評議後、色部は腹心に守られながら、城内にある屋敷へ向かっていた。
ここ数日は別荘で寝泊まりしていたのだが、鴉天狗との接触を果たした以上、もうそこに用はない。調略の局面は過ぎたのだ。次になにかあるとすれば戦。ならば、危急の際に味方と連携が取れる城内の方がよい。
色部たちが異変に気付いたのは、屋敷前の空堀に差し掛かった時のことだった。
「気のせいでしょうか、本丸の兵がやけに多く感じるのですが……」
部下に促され、色部は本丸を見上げた。確かに本丸に兵が集結している。把握できていなかったということは、義氏派の兵と見て間違いない。評議の間に動いていたのだろうか。
「やはり、夜まで待ってはくれぬか」
思ったよりも早い義氏派の動き出しに、色部は歯噛みする。
鴉天狗の参戦を待つかで迷い、後れを取ってしまったようだ。しかし逆にこちらが評議中に兵を動かしていたとしても、集会所で叩き切られていただろう。悔やんでも仕方がない。
「お前たちは急ぎ義弘様の所へ向かえ。私はこのまま屋敷に戻り、他の仲間に合図を送る」
「はっ!」
屋敷に戻ればすぐにでも狼煙を上げられるよう準備がしてある。狼煙の色を変えることで細かな指示も出せる。広大な善見山城の中では最も効果的な情報伝達手段だ。
本丸を抑えられた以上、義弘派だけの力で城を制圧するのは不可能だ。義弘様がいる三の丸に立て籠もり、鴉天狗の到着を待って反撃に転じよう――屋敷へ向かいながら、色部はそんな算段を立てていた。
しかしその途中で、思いがけない光景が目に飛び込んできた。
屋敷から煙が上がっている。狼煙ではなく、屋敷そのものが燃え上がっているのだ。
「どうした色部。血相を変えて」
呆気にとられていると、背後から嘲弄を含んだ声が掛かった。
そこにいたのは本庄信繁とその私兵たち。彼は色部より先に集会所を退出したのだが、甲冑まで着ているところを見ると、評議の前から戦をするつもりでいたらしい。
「信繁、これは一体なんの真似だ」
「白々しい! 貴様も今の今まで戦の準備を進めていただろうが。上手く誤魔化したつもりだろうが、貴様が鴉天狗と通じているのはお見通しだ」
歯を食いしばったまま、色部はしばらく信繁を睨みつけていたが、突然なにかが吹っ切れたように笑い出した。
「そうか……そうだな。茶番はここまでにいたそう。この期に及んで隠す必要もあるまい」
自分でも気付かないうちに、まだ戦は始まっていないという淡い希望を抱いていたようだ。完全武装した信繁の兵を前にしてなお誤魔化そうとする己の愚かさを、色部は笑ったのである。
「……遂に本性を現したか。余所者の義弘を立てたのも邪な心あってのことに違いない。何が目的だ。正直に言ったらどうだ?」
「吉良家の未来のため……ただそれだけだ」今度は笑うことなく、色部は言った。「お前は義氏を正統な君主と仰ぐが、彼も義秋様の血を引くわけではない。半端な血統や正統性など、この乱世にあってはなんの役にも立たぬ。反対に、近藤が幕臣を束ねているように、正統性を持たぬ者でも力があれば人は付いていくものだ。今の吉良家に必要なのは、正統な君主ではなく優れた君主。義弘様は先代義秋様にも劣らぬ才器を持ち、他国出身でありながら民からの信望も厚い。後継者となるに相応しいお方だ」
これまでの言い分をまとめて聞かせた色部であったが、やはりというべきか、信繁は聞く耳を持たなかった。
「家臣であるならば、家名を守ることを第一に考えるべきであろう。それを蔑ろにするような輩は吉良家に必要ない。やはり貴様には消えてもらわねばならぬ」
信繁は以前、幕府軍を討つべき理由として、その盟主近藤が不当に将軍に取って代わったことを挙げていた。それに対し色部は、幕府の時代が終わった今となっては役に立たない名分だと言った。もとより両者の思想は真っ向から対立していたのだ。
「吉良家が強くなるのならば、義秋様も本望でござろう。お前のような、下らぬ意地を張るばかりで、時代の潮流を見極められぬ者こそが、吉良家を破滅に導くのだ」
「笑わせるな! 貴様は今日ここで死ぬ。今日明日の己の死期すら悟れなかった奴が、時代の流れ云々を語れるか!」
とうとう信繁は刀を引き抜き、配下に突撃を命じた。
色部もすかさず応戦を命じ、自らは数人の兵を引き連れて屋敷へ向かった。
「正成様、お待ちください! 屋敷にはまだ敵方の兵が残っているのでは!?」
「それでも行かねばならぬ。ただでさえ後れを取っているのだ。私が指示を出せなければ、この戦に勝ち目はない。狼煙が無事に残っていることに賭けるぞ」
この戦は城内の陣取り合戦。どれだけ迅速に城の要所を抑えられるかが勝負の分かれ目となる。
評議で牽制し合っていたため、今日の戦に動員できた兵力は双方とも多くない。それだけに鴉天狗の戦力が貴重になるわけだが、彼らが参戦する前に全滅する恐れもあった。命に代えても、それだけは防がなければならない。
「色部が戻って来たぞ! 者ども出合え出あ……ぎゃっ!?」
出会い頭に叫んだ男を斬り伏せ、色部は屋敷の敷地内へ踏み入った。
しかし呼び声に応じて現れた敵の数は、早くも十を超えている。
屋敷の中にはまだ倍以上はいるだろう。流石に厳しいかと思い、追ってくる信繁の方を振り返ったその時――遠くでまた火の手が上がっているのが見えた。
南東の城門の辺りだ。城内で争うだけなら、普通は火の手が上がらない場所。
まさか、義氏派は城外にも兵を潜ませていたというのか……? しかしそれならばおかしい。味方が来ると分かっているのなら、これだけ早く動き出した義氏派が、その門を押さえていないはずがない。火の手が上がるほどに争わなくとも、入城できるはずなのだが……
* * *
「そんな……正成様のお屋敷が……」
義弘のもとへ向かっていた色部の配下たちは、色部の屋敷から火の手が上がるのを見て動揺していた。
「た、助けに行きましょう!」そう言ったのは、この中で一番若い甘粕信忠。「正成様のもとにはあまり兵が残っていないはずです!」
「落ち着け。今は義弘様をお守りすることが先決だ。勝手に動いたが為に戦に負けたとあっては申し訳が立たぬ」
「ですが……今すぐ正成様をお助けできるのは我々だけですよ?」
義弘が討たれるのはもちろん、義弘派の指揮を執る色部を討たれた場合も敗北は必至。むざむざ見殺しにはできない。
一同がどうしたものかと考えていると、漆黒の大槍を携えた男が、手勢を引き連れて現れた。
「やめておけ。貴様らのような雑魚が行ったところで返り討ちに遭うだけだ。色部のもとには信繁を行かせているからな」
「なっ!? し……新発田!?」
その者が誰であるか分かった途端、義弘派の家臣たちの顔からさーっと血の気が引いた。
吉良家中では信繁に次ぐ武勇を誇る男――新発田晴家。
「命の惜しい者は武器を捨てろ。今なら義弘側に付いたことも不問にしてやろう」
勧告を受けると、義弘派の家臣たちはしきりに周囲を気にし出した。誰か一人でも投降者が現れれば、多くの者がそれに続きそうな雰囲気であった。
城内の要所は押さえられ、指揮を執るべき色部もすでに討たれているかもしれない。そして目の前には信繁と並ぶ吉良家中最強の猛者。この状況では、降伏者が出ても誰も咎めはしないはずだ。
ニヤリと口の端を歪める新発田。だが、第一声がその笑みを一瞬で打ち消した。
「みなさん、先に行ってください。ここは私が防ぎます!」
勇気ある言葉を発したのは甘粕信忠。
色部の屋敷に火の手が上がった時は狼狽した様子だったが、今は闘志みなぎる戦士の顔を見せている。
色部を助けるにしても、義弘のもとへ行くにしても、誰かが新発田に立ち向かわなければならない。やるべきことを見つけ、迷わず飛びついた格好だ。
「わ、分かった。任せたぞ」
降伏を考えていた者がいたとすれば、この時点で恥じ入ったことだろう。義弘派は信忠とその兵だけを残し、義弘の待つ三の丸へ向かった。
「どいつもこいつも、迷うことなくお前を置いて行ったな。あの中ではお前もそれなりの身分だったろうに」
「身分なんて関係ありません。適役が残っただけのことです」
「ククク……確かにそうだな」新発田は下卑た笑いを浮かべた。「お前の父虎泰も、所詮は武勇で成り上がっただけの下賎な山の民。ましてその倅如きが自分より身分が高いとあっては気に食わんよな。捨て駒にするにはちょうどいい……まさに適役ってわけだ」
その挑発は信忠から冷静さを奪い去ったようだ。
「捨て駒かどうかは、その目で確かめてみてください!」
怒号するなり、信忠は兵から渡された槍をふるって新発田に打ちかかった。
新発田はその場を一歩も動かない。最初に繰り出された突きを大槍の柄で弾き返すと、のけぞる信忠に会心の一撃を叩き込んだ。
「ぐあっ……!」
かろうじて槍で受けた信忠だったが、新発田の重い一撃は槍をへし折り、信忠の脇腹を直撃した。
腹を押さえて倒れ伏す信忠を、新発田は蹴り飛ばす。
「確かめるまでもない。構えからして雑魚だと丸分かりだ」一言発する度に、さらに蹴りつける。「一挙一動が隙だらけ。そしてなにより……お前は非力過ぎる。虎泰は剛力の弓使いとして知られていたというのに、興醒めもいいところだ。余程甘やかされて育ったのだろうな」
思う存分罵ってから、新発田は槍を突きつけた。
「死ね……薄汚い田舎者め」
両者の実力差は歴然。もはや信忠に抗うすべはない。死を覚悟し、目を閉じる――
が、とどめの一撃はやって来なかった。
なにやら周囲がざわついている。目を開けてみると、鮮やかな緑色の葉がそこら中で舞っていた。
―――笹……? いや、こんな鮮やかなものは……
その中の一枚を手に取り、新発田は眉をしかめる。それから漆黒の大槍を両手に構え、周囲を警戒し始めた。
「そりゃあんまりですよ、新発田さん」どこからともなく声がした。「話聞く限りじゃ、そいつは虎泰さんの息子みたいじゃありませんか。もっと仲良くしましょうよ」
「この耳障りな声は……才蔵か」
「いかにも」
次の瞬間、道の下側で竜巻が起こり、笹の葉を巻き込みながら新発田に襲いかかった。
大槍で防ごうと構える新発田。しかし竜巻に掠められた地面が削れていくのを見るや、とっさに横に飛び込んでそれを回避した。
地上で一転した新発田が、元居た場所に目を遣ると、そこには青みがかった緑色の槍を手にした男の姿があった。
笹野才蔵。鴉天狗に所属する四人の元殲鬼隊員の一人だ。
土まみれになった新発田を見て、才蔵は軽薄な笑みを浮かべた。
「流石は新発田さん。見事な飛び込み」
「やかましい」新発田は土を払って立ち上がる。「お前が来たということは、鴉天狗はもう動き出したのか?」
「とっくに動いていますよ。早い人はね」
色部との約束では、鴉天狗はこの日の夜に参戦の可否を伝えることになっていた。
しかし朝の時点で参戦を決めた鴉天狗は、いつ戦が始まってもおかしくないような状況下で、馬鹿正直に夜まで待つことはしなかった。いつでも動けるように、月光に城内の動静を見張らせていたのである。
鴉天狗は尖兵として二人の猛者を送り込み、それぞれ義氏派の猛者二人に当たらせた。
新発田晴家の所には笹野才蔵。そしてもう一人、本庄信繁の所には――
「いやぁ驚いた。昼寝していたら急に屋敷が燃え上がったんでなあ……うぃっ」
「貴様は……なぜ貴様がこんな所にいる!?」
燃え盛る色部屋敷の中から現れた男に、信繁が忌々しげに問いかけた。
色部は部下のことごとくを失い、敷地内に追い詰められていたところであった。そこへ、瓢箪を片手にふらふらと現れたのがこの男である。固太りした大きな体躯。大きく禿げ上がった月代。エラが張った顎には、獅子のような見事な髭を生やしている。
「これは一体……?」
いつの間に見知らぬ男が屋敷に潜んでいたのか――困惑する色部のもとに、また一人見知らぬ男が現れた。
「ご無事でなによりです。色部様」月光の頭領――十六夜であった。「予定よりは早くなりましたが……この戦、鴉天狗は義弘様のお味方として参加させていただきます」
尖兵が二人の猛者と相見えたちょうどその頃、義弘が立て籠もる三の丸には、鵺丸率いる鴉天狗の本隊が到着していた。
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