第15話:上野国へ

 追われる身ではなくなったが、眠れない夜はまだ続いている。影狼の寝相は悪くなる一方であった。
 柘榴の与えた選択肢が影狼の心に葛藤を生み出していたのだ。
 鴉天狗の一人として、仲間と運命を共にするのも潔い生き方だろう。しかし救える命を救わないのも心が痛む。たとえその選択が妖派を増長させることになっても、まずは命を優先すべきではないのか。
 ―――幸兄、オレはどうすればいい?
 影狼は心の中で問いかけたが、当然答えは返ってこなかった。今は形見である海猫さえも没収されている。
 寝返りを打つと、木製の寝台がぎしりと音を立てた。
 それに続いて、もう一つ――
「もうちょっと静かにしてくれないか? オレ明日早いんだから」
 影狼が横になっていたのは二段式の寝台。声がしたのは下の方からだった。
 二段ベッドと言えば何やら楽しそうだが、要はスペースを節約するための物である。
 妖派入りが決まったわけではないのに、既に影狼には兵舎の一室があてがわれていた。侵蝕人で構成された精鋭部隊――奇兵の兵舎である。
「ごめんって……」
 一段目の者へ向けて、影狼はあまり丁重とは言えない言葉で謝った。
 出会って一日であるが、影狼はすっかりこの同室の者に気を許していた。相手も同じである。年は幸成と同じぐらいだろうか。雰囲気もどこか似ていて、親近感を覚える。名は伊織いおりといった。
 少しの沈黙があり、再び伊織が口を開く。
「まだ迷ってんのか?」
「うん……」
「あんまり考えすぎるなよ。頭おかしくなるぞ」
 温かみは感じられないが、伊織は素直に影狼のことを心配してくれているようだ。
 この青年とすぐに馴染めたのは、こういった面があるからかもしれない。
「お前、今いくつだ?」
「十三」
「そうか……オレが奇兵になったのも、確かそれぐらいの時だったな」
「そんなに前から?」
「まあな……」
 感傷的な声を漏らして、伊織は押し黙ってしまった。
 割と落ち着いた性格をしているが、奇兵ということは彼も侵蝕人。いや、邪血なのだろう。影狼は聞いてみたくなった。彼が奇兵としての暮らしをどう感じているのか。柘榴の言っていたことがどこまで正しいのか。
「伊織は、辛くないの?」
「何が?」
「そんな前からこんなところに居て、大変じゃない?」
 口に出してみて、影狼はハッとした。マズい聞き方をしてしまったような気がしたのだ。
 窓の外で、風に揺られた木々がさざ波のような葉音を立てた。
「オレたち奇兵が、惨めだっていうのか……?」
「いや、そんなつもりじゃ……」
 伊織の声が、冷ややかになる。
「奇兵に入ったおかげで、オレは生きて行こうって思えるようになった。国のために戦えるし、頑張った分だけ真っ当な評価がもらえる。これのどこが惨めなんだ!? 邪血になる前でさえ、こんな生きがいは感じたことがなかったのに」
「伊織……」
「オレから見れば鴉天狗の方がよっぽど惨めだよ。侵蝕人の烙印らくいんを押されて、厄介者としてただ生かされるだけ。そんな生き方、オレは御免だな。死んだ方がまだマシだ」
 ここまで言われると、さすがに心にグサッと来る。
 影狼が妖派入りをためらっていたように、伊織にも譲れないものがあるのだ。伊織にとっては奇兵が全てであり、その一員であることが何よりの誇りであった。それを否定されるのは不愉快極まりないことだろう。
 もちろん、影狼はそんなつもりで言ったのではないのだが、伊織の中には抑えきれないほどの怒りが燻っていたのだろう。奇兵の活躍をよく思わない鴉天狗の態度は、彼の自尊心を深く傷つけていたのかもしれない。
「悪い……言い過ぎた」
 鬱憤うっぷんを存分に晴らすと、伊織は我に返った。
「いや、いいんだ……」影狼の目には涙が滲んでいた。「伊織の言った通りだよ。オレは妖派の事、何も分かってなかった」
 本当はもう、気付いていたのかもしれない。ただ目を背けていただけだ。
 鴉天狗に居た影狼にとって、妖派は憎むべき敵であり、絶対的な悪であった。それがいざ妖派に来てみれば、鴉天狗の方が色あせて見えてしまう。
 嘘だと思いたかった。
 妖研究は悪の象徴。奇兵というのも、人道にもとるものだったはずだ。
 伊織がそれを証明してくれると期待していたのだが――
 幻想を振り払った影狼は、手で涙を拭いながら言った。
「オレ、やっぱり妖派に入ってみる」
「そうか……じゃあよろしくな。困ったことがあればオレが助けてやるからよ」
「うん……」
 ためらっていたのは、妖派での生活が怖かったからかもしれない。
 だが伊織という心強い味方がいれば、やっていけそうな気がした。
 言葉を切れば、二人きりのこの部屋は実に静かであった。それだけに寝返りはよく響く。
 影狼は、今度は布団にくるまるようにして寝返りを打った。

     *  *  *

 翌朝、影狼は柘榴の執務室へ呼び出された。
 こちらから出向くつもりだったのに――少々拍子抜けであるが、柘榴から告げられた一言が、影狼の気を引き締めることとなった。
「鴉天狗の所在が判明した。上野国の関所を占領して、そこに立てこもっているそうだ」
 最初、影狼は何の話か分からなかった。
 消息を絶った仲間が、あらぬところに出現したのだ。しかも徹底抗戦の構えを見せているらしい。
 事実だけを淡々と述べながら、柘榴は部屋の中をゆったりと歩き回る。
「すでに幕府の鎮圧部隊がいくらか関所に集結している。最終的には二千を超える兵力になる予定だ。強者ぞろいの鴉天狗でも半日と持たないだろう」
 遠回しでねちねちとした言い方だが、要するに時間切れということである。影狼に決断を迫っているのだ。
「さあ、どうする?」柘榴がようやく立ち止まった。「泣いても笑ってもこれが最後の……」
「もう決めたよ。オレは妖派に入る」
 待ち切れずに影狼が答えた。
「……やけにあっさりしてるな」話をさえぎられて、柘榴は興ざめしたようだ。「まさか所在が分かるまで待ってたんじゃないだろうな」
「昨日の夜決めた」
「ならいいが……」
 そう言って、柘榴は卓上に置いてあった物を差し出した。
「!」
 影狼は手に取ったそれを見つめる。
 所々色の落ちた瑠璃色るりいろの鞘――
 妖刀海猫。來に敗れた時から没収されていた、幸成の遺品であった。
「交渉成立だ。只今を以て、影狼を妖派旗下、奇兵の一員とする。幕府の為、侵蝕人の為に、全力を尽くす事を期待する」なにかに向けて宣言するように、柘榴が言った。「妖派はその見返りとして、鴉天狗を窮地から救い出してみせよう」
 心が軽くなっていくようだった。
 受け入れ難いこともあったが、影狼は大きな決断を終えたことを実感した。
 しかし本当に大変なのはここからだ。
「もしできなかったら、どうするつもり?」
「どうもしないさ。その時はお前の好きにしてもらって構わない――が、成功した時にお前が約束を破ればどうなるかは分かるな?」
 そうか――影狼は悔しそうに唇を噛みしめた。
 つまり、仮に鴉天狗が無事保護されたとしても、人質になるだけ。柘榴に忠誠を誓う気はさらさらないが、大抵の命令には従わざるを得ない事になるだろう。
「ともかく、それはまだ先の話だ。今は成功させる事だけを考えろ。出来るかできないかは、お前次第だからな」
「……!」
「時間的に見て、鴉天狗と幕府の戦を止めるには今すぐ鎮圧部隊の大将と交渉しなければならない。その役目をお前にやってもらう」
「……なんでオレが? この前、できる限りのことはするって言ったじゃん」
「状況が変わったのさ。お前がグズグズしているうちにな。あいにくオレは都合がつかない。本来なら信濃にいなければいけないのだからな。それをお前の為にここで待ってたんだ。ありがたく思え」
 不遜な言葉で返され、影狼はむすっとなってしまった。
 柘榴は人が悪そうな顔に微笑をたたえる。
「心配するな。オレは行けないが、代理の人は付けてやろう。ちょうどいい奴がいる」

     *  *  *

 南の空は黒く渦巻き、異界への入り口のようにすら見える。
 その辺り一帯は、朝とは思えないほどに無彩色で染め上げられていた。中心にそびえ立つ巨大な山が、光を吸い取っているかのようである。
 兵舎の外に出た影狼は、しばらくその景色を眺めていた。
 宝永山――鴉天狗本拠地の八幡からでもよく見えたが、ここからだと周りの景色を全て呑みこんでしまうほどの迫力があった。
「ほら、準備できたらさっさと行くぞ」
 背後から声がして、影狼は現実に引き戻される。
「……伊織」
 本来、この場にいるはずのない人がそこにいた。
 慣れた手つきで馬を引いているが、眠いのか不機嫌なのか、憂鬱ゆううつそうな顔をしている。
「はぁ……なんだってオレがこんな雑事を……」
「へへ、ごめんね」
 伊織は増援部隊の後発として、信濃国へ行く予定だったらしい。
 それがどうしてこうなってしまったのかは、影狼も重々承知している。
 しかし、あの柘榴から代理を任されるとは、最古参なだけあって伊織はかなり重用されているようだ。頼もしいやら末恐ろしいやら……
 複雑な気持ちであるが、今はそんな事など気にしていられない。
 影狼は伊織の連れて来た馬に飛び乗った。
「それじゃあ、行こうか――上野国に」
 与えられた任務は、影狼にとってはあまりにも重いものだった。結果次第では、鴉天狗の最期を見届けることにもなるかもしれない。
 それでも影狼は臆さなかった。
 ただただ、挽回の機会を与えてくれた運命に、感謝するばかりであった。

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