その日の夜半頃。上江洲を大将とする鴉天狗の一団が、百人の侵蝕人からなる集団と合流を果たした。鵺丸本隊である。
上江洲たちが幕府軍を引きつけている間に、鵺丸は侵蝕人たちをこの場所へ移動させていた。侵蝕人を守ることが鴉天狗の使命であり、この戦の大義名分なのだ。
鴉天狗本来の目的に変わりがない事を再確認し、武蔵坊は安堵した。
「ふぅ~! 死ぬかと思ったぜ」上江洲が木の根元にドサッと座り込んだ。「おい武蔵坊。何だってあんな所で火を起こすんだ!? 危うく全員黒焦げになるところだったぞ」
「仕方無いだろ。元はと言えば、お前が早く引かなかったからああなったんだ」
強情というか、上江洲はこの時になってもまだ己の非を認めていないようだった。そのくせ、放火をした武蔵坊にはやらたと噛み付いてくる。
「くだらん。要するに上江洲も武蔵坊も馬鹿だったという事だ」
しれっとした顔で油を注いだのは唯月である。二人分の怒りを一身に受けながら続ける。
「まあ落ち着け。おかげで事はうまく運んでいる。上江洲がギリギリまで戦ったことで、鴉天狗の力を知らしめることができた。そして武蔵坊が放火したことで、こちらの損害を最小限に抑えられた。あとは越後に入るだけだ」
遠まわしに労をねぎらわれ、上江洲はまんざらでもなさそうだった。
「ふん、素直に良くできましたって言えば良いんだよ。相変わらずかわいげのない女だ」
武蔵坊の方は小さくため息をついて、上江洲がもたれる木とは反対の方へ歩いて行った。
「どこへ行く気だ?」
「ちょっと一人にさせてくれ」唯月の問いに、武蔵坊は力無く答えた。
ため息の理由が、唯月は何となく分かったような気がした。武蔵坊が出歩くのを、黙って見送った。
ところで、ここに到着してからというもの、肝心なあの人が見当たらない。
「鵺丸様はどこだ?」
「さあな。夜風にでも当たりに行ったんじゃないの」
「お前……やっぱり馬鹿だな」
「……ああ?」
夜風に吹かれながら、上江洲は首をかしげた。
* * *
ゴスッ!
武蔵坊は人気のない森の奥まで来ると、太い木の幹に拳を打ちつけた。
鈍い音とともに木が揺らぎ、鳥が飛び立つ。
「なんでこうなるんだよ……!」
うめくようにつぶやいて思い浮かべるのは、鴉天狗に戻るのを拒む影狼の姿だった。
分かっている。影狼が今でも鴉天狗の味方であることも。影狼が好きこのんで妖派に降った訳ではない事も。
ただ、幸成から託された影狼を、妖派の手に落としてしまったことがたまらなく悔しかった。影狼を鴉天狗から連れ出してしまったのは、他でもない自分だったのだから。
やり場のない怒りは、やはり物にあたるしかない。
武蔵坊はしばらく拳を当てたままうな垂れていたが、不意にあるものを感じ取って、バッと上体を起こした。
―――この感じ……まさか!
その感覚には覚えがあった。
前に感じた時は、遠く離れていても分かるほどの禍々しいものだった。それが今は、かなり近いように感じられる。
武蔵坊は気配のする方へ足音を忍ばせて近付いていった。
そして木の陰から覗くと、少し開けた場所で一人の男がうずくまっているのを見つけた。
武蔵坊は一目見て、それが誰か分かった。
うずくまっていたのは鵺丸。だが、様子が少しおかしい。片膝をついて、うめき声を上げて、何かを必死にこらえているようだった。
「おい、どうしたんだ!?」
不審に思うよりも先に心配になり、武蔵坊は鵺丸のそばへ駆け寄った。
「来るな!」
鵺丸は片手を上げてそれを制した。もう片方の手は、汗だくになった額を押さえている。
武蔵坊はその時になって初めて、鵺丸の異様な影に気付いた。
髪の無いはずの頭から、イソギンチャクの触手のようなものが生えて、ウネウネと動いている。一本一本が生きた蛇のように。
やがてその影はゆっくりと引いていき、鵺丸の影は元の姿に戻った。気の所為か、うめき声に一瞬だけ他人の声が混じったようにも聞こえた。
奇妙な沈黙の中で、鵺丸の荒い吐息が響く。
怖いもの知らずの武蔵坊だが、さすがにこの光景には悪寒を覚えた。
「何だよ……今のは?」
戸惑う武蔵坊に、鵺丸は苦しそうにも嬉しそうにも見える顔で言う。
「クク……なんでもないぞ。お主はなにも見ておらん。今のは……ちと邪気が漏れただけだ。なにも心配することはない」
鵺丸が立ち上がると、武蔵坊は思わず後ずさりした。
そこにいるのは確かに鵺丸なのに、話しているのは鵺丸のようで鵺丸じゃない。
―――今の影はなんだ? 明らかに、鵺丸の影じゃなかった……
心の中で芽生え始めていた予感の一つが、淡い輪郭を持ち始める。
鴉天狗が蜂起した夜のこと。それまで、鵺丸からはそれほど邪気が感じられなかったのに、夜になって急に邪気が騒ぎ出した。そう、ちょうど先ほど感じたように。そして今は、元に戻っている。
鵺丸は侵蝕ではない、なにかよからぬものに取り憑かれているのだろうか。
「鵺丸……あんたに取り憑いてるそいつは、いったいなんなんだ?」
「………」
風が地を這い、乾いた木の葉がカサカサと舞い転がる。
鵺丸はなにも言わずに、ただ虚ろな目で武蔵坊を見据えていた。
* * *
信濃国は上野国の東、甲斐国の北に位置する。日ノ本の屋根とも呼ばれる山岳の国で、いくつもの高山が重なり合う急峻で複雑な地形である。圧倒的だった朝廷軍の勢いを止めたのはここ信濃であり、今や朝幕の戦争における最も重要な地となっていた。
領地の境界線となっているのは栃波山で、そこから西側はほぼ皇国の勢力圏。ひさびさに皇国が攻め寄せるとあって、幕府軍はこの山に陣を構えて迎撃態勢をとっていた。
山の西麓に朝廷軍、西中腹に信濃幕府軍、東中腹の山林には甲斐奇兵が控えている。
「見ない間に、皇国は随分と変わりましたな。あれじゃまるで安上がりのプロセイン軍だ」
奇兵主将の柘榴は、山上から皇国陣地を見下ろしながら言った。
柘榴の隣には、甲冑に身を固めた精悍な男の姿がある。
信濃国大名、松平兼定。
今、幕府四天王の中で最も実績を挙げているのがこの男である。
信濃が幕府の防衛線たり得たのは、ひとえにその急峻な地形の為だけではない。その地形を巧みに利用する者がいたからこそ、朝廷軍はここを通ることが叶わなかったのだ。
戦場での活躍もさることながら、幕府将軍家と近縁の家柄ということもあって、兼定の人望は幕府随一である。唯我独尊という言葉が似合いそうな柘榴でさえ、彼には一目置いていた。
「見た目に騙されるな。皇国は何年も前から西洋式の軍隊を養成している。それが前に出てきたということは、実戦で使えるようになったということ。五日前に少しばかり攻撃を仕掛けてみたが、あれはまさにプロセイン軍の動きだった」
遅れてやって来た柘榴の為に、兼定は皇国の情報を伝える。
幕府軍は、信濃足軽五千、信濃騎兵三千、甲斐奇兵五百。
これに対し皇国側の兵力は推定一万五千。その大半が歩兵であるという。
皇国歩兵は民兵が主体で、群青色の軍服、西洋式の鉄砲を装備している。横長の隊列を組んだ一糸乱れぬ行進、号令に合わせた一斉射撃は、プロセイン軍の戦列歩兵を彷彿とさせるものである。
しかし、兼定が最も警戒しているのは、それら朝廷軍を指揮する男の存在だ。
皇国総大将の名は柴田海八。彼は朝廷軍挙兵以来の重鎮で、プロセインを味方につけるなど、黎明期の勢力拡大に大きく貢献した。一説には、倒幕計画自体、大枠は海八が考えたとも言われている。兼定同様、皇国一の功臣と言っても良い人物だ。
ここ数年は表舞台に出ていなかった分、その実力は未知数である。
「なるほど。防衛戦に私をお呼びになるのは珍しいと思っていましたが、そういうわけでしたか」光栄ですとばかりに、柘榴はニヤつく。「しかし海八という男、戦場での活躍は聞いたことがありません。あなたの敵ではありませんよ」
悠長な言葉には眉一つ動かさずに、兼定は皇国陣地を眺めやる。戦に全てを懸けてきたこの男には、軽口を許さないような雰囲気があった。
「なんにせよ、油断の出来ぬ相手だ。奇兵にはここぞという時に動いてもらう。これまで通り山の東で待機してくれ。くれぐれも皇国に存在を知られぬように頼むぞ」
「承知しました」
そう応じて、柘榴は奇兵の陣地へと引き揚げていった。
この戦の指揮権は兼定にある。当分は彼に任せておけば良い。今の柘榴には、戦の他にもやらなければならない事があった。妖派の進退に関わる重要な事だ。
陣地に戻ると、部下の一人が伊織たちの到着を告げた。
伊織と共に現れた影狼は、絶望という顔つきではなかったが、どこか不本意という様子だった。
労いの言葉を添えて伊織を下がらせると、柘榴は影狼に報告を促した。
「浮かない顔だな。どうだった?」
「失敗だよ。幕府軍が負けた」
「負け……?」
ニコニコしていた柘榴の顔が、そのまま凍りついた。
鴉天狗が二千の幕府軍を相手にできるはずがない。柘榴が想定していた最悪の結末は鴉天狗の全滅だった。この見当違いな結果は、どう受け止めれば良いのやら。
「鴉天狗はそのまま越後に向かってるらしい。国境の守備隊がまだ残ってるみたいだけど、その後の事は知らないよ」
柘榴は一つため息をついて、やれやれとつぶやいた。
「笹暮も無能よな。あんなのが四天王とは、聞いて呆れる」
恩人が無能呼ばわりされて影狼は機嫌を悪くしたが、柘榴は気付かないようだった。なにやら思案を巡らせているようだ。
なにを考えているかは、影狼にも予測がついた。
「あのさ……オレってもう、妖派に残る必要ないよね」
「……やっぱそうなるよな」
耳に痛い言葉に、柘榴は笑うしかない。
影狼の奇兵入りは鴉天狗の保護が条件だった。妖派がそれを果たせなかったということは、影狼が奇兵に残る必要もないということだ。
「鴉天狗が無事に国境を越えれば、一応約束通りだぞ」
「ごまかさないでよ! 妖派はなんにもしてないじゃん!」
言い逃れは、できそうになかった。
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