冷たくなった昼飯を無言でもぐもぐしていた。
 やがて、先に食べ終えた柳斎が、やや遠慮がちに口を開いた。
「決心はついたか?」
 あまりにも小さな声で、影狼は反応が遅れたが、口に詰め込んでいたものを全部飲み込んでから答えた。
「やると言ったので今さら引き下がれないですけど……結局これって、鴉天狗を助けるためにまた戦を始めるってことですよね。本当にこれでいいのかって言われると、自信はないです。武蔵坊もこんな気持ちだったのかな……」
 武蔵坊は鴉天狗を守るために、幕府と戦うことになった。戦場で出くわした時、影狼はそれを間違っていると言ったが、今度は自分がその道に進もうとしている。
 柳斎は椀をじっと見つめ、それから静かに目を上げた。
「これはオレの見立てだが……お前が行かなくても恐らく戦は起きる。人質ではないにしろ、お前は幕府の手中にあると言っていいからな。それだけでも九鬼家を動かすには十分だ」
 食べ物を口に運びかけていた影狼が、驚いて手を止める。
「戦が起こるかどうかは、お前の力でどうこうできるものではない。だとしてだ。こう考えることはできないか? 自分が行くことで救われる命があるかもしれない。そしてその可能性は、自分が強くなればなるほど高くなる」
 その言葉を口にしながら、柳斎は、かつての師が語っていたことを思い浮かべていた。
 笹暮の殲鬼隊入隊を祝った次の日、稽古中に遊んでいた門下生たちに竜眼が放った言葉。
「殲鬼隊員は一国につき三人まで。笹暮は新たにその一人に選ばれた。これがどういうことか分かるか?」
 そう問われて、門下生たちの顔が青ざめたのを覚えている。笹暮が強いから――それも間違いではないが、竜眼がそんな軽々しい答えを求めているのではないことを、誰もが察していた。
 つまり、武蔵国の前任者三人の中で、欠員が出たのだ。
「殲鬼隊は任務中、常に死と隣り合わせだ。どれだけ強かろうと、ふとした気の緩みが命取りになる。仲間が一人殲鬼隊員になったくらいで浮かれてんなよ。本気で殲鬼隊員になりたいのならな」
 ちょっとくらいいいじゃんかと、口を尖らせる者もいた。だが、柳斎がその時感じたのは、いずれ殲鬼隊員になるであろう弟子を無駄死にさせまいという、送り出す者としての決意だった。
 今度は、柳斎が送り出す側。戦地に赴く影狼のためになにができるのか、答えはもう出ている。
 席を立った柳斎は、食器を片付けに行く前に言い添えた。
「他にすることがなかったら、後で道場に来い。オレがお前を強くする」

     *  *  *

 さっそく影狼は海猫を持って、今は柳斎の生活空間になっている道場にやってきた。
 残された時間はあまり多くない。高見から使いが来たら、すぐに出立ということもあり得る。そこで、短期間で強くなるために、妖刀術を教えてもらうことになった。どんな厳しい修行でもやり通すと意気込んでいた影狼だったが、最初にやったのは、修行というよりは遊びに近いものだった。
「どうだ?」
「なんか……変な感じがする……」
 柳斎が用意したのは、等身大ほどもある大きな立て掛け鏡。影狼はその真横に立って、鏡に映る右手を覗き込んでいた。そして両手をあべこべに動かしてみたり、じゃんけんをしてみたり――
「よし。その調子で、両側から鏡を叩いてみろ。左右の手をずらしてな」
 影狼は言われた通りにしてみた。すると不思議なことが起きる。
 目に映るのは、ぴったりと合わさった両の手。手には拍手をしているという確かな感触。続けていくうちに、鏡に映っている手が本当の自分の手で、実際にそこにあるように感じられるようになってきた。薄板一枚を隔てた向こうにある左手は、実際にはまったく違う位置にあるはずなのに。
 つまり影狼が感じているのは、そこにあるはずのない幻の手。
 不思議な感覚だが――ところで、これは一体なんの練習なのだろうか。
「それが、オレが妖刀を使っている時の感覚だ」
「これが……ですか?」
 ぽけっ とした顔で、影狼は柳斎を見上げた。
「妖刀の使い方を教わったことはあるか?」
「はい。妖派に居た時に、柘榴から教わりました」
「ならば聞いたことがあるはずだ。妖刀術を使う上で重要なことは二つ。一つは妖刀を自分の手のような感覚で扱うこと。もう一つは感情に任せて妖刀を振るうことだ」
 それを聞いて、影狼の脳裏に、柘榴のあの華麗な剣舞が蘇る。あの時確かに聞いた。うろ覚えだったが――
「柘榴が言ってたのとまったく同じ……」
「それはそうだ。オレの師――竜眼先生が柘榴の父であることは前に話しただろう。オレに妖刀をくれたのも、妖刀術を教えてくれたのも竜眼先生だった」
 そして竜眼の子である柘榴も同じことを教わっていたわけだ。
 ふと影狼は、もし竜眼があのような最期を迎えなかったら、どうなっていたのだろうと思いを巡らせた。柘榴も柳斎たちと同じ輪に入っていたのだろうか。まったく想像がつかないが。
「話が逸れてしまったな」
「はっ……すみません」
 我に返り、しおらしくなる影狼。柳斎は構わずに話を続けた。
「妖刀術を使う上で重要なのは感覚と心。今やったのは、感覚を鍛えるための練習だ。自分の身体の感覚が、必ずしも実際の身体と一致しているわけではないことは、今ので分かったはずだ。つまり、その鏡に映っている手と同じように、妖刀を自分の体の一部として感じられるようになれば、妖刀の性能を無駄なく引き出すことができる」
 影狼はもう一度、鏡を使ってその感覚を味わう。そうしているうちに、自信がふつふつと体の奥から湧いてきた。
「すごい……今なら、海猫も使えそうな気がします」
 言っていることは柘榴とほとんど変わらないのに、この違い。柳斎に教えてもらえば、なんでもできるような気がしてきた。
 だが柳斎は、弟子が自信をたぎらせるのを特に喜ぶこともなく、静かに言った。
「試したいなら裏庭に行こう。ここで暴発したら洒落にならんからな」

 道場の裏手にある庭は、元々屋外の稽古場として使われていたらしく、壊れて困るような造形はなに一つない。ここでなら、思いがけず大技が出てしまったとしても問題ないだろう。
 遠慮は要らない。海猫と身体感覚を同化させ、あとは気持ちよく海猫を振るうだけ。だったはずだが――
「なにも……起きない?」
 練習の成果は見られなかった。術が発動しないから、確認のしようもない。
 刀を一振りするたびに自信はしぼんでいき、代わりに疑問符が積み重なっていった。
 そもそも、妖刀術は特別な練習をせずとも、ある程度は使えるはずなのだ。柘榴から借りていた雷霆がそうだった。手にした瞬間から一応術は使えていた。雷霆よりずっと手に馴染んでいるはずの海猫で使えないというのは、どう考えても――
「やっぱりこの刀おかしい。他の妖刀なら使えてたのに……」
 影狼が海猫のせいにして諦めたところで、静観していた柳斎が手を差し伸べた。
「借りていいか?」
「あ……はい」
 言われるがままに、影狼は海猫を差し出す。
 やはり、柳斎も海猫がおかしいことに気付いたのだろうか。そう思って、見つめていると――
「!」
「名前の通り、水の能力を持った刀なのだな」
 海猫の剣先から、水が湧き出ていた。そして、まるで意思を持っているかのように、刀身の周りをぐるぐると回り出す。
「一つ、訂正しておかねばならんことがある」しばし海猫の使い心地を堪能したところで、柳斎は切り出した。「妖刀術を教えると言ったが、実を言うと、オレは妖刀術を使ったことがない」
「えっ……どういうことですか? この前、猿山で凄い術使ってましたよね? 今だって――」
「オレの使う覇蛇の御太刀、そして今手に持っている海猫は、妖刀ではないということだ」
「……!」
 これには、影狼もぽかんとするしかない。
 海猫が妖刀ではないというのは、柘榴も言っていたことだ。だがこの違い――違いすぎてわけがわからない。目の前で妖刀術を見せつけておきながら、それを言うだろうか。
「自慢ではないが、オレは邪気の流れを、かなり細かいところまで感じ取ることができる。人が動揺した時の邪気の乱れまで、はっきりとだ。だが、海猫からはなにも感じ取れない」水を纏った海猫に目を据えたまま、柳斎は続けた。「オレの感覚に狂いがなければ、海猫は今、邪気をまったく使わずに術を発動しているということになる」
 ゾッと、背筋を冷たいものが駆け抜けていくのを、影狼は感じた。
 柳斎に特別な力があることは、とっくに知っている。猿山ではその力に助けられたし、日常でも心当たりのある出来事が何度もあった。そんな彼が言うのだから、間違いない。
「妖刀術を習ったことがあるのなら、お前も分かるだろう。そんなことはあり得ないと。妖刀術は、妖刀の中に溜め込まれた邪気を使うことによって術を発動する。邪気なくして妖刀術が使えるはずがない」
「じゃあ、これは一体……」
「邪気ではない、別のなにかが術を生み出している――そう考えるしかあるまい。そして、これはあくまでもオレの勘だが」そう前置きしてから、柳斎は言った。「そのは恐らく、だ」
 新しい言葉が出てきた。だが影狼は、なんとなくイメージはつかめた。邪気があるなら、その反対があってもいいじゃないかと、以前から少し思っていたからだ。
「気……聞いたことはありますが、実在するんですね」
「あくまでも勘だ。邪気と違って、気は感じ取ることができないからな。だが、オレがこう思うのにはちゃんと理由がある」
 柳斎は海猫を影狼に返して、縁側に置いていた巨大な刀――覇蛇の御太刀を手に取った。
「オレも最初からこの刀を使いこなせていたわけじゃない。もともと刀が備えていた特性は機能していたが、それ以上の力はまったく引き出せていなかった。進展があったのは、気功きこうの修行を始めてからのことだ」
「気功……?」
「唐に古くから伝わる、気を自在に操る修行法、あるいはその能力のことをそう呼んでいる」
 なにかまたすごいことが始まりそうな気がして、影狼は口を引き結んだ。
「気功の修行を始めてから、オレは覇蛇の御太刀が自在に使えるようになった。だからオレは、気功で操れるとされる気が、海猫や覇蛇の御太刀の術を生み出していると考えているんだ」
 頭の中でずっともやもやしていたものが、すっと消えて行った。妖刀と同じ使い方ではビクともしないわけだ。
 それにしても、そんな大層な刀を、幸成は使いこなしていたというのか。幸成が、気功やそれに類するものを体得しているという話は、影狼はまったく聞いたことがない。独自にその境地まで至ったということか。それと、海猫が妖刀でないのなら、一体なんなのか――
 一つ分かったことで、新たな疑問が次々に浮かんだが、柳斎がまだなにか言いたそうな顔をしていたので、影狼は視線を戻した。
「気功の修練を積むことで得られるものは、他にもある」と、柳斎。「気功はその人に生まれつき備わった身体機能を強化することができる。例えばオレの、邪気の流れを感じ取る力――心眼と呼ばれているが、これは気功によるものだ。あとは、太郎次郎のあの怪力もそうだ。ちなみにオレに気功を教えてくれたのは、太郎次郎だった」
「オレも気功の修行をすれば、羽貫さんの心眼みたいな力が得られるんですか?」
「保証はできない。かなり個人差があるからな。栄作も一応気功の修行をしたことはあったが、目立った効果は得られていない。だが安心しろ。お前には気功の素質がある。少なくとも海猫を使うところまでは問題なくいけるだろう。心当たりはないか?」
 影狼はほっぺをつまみながら、これまでの体験を振り返ってみた。
 思い浮かんだのは、髑髏ヶ崎館を脱出する時に、一度だけ海猫の術が使えたこと。しかし素質というには微妙なところだ。
「オレがお前に素質を感じたのは、猿山で南蛇井と引っ掻き合っていた時のことだ」なかなか答えの出ない影狼に代わって、柳斎が答えた。「あれだけ激しい動きをしていたにもかかわらず、あの時のお前からは、邪気の揺れがほとんど感じられなかった。あれはまさに無我の境地――気功が理想とする心の状態だった」
 記憶は掠れかかっているが、言われてみれば、あの時の自分はいつもと少し違っていた気がした。
 あらゆる雑念から解放された、研ぎ澄まされた感覚。人間離れした相手の動きにも、自然と難なくついていく身体。なにもかもが、思うままだった。
「それじゃあ早速やってみるか。気功に必要な、無我の境地を引き出す練習を」柳斎が珍しく微笑んだ。「狙ってできるようになれば、お前も海猫が使えるようになるはずだ」
「……! お願いします!」
 海猫が自在に使える日は、意外と近いかもしれない。次の課題に期待を寄せて、影狼は威勢よく返事をするが――
「よし、では今から十五分間、坐禅だ」
 期待外れだった。
 影狼はじっとしているのが苦手だ。寝る時でさえ、ゴロゴロ動かずにはいられない。それを十五分も耐えろと言うのか。
「そんな顔をするな。海猫を使った練習に入る前には、坐禅とさっきの鏡のやつを毎回やってもらうからな」
「そんなに大事なんですね」
「ああ。基礎をしっかり身に付けてもらいたいからな。話が長くなってしまったが、海猫を使う時も、感覚と心が重要ということに変わりはない。ただ、心の部分で特別な鍛錬が必要なだけだ」
「なるほど……じゃあ頑張ります」
 坐禅は、心の鍛錬――気功習得への第一歩。これはこれでなかなかの苦行だが、強くなるためなら致し方あるまい。

 姿勢のことから呼吸の仕方まで、事細かに指示を受け、ようやく坐禅を始められたのは、十五分も後のことだった。
「寝るなよ」と一言だけ残し、柳斎はどこかへ行ってしまった。
 だだっ広い道場の真ん中で、影狼は動きたい衝動と戦っていた。そろそろ姿勢がキツい……
 それでも、影狼は言われた通りの姿勢と呼吸を心掛けた。鼻から大きく静かに息を吸い込み、口からすーっと吐き出す。
 それを繰り返していると、いつの間にか姿勢が苦ではなくなっていた。そして苦痛に代わり、とりとめもないことが頭に浮かぶようになる。
 ほとんどは気に留めるまでもないことだったが、やがて影狼は、ある一つの記憶に心をとらわれていった。
 海猫に出会う以前の記憶――それが、今の自分を突き動かしているような気がして、ならなかったのだ。

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