第39話:いつの日か――

 奇兵が誕生する前、伊織にはなにもなかった。
 宝永山直下の米堕よねだ村で生まれた伊織は、妖の難を逃れるために幼い頃から移住生活を強いられてきた。逃げた先では追い返され、どの村へ行ってもそれは繰り返された。宝永の大噴火から十年以上が経っていた当時、侵蝕現象は少しずつ世間に知られるようになっていて、米堕村出身の伊織たちを受け入れる村はどこにもなかったのだ。大切な人と呼べるのは、両親だけだった。
 伊織十二歳の時、そんな日々に追い打ちをかける出来事が起こる。
 侵蝕人狩り。いつから始まったのかは定かではない。しかしその頃になると、甲斐国では気取った連中が頻繁にそれを行うようになっていた。伊織たちの所にも、そいつらはやってきた。
 武器も持たないたった三人の家族を、十人の大人が寄ってたかって嬲り物にしていた。父は命と引き換えに刀を奪い。母はその身を盾にして我が子を守った。伊織は戦った。父と母が残したものを無駄にするまいと。
 侵蝕人狩りを返り討ちにした怪童の噂はたちまち広がり、伊織は幕府に捕縛された。
 だが甲斐の獄中で待っていたのは、死ではなかった。
「庶民の戯言たわごとに耳を傾けるな。お前は人間だ」
 そこで出会った青年。その者こそが妖派の創始者――まだ髪の黒かった柘榴であった。
 侵蝕人とされた挙げ句に人を斬り、自分が何者なのか分からなくなっていた伊織を、彼は人と呼んだ。そして伊織が人として生きるただ一つの道を示したのだった。
「戦……?」
「そう、戦だ」柘榴は言った。「お前がやった人斬りは、本来人の道に反することだ。だが戦は違う。戦場では敵を斬れば斬るだけ称賛される。人の道から外れているようで外れていない、特別な世界だ。そこで邪血は大きな価値を持つことができる――人としてな」
「!」
「オレについて来い、伊織。人として生きたいのなら、そのために戦う覚悟があるのなら。道はオレが用意してやる」
 まだ奇兵が存在しなかった時代。馬鹿げた構想だと、柘榴を蔑む者も多かった。
 しかし不思議と、伊織はこの男の言葉を信じることになんの疑問も感じなかった。己の手を汚すことになっても構わない。人としての価値を求めて戦う覚悟を、伊織はこの時決めたのである。
 そして二年後、柘榴の言葉は現実となった――

 雲海から抜け出した伊織は、疲労のあまり片膝をついた。
 さすがに走り過ぎた。妖の血を取り込んだ脚が悲鳴を上げている。
 だがもうひと踏ん張りだ。今度は術を発動する隙を与えずに、すべてを終わらせる。
 荒い息の向こうで、霧が薄れていくのが見えた。思ったよりも早い。
「!」
 無意識のうちに伊織は駆け出していた。霧が収束した先に二人の標的を見つけて、戦士の本能が鋭敏に反応したのである。
 途中で標的の一人――來が雲化した。早めに術を解いたから間に合ったのだろうか。
 だがそれには構わずに、伊織は足を速める。伊織の視線はただまっすぐ、海猫と雷霆を構えたもう一方の標的を捉えていた。
 腰の刀に手を掛けて、伊織は全身の血が沸き立つのを感じた。
 これだ。この感覚が欲しかった。やはり戦場こそが、邪血の唯一安らげる場所なのだ。
 ―――影狼……お前を斬って、オレは奇兵の誇りを守り抜く!
 伊織の右手が黒い閃光を生じた。
 変幻自在の抜刀術。影狼の反応が如何に優れていようと、見切られないだけの自信があった。
 それだけに、激しい金属音とともに斬鬼丸が停止した時、伊織は我が目と耳を疑った。
「……!?」
 影狼は海猫と雷霆――二本の小刀で、斬鬼丸をしっかりと受け止めていたのである。
 呆気に取られる伊織に、雷霆が向けられる。雲海のなくなった今、これを使わない理由はない。
 ―――マズい……!
 伊織はとっさに斬鬼丸を構え直す。が、雷霆から撃ち出された雷撃は大きく外れて、伊織の横をしれっと通り過ぎて行った。
「どこを狙って――」言いかけたところで、伊織の右頬に衝撃が走った。
 衝撃で飛ばされて、伊織は地面を転げる。
 かろうじて半身を起こした時には、すべてが終わっていた。立ち上がろうとする伊織を制するように、影狼が二本の妖刀を突きつけていたのである。
「ああ、痛い。ちょっとは加減してよ」
 影狼の背後から、來がゆっくりと近寄ってきた。
 ここで伊織も知るところとなった。さっきの衝撃の正体が、彼女の拳打であったことを。
 そう。あの雷撃は伊織ではなく、背後で雲化していた來を狙ったもの。影狼は視界を失った來の目となって、タイミング良く來を実体化させたのだ。
 ただ一つ、伊織には解せぬことがあった。
「どうやってオレの抜刀術を見切った」
 必殺の一撃。これがある限り、伊織の勝ちは動かなかったはずだ。だが影狼はそれを二本の小刀でピタリと受け止めてしまった。まぐれ当たりではとてもできない芸当だ。
「左手の動き」と、影狼は答える。「伊織は刀を抜く時に鞘を回して、太刀筋を変えてるんでしょ。だからオレは、鞘を持つ左手の動きに注意してみた」
 それが、伊織の抜刀術の秘密だった。
 伊織は普段、斬鬼丸を刃が下を向くように差しているが、刀の出方は一通りではない。左手で鞘を回せば一瞬で上中下と切り替えることができるのだ。抜刀の瞬間は鞘が腰の陰に隠れているから、見切るためには左手の指先の動きに注意を払う必要があった。
「全部來から教えてもらった。さっき伊織に斬られた時に気付いたって」
「來が……?」伊織はびっくりしたように來を見た。「お前、あれが見えたのか!?」
「ううん……見えたんじゃない。感じたんだよ」
「!」
「霧の中のことなら、アタシは全部感知できるの。自分に近ければ近いほどはっきりとね」來は続ける。「霧の中で抜刀術を使ったのは失敗だったね」
 伊織はしばらくの間、毒気を抜かれたような顔で二人を見上げていた。それから短く吐息をもらすと、ついに敗北を受け入れたのか、顔をうつむけてしまった。
「情けねぇな……お前を妖派に引き留めることに失敗し、その後始末もしくじるとは」
「………」
 複雑な表情でなにも言えない影狼を一瞥し、伊織は斬鬼丸に手を伸ばした。
「!」すっかり油断していた影狼の背筋を、冷たいものが駆け抜ける。
 が、斬鬼丸の切っ先を突きつけられたのは、影狼でもなければ、來でもなかった。
「伊織……一体なにを?」
 斬鬼丸は、使い手である伊織自身の首にあてがわれていた。
「お前のことだ。どうせオレを斬ることはできないんだろ」伊織はスッと目を細めた。「だから……オレはこの戦いに、自分で決着をつける」
「そんな……なんで伊織が死ななきゃいけないんだよ!?」
「決まってるだろ。奇兵としての務めを果たせなかったからだ」
「!」
 こういったところは、やはり伊織であった。見かねた來がなじるような言葉を吐く。
「相変わらず面倒臭い奴……! 奇兵としての務め? どうだっていいでしょそんなもの!?」
「黙れ! 特別扱いだったお前には分からないだろうが、オレにとっては大事なことだ」
 しばしの沈黙。伊織の思い詰めたような顔が、影狼には意外だった。
 戦場で華々しく戦うことが伊織の望みではなかったのか? それなのに今の伊織は、なにかの苦しみから逃れたいが為に死のうとしている。そんな風に見えた。
「奇兵であることがオレの誇りだと、さっき言ったな」伊織は影狼に向き直った。「奇兵がなければオレはとっくの昔に殺されていた。死ぬのは怖くないが、妖怪呼ばわりされたまま死ぬのだけは我慢ならなかった。だからオレは、奇兵として戦に生きる道を選んだ」
 影狼は、戦場を駆ける伊織の姿を思い出しながら話を聞いていた。
「戦場に立てば邪血であることが武器になる。ただ生き残るために、本能のままに目の前の敵を屠ればいい。そうすれば邪血でも、人の世に必要な存在として認めてもらえる。それを求めて、オレは戦ってきた」
 だんだんと熱を帯びていく声を落ち着かせてから、伊織は続けた。
「だが……オレはお前を斬れなかった。人を斬るしか脳の無かった奴が人を斬れなかったんだ。そんな奴に……なんの価値がある?」
 伊織に残されたのは、血で穢れた手だけ。
 奇兵となることによって伊織は仮初めの栄光を手にしたが、その代償はあまりにも大きかった。妖刀斬鬼丸は、使い手の心にも癒えない傷を残していたのである。
 しかし、影狼はそれを見過ごすことができなかった。伊織と戦うことを選んでまで求めていたものを思えばこそ。
「オレは邪血じゃないから、伊織がどれだけ辛い思いしてきたのかは分からない。でも、伊織に価値がないとは思わないよ。戦う以外でも伊織が頼りになるってことは、オレがよく分かってる。今までいっぱい助けてもらったし」
「それは御屋形様の命令だったと言ったはずだ。奇兵であり続けるためにやった。戦場という安らぎの場がなければ、オレはいつ牙をむくか分からないぞ」
「それでもオレは助けてもらった」影狼は言った。「確かに、邪血にとって奇兵以外の道を行くのは難しいことかもしれないけど、できないことはないはずだよ」
 伊織が言葉を詰まらせると、影狼は少し頼りない、しかし切実な声で続けた。
「前に話した、侵蝕で苦しんでいる人たちの力になりたいって気持ち。今でも全然変わってないよ。これから流浪の身になるけど……」顔を上げる。「生きてさえいれば、こんなオレでもいつかはやれると思うんだ」
「!」
「だから、伊織にも生きてて欲しいんだ。オレが絶対に、奇兵とは違う道を選べるようにしてやるから。後悔はさせないから」
 ―――道はオレが用意してやる……
 伊織の心の中で、かつて柘榴に掛けられた言葉が、影狼の言葉と重なった。
 あの時、あの言葉で、オレはどれだけ救われた気分になれただろう。彼は誰もが無理だと思っていたことになんの迷いもなく挑み、ついにはやってのけた。影狼はどうだろうか。分からない。けど――
 伊織は張り詰めた空気を断ち切るように、斬鬼丸を地面に突き立てた。
「オレは戦に魂を捧げた身だ。今さら他の道を望んだりはしない」
「!」
「だが、ここで死ぬのもやめだ。生き恥を晒すことになるかもしれないが、オレはもう一度奇兵をやり直す」
 伊織はきまりが悪そうにそっぽを向いていたが、やがて影狼に向き直った。
 その顔にはもう、先程の思い詰めたような表情はなかった。
「思い出したんだ。奇兵になる前、自分がどうやって生きてきたのかを。どんな辛い目に遭っても、なんのために生きてるのか分からなくなっても、あの頃は決して自分から命を投げたりはしなかった。いつか、報われる日が来ると信じていたから」
 そうして伊織は――奇兵に巡り合えた。
 今あるものがすべてじゃない。そのことを、影狼が思い出させてくれた。
「邪血を救うことがお前の願いなら……」口元をフッと緩めて、伊織は言った。「オレは最初の一人ってことになるな」
 鴉天狗は邪血に安らぎを与え、奇兵は誇りを与え、そして今――影狼は伊織に希望を与えた。
「追い詰めたのも影狼だけどね」
「そんなこと言うなよ。いや、間違ってないけどさ……」
 來が余計なことをボソッとつぶやき、影狼が目を白黒させる。
 当たり前のように見てきた光景。しかし伊織は思う。これこそ、自分が求めていたものなのかもしれないと。そう、邪血も同じ人間。相容れないなんてことはない。
 影狼と別れるのが、こんなにも名残惜しいのだから――
「あ、そう言えば……」
 思い出したように、影狼が伊織の方を振り向いた。そして右手に持っていた物を差し出す。
「忘れるところだった。これは柘榴親方からの借り物だから、持って行くわけにはいかないよ」影狼が差し出したのは雷霆だった。「伊織がオレから取り返したことにしといて。そしたら奇兵に戻りやすくなると思うし」
 それなくしては、髑髏ヶ崎館の脱出は叶わなかったであろう代物。奇兵である伊織に渡せば思わぬ逆襲に遭う危険があった。しかし、伊織がそんな卑怯な真似をする男ではないことを、影狼は知っている。さっき隙を見せた時だって、伊織は反撃を選ばなかった。彼はそういう性格なのだ。
 信頼しているからこその頼み事。
 だが、不器用な伊織は、影狼の信頼を良い意味で裏切ってくれた。
「……フン」
 雷霆を受け取ると、伊織はいきなり雷撃を放った。
「!」
「早く行け。他人のことを気に掛けてる場合じゃないだろ」
 ここで時間を食ってしまえば別の追手が来る。新たな道へ進む二人の足を引っ張らないように、伊織はあえて突っぱねたのだ。
「うん……じゃあね」
 少しだけ淋しそうに笑いかけると、影狼は走り去った。來もチラチラと伊織を警戒しながら、それに続いた。
 燃えるような夕日が、丘陵の向こう側へ消えてゆく。山の奥へ遠ざかっていく二人の背中を、伊織は日が完全に沈むまで眺めていた。その先に光があることを願って。

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