第44話:幕府の犬

 命からがら帰ってきたヒューゴを待っていたのは、不機嫌に顔をしかめた息子だった。
「父さん。もうやめようよ、こんな危険な仕事」
「ダメダヨ。ワガママ言ってヤメたら、幕府からの信用がなくなって、二度と妖の調査をヤラセテもらえなくナル」
「いいじゃんかそんなの!」ヒュウの目にはうっすらと涙が滲んでいた。「うちはあの店だけで十分裕福な暮らしができるんだ。わざわざこんなことする必要ないでしょ!」
 遠目ながら、ヒューゴを連れて帰った影狼たちもこの様子を見ている。
 初めて見るヒュウの剣幕に、影狼は驚きを隠せない。最初に会った時も、ヒュウが立場的に上であるとは感じていたが、せいぜい小言を言う程度のものであった。
「コノ仕事はお父さんが子供の時からの夢だったンダヨ」ヒューゴは拙い言葉を懸命に絞り出して、息子に訴えかけていた。「日ノ本のコトバをガンバって勉強して、幕府のエライ人と繋がって、やっとココまで来た。お金のモンダイじゃナイ」
「だからって……そんなんじゃ、いいように使われるだけだよ。今回のことだって、口封じのためにあえて無茶なところに行かされたとも考えられるでしょ」
「そんなコトない! タカミさんはそんなコトしないヨ!」
「甘いよ、父さんは!」ヒュウの口撃は勢いを増していく。「今朝の護衛の人たちの態度見れば分かるでしょ。幕府にとって、僕らはちょっと役に立つ異人でしかない。調査の途中で死んでも大したことじゃないんだよ」
 ひるんでなにも言い返せなくなった父に、ヒュウはとどめの一言を吐き捨てた。
「なんでもかんでも幕府の言いなりになって……そんな犬みたいな生き方が父さんの夢なの!?」
 話はそれで終わりだった。耐えかねたヒューゴはわんわんと泣きながら影狼たちの横を通り抜け、外へ飛び出してしまった。
「ヒュウ……ちょっと言い過ぎじゃない?」
「父さんはバカだから、あれぐらい言ってやらないと分からないよ」
 影狼が遠慮がちにたしなめるが、ヒュウは頑として聞かない。しかし栄作たちが気まずそうにしているのに気付くと、慌てて態度を改めた。
「すみません。せっかく助けてもらったのに」
「いや、構わんよ」栄作は手をひらひらさせた。「しかし正直ビックリしたよ。ヒュウは侵蝕の調査が嫌だったんだな」
 危険が伴う仕事であることは否めない。しかし、長い間ヒューゴたちの用心棒を務めてきた栄作たちの頭に浮かぶのは、好奇心に目を輝かせるヒュウの姿だった。
「今までは、父さんがやりたいのならと思って、黙って手伝ってきました」夕日のように鮮やかな瞳が、今は暗鬱に沈んでいる。「でも最近になって、なんだかとんでもないことに首を突っ込んでしまったような気がして……」
「なにがあったんだ?」
 少し迷ってから、ヒュウは顔を上げ、栄作をまっすぐに見つめた。
「この一年間、僕と父さんは不可解な侵蝕現象の調査を進めてきました。本当は極秘なんですけど、みなさんはもう無関係ではありませんので、僕の判断で特別に話しておきます」
 話をする前に、ヒュウは栄作たちに温かい紅茶を振る舞ってくれた。彼らが山へ行っている間に用意してくれたようだ。メラン諸島の宗主国――エゲレスから伝わったというその茶の香りは、魔境の中に漂っていた芳香に似ていた。
「もう……薄々気付いていますよね。今回の調査が、これまでと違うということは」
 柳斎と栄作が顔を見合わせた。
「侵蝕は邪気の濃い宝永山の周辺で進むものです。実際、タカミさんの要請で調査を始めてからもう五年ほどになりますが、調査先はほとんどが甲斐国南部で、その他には駿河国に入ることがたまにあるだけでした」
 どうやらタカミというのは、ヒューゴの雇い主の名前らしい。妖派とは無縁そうなその人物が、なんのために侵蝕の調査をさせているのか、気になるところではある。
 紅茶で喉を潤してから、今度は栄作が口を開いた。
「それが最近になって、宝永山から離れた地域でも侵蝕が見られるようになったと」
「はい」ヒュウがうなずく。「侵蝕地域が広がったのならまだ説明がつきます。しかし、僕がこれまで見てきた所は、どれも局地的なんです。ここ猿山でも、周辺ではほとんど侵蝕が進んでいませんよね」
「……確かに。山の奥はあり得ないくらい邪気が濃かったのにな」
「山の奥には村があります。こがらし村と言って、元々は賎民せんみんとして差別されていた者たちが住んでいたようですが、一年以上前から村と連絡がつかなくなったそうです」
「村か……爺さんも言ってたな。けどそんな前から異変があったのか。なんで今になって」
「誰も、凩村のことを話したがらないんですよ」急須から立ちのぼる湯気をじっと見つめながら、ヒュウは言葉を継ぐ。「けがれという観念が、このような山里ではよく見られます。不浄な賎民に関われば穢れが移って、禍の元になると。この辺の人たちは本気でそう思っているようです。それで発見が遅れたんだと思います」
 邪気に似ているな――と栄作は思った。
 現に、邪気と同じ意味で穢れを使う者も時々いる。元を正せば、邪気という言葉自体、侵蝕を説明するために当てはめられただけのものではあるが……
「人里離れた村……孤立した村……これも、局地的な侵蝕に共通することです。人目をはばかるように、不自然な侵蝕が起きているんです。なにか、意図的なものを感じませんか?」
 ヒュウが声を低めると、部屋の中がしんと静まり返った。
 やや遠慮がちな話し方だが、ヒュウの言わんとすることは、みななんとなく理解できた。
「オレもそういう話、聞いたことある」ティーカップで手を温めながら、影狼が言った。「武蔵坊の出身地が大滝村っていう山村なんだけど、突然大型の妖怪が出たって」
「今のところ大滝村の報告は上がっていませんが……もしかしたらそれも、同じ類のものかもしれません」
「なるほど。これは確かに、表沙汰にはできなさそうだ」影狼に続いて、他の者も次々に口を開く。「下手をすれば、朝幕の戦争にとんでもない影響が出るかもしれんな」
「アタシたち消されちゃう?」
「心配すんなって」それから栄作は紅茶を一気に飲み干し、改めて確認する。「しかしそんなこと、オレたちなんかに話してよかったのか?」
「遅かれ早かれ勘付くことだ」ヒュウの代わりに、柳斎が答える。「それならばあらかじめ話して口止めしておいた方が賢い。そうだろう?」
「はい。柳斎さんたちじゃなければ話さなかったとは思いますが」
「それで」と栄作。「ヒュウはもうこの件に関わりたくないというわけか」
「父さんの仕事を応援したい気持ちはあります。でも今日みたいなことがあると……」
 ヒュウが言葉を詰まらせると、栄作はどっこらせと立ち上がった。
「とりあえず、オレたちは明日猿山に行く。幕府の人たちを放っとくわけにもいかないしな。さて、そうなると」チラリと、影狼に視線を送る。「影狼と來は、明日は待機にした方がいいかもしれないな」
「え……?」
「オレたちは妖怪との戦闘に慣れているが、あれだけ強力な幻術は初めて見る。魔境の奥には、もっと厄介な敵がいるかもしれない。お前たちにはまだ早い」
 それは影狼自身、痛いほど分かっていることだった。柳斎が引き戻してくれなかったら、あのまま魔境を彷徨っていたかもしれない。
 しかし栄作たちにとっても、決して簡単な任務ではないはずだ。ただ待つだけなのはもどかしい。
「栄作さん。もし、少しでもオレにできることがあるのなら……行かせてください。オレはもう前とは違って、羽貫衆の一員として一緒に戦いたいんです。それに、あの奥でなにが起こっているのか、この目で見ておきたいんです」
 栄作は、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔で目をパチクリさせた。
 鴉天狗との一戦でも、影狼が感情を高ぶらせてこのように言い出したことはあった。しかし今回は、確固たる意志を持ってその言葉を口にしている。羽貫衆の一員として、鴉天狗の遺志を継ぐ者として、役目を果たそうとしているのである。
「行かせてやれ。少なくともお前よりかは役に立つ」
「そうだそうだ。さっきヒューゴさんを助けたのも影狼だったぞ」
 柳斎と太郎次郎が、影狼に同調する。
「なっ……お前らそんな言い方!」
「じゃあアタシも行く」來も黙ってはいなかった。「アタシの方が影狼より強いし」
 つまり、栄作はこの中で一番役に立たないらしい。こうなれば、影狼と來が行かない理由はなかった。経験こそ浅いが、二人だけで髑髏ヶ崎館を抜け出したという事実が、彼らの実力を証明していた。
 今晩、羽貫衆は幕府の護衛が使っていた借家に宿泊することとなった。
「そいじゃあ、ご馳走さん」部屋を出る前に、栄作は言い添えた。「侵蝕の調査を続ける気になったら、またオレたちを雇ってくれよな。オレたちなら、ヒューゴさんを危険な目に遭わせたりなんかしないからよ」

 家を飛び出したヒューゴは、冷たい風に吹かれながら、悲しみに暮れていた。
「ウウ……ウッウッ……イヌって言われた」
「なんじゃ……お前、犬だったのか」
 その隣に寄り添うのは四つん這いの爺さん。窃盗の罪を許され自由の身になっていたが、まだ帰る気はないようである。
「そう泣くなや。明日は儂も村まで行ってやる。消えた仲間が心配なんでな。犬と猫で仲良くやろうではないか」
「猿だろ。犬猿の仲じゃねぇか」家の方から誰かがやってきて、ツッコミを入れる。「あっ、すまねぇ。ヒューゴさんを犬呼ばわりするつもりはなかったんだ」
「エーサクさん……」
 栄作を先頭に、明日の捜索組がぞろぞろとやって来た。
「ヒュウが言ってましたよ。お父さんの夢を応援したい気持ちはあると。ヒュウはただ、あなたのことが心配なんだと思います」
 そう伝えられて、ヒューゴの顔に少し元気が戻ってきた。
 それから栄作は四つん這いの爺さんに目を遣り――
「そういやこいつ、明日も付いてくるんだってな。せっかくだから、名前付けてやろうぜ」
 魔境に踏み入るという失態を演じたものの、爺さんがいなければヒューゴを見つけられなかったのもまた事実である。栄作たちは彼に好意的であった。妖怪であることを気にしないのは、武蔵坊の存在が大きいのかもしれない。
「ナンジャイ……でいいんじゃない? 分かりやすいし」
 最初に候補を挙げたのは來だった。口癖をそのまま使った形ではあるが、意外にしっくりくる。さらにボケという口癖も盛り込まれ、最終的に爺さんは南蛇井なんじゃい菩慶ぼけいと名付けられた。苗字まで名乗れるとは、贅沢なものである。本人は不満なようだが……
 こうして、最後は全員でエイエイオーの掛け声をしてこの日はお開きとなった。

     *  *  *

 ヒューゴの話によれば、魔境は凩村を中心にして広範囲で発生しているらしい。境を侵せば強い幻覚症状に襲われ、魔境の中を彷徨うことになるのだから、なかなか厄介だ。
 だが二日目は、突破口を見つけるまでにそれほど長くはかからなかった。
「コノ木……怪しいデス」ヒューゴは、魔境の境目に生えた一本の木に目を付けた。「コノ時期、コンナ山の奥でコンナ元気な木があるのは見たコトがありマセン」
 一見なんの変哲もないが、周りが褐色に色づく中で、その木だけは緑の葉と紫色の花を枝いっぱいにつけている。比べてみれば、違いは一目瞭然だった。
「言われてみれば確かに」栄作が言った。「この蔓も、骸骨に巻き付いてたのとそっくりだ」
 試しに太郎次郎が木を引き抜き、柳斎が魔境に入ってみると、やはり幻術の効果は消えていた。魔境を発生させていた犯人はこの木で間違いないようだ。
「植物の妖怪なんているんだね……」根こそぎになった木を見つめて、影狼がつぶやく。
「他にもあるかもしれねぇな。柳斎、お前の心眼しんがんとやらで探せるか?」
「面白いことを言うな。木に心があると?」答える柳斎の声には、揶揄するような響きがあった。「邪気の流れはすなわち心の動き。心があるものでなければ、オレは感じ取れんぞ」
 ―――心眼?
 影狼は柳斎の方を見て首を傾げた。彼にはなにか、特別な力が備わっているのだろうか。
 心当たりがないわけではない。魔境の中で助けられた時のこと――あの中ではお互い姿が見えないはずなのに、柳斎は影狼の手首を掴み、外まで誘導していた。今考えてみれば、常人には真似できないことだ。
「そうか……まあそういうことなら、目で見て探した方がいいか」栄作は魔境の奥を見つめて言った。「万一幻術に掛かった時の対処法は、もう分かってるよな?」
 振り返ると、柳斎が顎に手を添えてなにやら考え込んでいる。
「どうした?」
「いや、なんでもない。些細なことだ」
 この時、柳斎の頭には一つの疑念が浮かんでいた。だが言葉通り、突破口を見つけた今となっては取るに足らぬことであった。
 探し回っているうちに、妖木が二重三重と村を囲うようにして生えていることが、だんだんと分かってきた。妖木はすべてを抜かなくても先へは進めるようだが、念のため囲いにつき二、三本ほど引き抜いて先へ進んだ。
「ワタシが調査を続けたいのは、夢のタメだけではありマセン」羽貫衆が妖木を処理している間に、ヒューゴは世話話を始めた。「幕府には恩があるのデス。ワタシが日ノ本で暮らせるヨウに、幕府はイロイロタスケテくれました。河越にあるアノ店も、幕府が御用達にして下さったオカゲで繁盛しているのデス。ソノ前は他の店からイヤガラセがあったりしてタイヘンでした」
 異人が日ノ本で生きていくのは簡単なことではない。日ノ本は地理的にも異国との接触が極めて少なく、未知の存在であるがゆえに異人を忌避する。
 差別の絡んだ今回の調査には、ヒューゴも思うところがあるのかもしれない。
「ヒュウは賢いデス。小さい時から店をマカセているので、騙されやすいワタシナンカよりずっと商売がジョーズデス。しかし、ドウモ損得だけで物事を考えてしまうトコロがあるヨウデ……ヒュウには、人情の大切さもワカッテ欲しいノデス」
 ―――僕らも幕府に雇われてはいるけど、あくまでお金の為だから……
 最初に出会った時、ヒュウはそう言っていた。確かに、幕府との繋がりは損得でしか考えていないのかもしれない。
 しかしヒュウが薄情者なのかと問われれば、影狼は迷わず首を横に振るだろう。
「分かってくれますよ……きっと。ヒュウの心根が優しいことはオレがよく分かってます」
 その優しさに触れた者だからこそ、確信を持って言える。
 ヒューゴはうなずき、作業をしている栄作たちに顔を向けた。「羽貫衆のみなさん、いつもアリガトウゴザマス。コノ仕事を続けられるのは、アナタたちのお陰デス」
「いえいえそんな……オレたちは好きでやってるだけですよ。ヒューゴさんの用心棒をしてると、殲鬼隊になった気分になれるんでね」
「オラは木こりになった気分だぞ」
 はにかむ栄作の隣で、太郎次郎はまた一本、妖木を大根のように引き抜いた。

 幕府の護衛も見当たらないので、捜索隊はそのまま村へ向かうこととなった。
 妖木の他に道を阻む物はなかったが、村へ近付くに従って彼らは警戒を強めた。規則的な妖木の配置は、ヒュウの言っていたことが正しいことを表している。
 ―――人目をはばかるように、不自然な侵蝕が起きているんです……
 この先にはなにか、人目につくとマズいものでもあるのだろうか。昨日見たような骸骨がまだ一体も現れていないのも気に掛かる。あれですべてだとは思えないのだが……
 山の上にはもう、人家らしきものがいくつか見えていた。
「久しぶりに見るのう……昔と変わらぬままじゃ」
「あれが凩村か……」ようやく辿り着いたことに達成感を感じながらも、栄作には微塵の油断もなかった。「気を付けろよ。そろそろ来るかもしれねぇぞ」
「珍しく勘がいいな。オレもたった今、邪気の揺れを感じたところだ」
 周囲の地面がもぞもぞと動き出したのは、ちょうどその時だった。
 臨戦態勢をとっていた羽貫衆は瞬時にそれぞれの得物を構える。影狼も遅れずに海猫を抜刀する。
 直後、辺り一面で大量の土塊が弾け飛び、それは現れた――

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