栃の実は古くから重宝されてきた保存食の一つで、乾燥させれば十年は持つと言われている。栃の木が多いこの山でも、戦時の為に備蓄されていたようだ。
とち餅を食べながら、影狼は伊織から信濃国の情勢を聞かされていた。
幕府四天王の松平兼定がこの地を守っていること。そこへ皇国が侵攻してきたこと。兼定の要請を受けて奇兵が駆けつけたということ――
「また四天王!? 四天王っていったい何人いるの!?」
餅を頬袋に詰め込み、影狼が素っ頓狂な声を出した。
「四人で間違ってねぇよ。お前の運が良すぎるんだ。奇兵に入って一週間足らずで三人も四天王を拝めるなんてよ」
「兼定さんはまだ見てないけどね」
影狼は餅でふくれた顔に笑みを浮かべる。
その不思議な食いっぷりに、來も伊織もしばらく見入っていた。
「そういや、影狼は戦に出るのか?」
「よくわかんない。とりあえず後ろの方で待機だってさ。伊織は護衛役だって」
「おいおい待ってくれよ」伊織はあからさまにがっかりした。「今回は皇国にだって大物がいるんだぞ。武勲を挙げるまたとない好機だってのに、なんでオレが……」
上野国での経験もあってか、影狼の御守りは気が進まないようだ。
そんな伊織に代わって、來がしゃしゃり出る。
「ならアタシが護ってあげよっか?」
「絶対ヤダ」
「なによ、負けたくせに。まだ怒ってるの?」
「むぐぐ……!」
それを持ち出されると影狼は言い返せない。困った所で、伊織が助太刀に入った。
「オレもやめといた方がいいと思うぞ。來は自分の身は守れても、影狼は守れないだろうからな」
それを聞いて影狼は、流れ弾が來をすり抜けて自分に命中する図を頭に浮かべた。
確かに護衛には向いてなさそうだ。まじめに考えても、來の強さは自身の体を煙と化すあの能力にある。一対一なら強いのだろうが、乱戦の中で血路を開けるような力は持ち合わせていない。
実戦経験から言っても、伊織が適任ということになった。
「やっぱり護衛はオレがやるよ。どの道、負け戦なら手柄はいらないし、勝ち戦だったら影狼の護衛が必要なくなるだろ。勝ち色が見えてきたら、オレは前線に出るからな」
「それでいいと思う」
影狼はとち餅最後の一つをつまみ上げて言った。
食事を終えて、影狼たちは奇兵陣地の視察を始めた。
普段は会わないメンバーもいるから紹介しておこうという、伊織の粋な計らいである。
「正規の奇兵はだいたい千五百人いる。今回出兵しているのはそのうちの五百人だ」
「少な……」影狼は興ざめしたようにつぶやいた。
「バカやろう。奇兵には一騎当千の戦士がそろってるんだぞ。千倍して考えろ」
「……五十万?」
それはさすがにないだろうが、奇兵の面子を見れば確かに、相当な戦力になりそうだ。
皇国が一万を軽く超えると聞いて怖気づいていたけれど、五百人の異能軍団もなかなか恐ろしいではないか。
「やっぱり奇兵には、來みたいな妖術使いがゴロゴロいるの?」
名前に反応して、來がちらっと振り向く。
伊織は少し考えてから答えた。
「いや、來はちょっと特別なんだ。妖刀も無しに妖術を扱える人は、奇兵の中でもほんの一握りしかいない」
「そっか……じゃあ伊織は、妖術を使えないの?」
「まあ、そうだな。オレの場合は足だけに人為侵蝕を施して足を速くしただけだ。部分侵蝕といって、ほとんどの人は体の一部に人為侵蝕を施したり、妖怪の体の一部を移植したりして身体能力を強化している」
「ひっ……」移植の様子を想像して、影狼は小さな悲鳴を上げた。
伊織はその反応を面白がってか、さらに衝撃的な話を続ける。
「來の場合はもっと危険な方法で、妖怪の肉を直接食らったり、血を飲んだり――」
「言わないで」
突然、來がぴしゃりと遮った。
強い言い方ではなかったのに、二人とも心臓が止まりそうになった。
「あ、悪い……」
とっさに伊織が謝ったが、來は見向きせずに前を睨みつけたまま歩き続ける。
少し機嫌を悪くしてしまったようだ。妖怪の肉を食べた女だと言われるのは、気分の良いものではないだろう。
來の横顔を見つめて、影狼は不思議な気分になった。
―――來もそういうこと気にするんだ……
図太いような印象があったから、これはちょっと意外だった。
気まずい空気を打ち破るように、影狼は差し障りのないことを聞いた。
「ねぇ伊織。前から気になってたんだけど、人為的に侵蝕したら勝手に力がつくものなの? 鴉天狗の侵蝕人は人並みの力しか持ってなかったけど……」
伊織の表情がふっと和らいだ。
「そりゃそうだ。自然な侵蝕はそこらに漂ってる邪気を適当に取り込むだけだからな。いろんな妖怪の邪気を少しずつ吸い込んだところで、そのうちのどの妖怪にも近づけないわけだ。対して人為侵蝕は、特定の妖怪の邪気だけを取り込むから、その妖怪に由来する能力を身につけることができる」
「つまり歩く妖刀ってこと?」
「悪くない例えだ」
幸成が妖刀海猫を扱うところを、影狼は幾度か目にした事がある。術は多彩だったが、どれも水の性質を応用したものだった。刀の素になった妖怪の性質を受け継いでいるというわけだ。
「伊織って妖刀も持ってるよね」
影狼は伊織が腰に下げている刀に視線を送った。歩く妖刀が妖刀を腰に下げている。
「これか? こいつは大したもんじゃないぞ」伊織は刀を少し引き抜いてみせた。「斬鬼丸って言ってな。この刀で斬りつければその傷は一生癒えないらしいが、正直人間相手に使っても意味はない。本来は妖怪退治に使うべき刀だ」
色合いはやはり妖刀らしい紫色で、不幸を振り撒く刀という印象だった。
斬られた人は一生の傷を抱えることになるが、それは伊織にとって恩恵となるものではない。鴉天狗との戦闘で伊織がやり辛そうにしていたのは、こういうわけだったのか。
「奇兵の妖刀使いで一番有名なのは、あの人だ」
伊織は群衆の中から一人の男を見つけ出して言った。
男の顔はよく見えないが、黒い金棒のようなものを抱えているのが分かった。
「清末利一。妖刀血海鼠の使い手だ」
「あれは、刀なの?」
「ただの棒に見えるだろ? でもあれはな、仮の姿なんだよ。戦になれば巨大な刀に形を変えるんだ。恐ろしい刀だぜ」
血海鼠と聞けば確かに海鼠のようにも見えるが、それがどんな刀に姿を変えるのかは、いまいち想像できなかった。そのまま金棒として使えそうな気もする。
鬼に海鼠――なんてね……
ふと、影狼は柘榴との約束を思い出して、うずうずしてきた。
「そうだ。オレももしかしたら、妖刀使うことになるかも」
「影狼が妖刀? まさか」
影狼は懐から海猫を引っ張り出して言った。
「柘榴親方から教えてもらうことになったんだよ」
意外な一言に二人は驚いた――というよりは、少し戸惑ったようだった。
「柘榴親方……? なんか違くない? そっちのオヤカタじゃないような気が」
「え……?」
「いいよ面倒くさい。放っときな」
妙な空気が流れ、影狼はたじろいでしまった。
* * *
夜――信濃幕府軍陣地にて。
松平兼定は配下を本陣に集め、軍議を開いた。
五日前の小戦闘の後、朝廷軍は平地に陣を構えて守りを固めている。その大軍がいつ動き出すのかと思うと、武将たちは気が気でないようである。先手を打ってしまおうという意見が相次いだ。
「今は辛抱せよ。焦らずとも、朝廷軍は必ず仕掛けてくる。今、守りを固めているところへ下手に攻撃を仕掛ければ、敵の思うつぼだ」
兼定の言葉に一同はうなずいた。
信濃国は日ノ本一と謳われる騎兵を有し、野戦――特に平地においては敵無しだった。しかしそれは過去の話で、軍制改革を行った今の朝廷軍はこれまでの敵より段違いに強い。先日の戦闘に参加した武将たちは、それを実感していた。
「皇国でなにより怖いのは、あの戦列歩兵です。密集隊形での弾幕、銃剣での槍衾を張られては、騎兵でも容易には近づけません」
そう言ったのは竹中喜兵衛。馬術と槍術に長じており、数々の戦で一番槍の栄誉を手にしてきた気鋭の若武者である。彼も先日の戦闘に参加した一人だった。
喜兵衛の現実的な話を受け、武将の一人が不安げに聞く。
「朝廷軍は数でも我が軍を圧倒しています。本当に防ぎきれるのでしょうか?」
兼定はフッと頬を緩めて答えた。
「心配するな。この栃波山は天然の要塞。敵の数が二倍三倍程度ならば容易に撃退できる。それに細く複雑な山道に入れば、朝廷軍は隊列を維持できない。そこを突けば勝利は間違いないだろう」
おお、と歓声が上がった。不敗の将が勝てると断言すれば、それだけでも心強い。
まず負けない体制を整え、守って守って、敵が見せる一瞬の隙を突く。これが兼定のやり方である。地道ではあるが、少ない犠牲で敵を撃退する確実な方法だ。
民兵が主体の朝廷軍に対し、武士中心の幕府軍は兵力の補充が難しい。そのため、一時の勝利のために多くの犠牲を出すのは好ましくなかった。皇国を打ち破るには、繰り返し遠征をさせて戦を長引かせて、強大な国力を削いでいかなければならない。兼定にはそういった打算もあった。
軍議が解散する頃、集まった武将たちのもとに一報がもたらされた。
朝廷軍が動き出したとのことである。幕府軍が平地の戦に応じる気がないと悟ったのか、いよいよ進軍が再開されるらしい。
幕府軍最強の信濃騎兵と皇国最新鋭の戦列歩兵の一大決戦が、今まさに始まろうとしていた。
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