第30話:甲信両鬼兵

 最初の雷撃は確かに海八に命中した。
 雷霆は安全のために邪気を調整されているから、この化け物に決定的な一撃は入れられない。だが、次の攻撃に繋げるのならばそれで十分だった。
 雷撃を受けて硬直した海八に、影狼はもう一方の妖刀で突きを繰り出すが――
「……!?」
 海八を貫いたはずの海猫からは、なんの感触も伝わって来なかった。それどころか、勢い余って突っ込んだ影狼も、丸ごと海八を通り抜けてしまった。
「惜しかったわね」
 渾身の一撃をかわされて無防備になった影狼に、海八の杖が振り下ろされる。
 影狼は、肩越しに見たその杖にただならぬ妖気を感じた。触れてはいけないと、本能が警鐘を鳴らす。だが、よけられない。背中を冷たいものが走った、その刹那。
 鈍い光を放った長刀が横から薙ぎ込まれ、海八の杖を弾き返した。
 初動が遅れていた伊織が、この一瞬の間に駆けつけていたのである。
 立て続けに猛攻を加えて海八を突き放すと、伊織はものすごい剣幕で影狼を睨みつけた。
「てめぇ、なにしてやがる! 逃げろってのが聞こえなかったのか!?」
「分かってる……でも、逃げるなら三人一緒だよ」
「馬鹿言うな! それができねぇから、オレらが足止めしてるんだろが!」
「なら三人で戦う。これでもオレは鴉天狗の人間だ。邪血を守るべき人が邪血を身代わりにして逃げるわけにはいかない」
 影狼の声は震えていたが、なんと言われても引かないという固い意志が表れていた。
 この期に及んで追い返す気にはなれず、伊織はため息をつく。
「ったく……そういうのは力のある奴が言うもんだ。お前になにかあった時に責任取らされるのは、オレなんだぞ」
「このままじゃ責任もなにもないけどね」
 雲化していた來も、放電しながらさりげなくケチをつけた。
「なるほどねぇ。私から逃げたのは、その子を守るためだったのね」やり取りを見ていた海八から笑みがこぼれた。「でもその子の言う通り、あなたたちは三人で固まっていた方が賢明よ。一度術を見たなら分かるでしょ? この私を止めることは不可能だって」
 言い終えると同時に、海八は姿を消す。
「またあの術か……お前ら、オレから離れるなよ」
 伊織たちは三人で背中を守り合う隊形をとった。
 人の視野は両目で捉えられる範囲で約百二十度。三人揃えば全方位に対応できる。
 盲点があるとすれば――
「真ん中注意ね」
「!」
 來の呼び掛けに他の二人が振り向くと、ちょうど三人の間の地面から海八が顔を出しているところだった。
「あら、読まれてた?」
 ガッ!
 土をえぐる音が、おどけた声をかき消した。
 影狼が雷霆で、來が小刀で、伊織が斬鬼丸で海八を袋叩きにしたのである。
 だがやはり、当たらない。海八は頭だけを地表に出した状態で、來の足元を通り抜けていった。そして嘲笑うように伊織たちの方を振り返ると、また姿を消してしまった。
「……腹立つ! なんなのあいつ!?」
「どこから出てくるか分からない上に、攻撃も当たらない。こんなの勝てっこないよ」
 油断なく周囲を見渡す伊織の後ろで、未熟者二人が騒ぎ立てる。
「戦うって言い出した奴がなに言ってやがる」伊織は言った。「確かにとんでもない術を使うが、剣の腕は大したことない。やりようはある」
「なにか考えがあるの?」
「いいや……でも、今のではっきりした。あいつは、オレの攻撃だけはすべて杖で防いでいる。さっきも、オレの攻撃だけよけやがった」
「! それってもしかして……」
「ああ……どうやら、この斬鬼丸が役に立つ時が来たようだな」伊織は使い慣れたその刀を、目の高さに掲げた。「ただ、あいつはオレを警戒してるみたいだし、反応も恐ろしく早い。当てられる可能性がある技は、一つだけだ」
 妖術が使えない分、伊織は剣術をひたすら極めてきた。その積み重ねが今、試される。

 遠くでうなずき合う伊織たちを見ながら、海八は次の一手を考えていた。
 これでも、海八としては偵察のつもりである。奇兵の実力はもう存分に味わっているから、目的は達成されている。ならばそろそろ終わりにしようか。
 伊織たちが逃げ出したのは、そう思った矢先のことだった。
 向かった先は、激戦が繰り広げられている峠の方角。奇兵の仲間が大勢待ち受けている場所である。
 ―――結局逃げるのね……せっかくいいところだったのに、残念……。
 海八は腰から上までを地表に出して、その滑稽な見た目からは想像もつかないような速さでこれを追撃した。
「くっ……!」
 あっという間に肉薄した海八に、影狼が雷撃を放つ。
 そんなものは攻撃をすり抜ける海八には効くはずもないのだが――
「!」
 次の瞬間、海八の目の前に大きな外套が出現した。
 影狼が狙ったのは海八ではなく、彼との間に漂う雲化した來の外套だった。
 この暗闇の中でも、海八には邪気の塊としてそれははっきり見えていたのだが、まさか雷撃と共鳴するとまでは思わなかっただろう。遊びからヒントを得た作戦が、海八に一瞬の隙を作り出したのである。
 視界を塞いだ外套を、杖で払い除けたその先には、一瞬で間合いを詰めた伊織の姿。
 ―――速い……! でも速いだけじゃ……
 これまでの攻撃を完璧に防いでいたからか、ここに至ってもなお、海八には伊織の攻撃を受け切るだけの自信があった。しかし伊織の構えを見て、それは崩れ去る。
 ―――居合術……!
 それも独特の構え。斬鬼丸が納められた鞘は腰の陰に隠れて、刀の出が予測できない。
 伊織の手元で、対妖怪用の凶刃が閃光を生じた。
 スカッ!
 刀が空を切る空虚な感触。だが、斬鬼丸の効果は悲鳴となって表れた。
「あああ……! 痛い! 痛い! 私の腕がぁぁぁあ!」
 影狼たちは、海八の腕に奇妙なものを見た。
 彼の腕から血の代わりに漏れ出る、ドス黒いなにか。それは柘榴に雷霆の扱いを教わった時に見たのと同じものだった。
「素晴らしい……素晴らしいわ、あなたたち」海八は苦痛に顔を歪めながら賛美する。「いつの時代も、どこまでも私を楽しませてくれる。これが人間の底力。これが生命の輝きなのね?」
 そして、やはり上半身だけの姿で、滑るように伊織たちから遠ざかっていく。
「待ちやがれ! お前は一体、何者だ!?」
 その後を追い、伊織が呼ばわった。
「私は柴田海八。皇国の英雄よ。ふふ……」
「海八だと……?」
 男の口から出た意外な名前に、伊織は唖然としてその場に固まってしまった。

     *  *  *

 山上の松明が乱れたのを、喜兵衛は見てとった。
 朝廷軍の進軍が止まっている。甲斐奇兵が上手くやってくれたようだ。安堵のため息をついて、喜兵衛はキッと前方を見据えた。
 彼が狙っているのは西山麓の皇国陣地。兼定から大事な任務を託され、ここまでやって来た。
 山上の松明の数を見るに、陣地に敵兵はほとんど残っていない。朝廷軍が本気で山越えするつもりなら無人ということも考えられる。喜兵衛が陣地占領を命じられたのは、おおかた朝廷軍の狙いを探るためであった。
 馬のいななき声を抑えるために口木を噛ませ、信濃騎兵は陣地に接近する。そして夜警の姿を見つけると、一斉に鬨の声を上げて突撃した。
 陣地に残っていたのは傷病兵とわずかな見回りだけだった。驚いた朝廷軍は、巣を荒らされたアリのようにわらわらと飛び出し、いずこともなく逃散していく。逃げ遅れた者もあえなく投降し、皇国陣地はほとんど無抵抗に陥落したのである。
 喜兵衛は捕虜から残りの朝廷軍の居場所を聞き出した。
 やはり残りの全軍は山に向かっているらしい。兼定の読んだ通り、彼らの目的は山越えではなく、幕府軍をおびき出して殲滅することであった。ただ、伏兵がどこに潜んでいるかまでは聞き出せなかった。
「いかがしましょう? お望みならば、私が力ずくでも聞き出してみせますが」
「その必要はない。命懸けで機密を守る義理もあるまいし、この者は本当に知らないのだろう」喜兵衛は逃亡兵の向かった方角を眺め遣った。「すでに手は打ってある。あとは兼定様が上手くやってくださるはずだ」
 逃亡兵の一部は、陣地陥落を伝えようと山へ向かった。
 彼らも伏兵の居場所は分からないから、松明を灯している本隊を目指すしかない。だがその道中には伏兵が潜んでいる。どこかで伏兵とかち合うのは必然であった。
 伏兵部隊を指揮する小笠原長矩は、峠の下に人気を感じ、部下に斉射の準備をさせた。
 号令を掛ける士官は最初、戸惑った。確かに峠の下から人が来ているのだが、足並みはバラバラで、どうも麓から逃げてきたようにしか見えない。
 長矩もこの異変にはすぐ気付いた。士官が迷った末に号令を発したところで――
「迷うな! 撃てぇい!」
「撃つなぁ!」
 間一髪で射撃を中止した。
 峠道から現れたのは、陣地の守備を任されていた者たちだった。
「お前たち、どうしてここに!?」
「い……一大事でございます! 敵の奇襲を受けて、陣地が陥落しました!」
「!」
 それは思いがけない報告だった。
 兼定は陽動には釣られなかった。これ以上、ここで待ち伏せていても無意味。それどころか陣地を占領されたとあっては、戦列歩兵が無力化する山に籠るか、敵中孤立を覚悟で山を越えるかの二択を迫られることになる。
「今すぐ陣地奪還に向かう! 敵が防備を固める前なら、我らでも難しくはないはずだ!」
 陣地から逃げのびた兵を海八のもとへ向かわせ、長矩は林を出て峠道を下り始めた。兵力は三千と心許ないが、攻略に向かうのは彼ら自身が建てた陣地であるから、長矩はそれなりの自信を持っていた。
 だがその自信は、突然の地響きによって崩れ去った。朝廷軍の後背を突いて、騎馬軍団が土砂崩れのようになだれ込んで来たのだ。
 騎馬突撃の先頭で、いかめしい甲冑を着込んだ大将が咆哮する。
「敵はすべてあぶり出した! 後はひと思いに踏み散らせ!」
「……兼定!?」
 幕府軍総大将の、待っていたかのような登場。小笠原隊の動きは筒抜けだったのである。
 皇国陣地を攻略した時、竹中喜兵衛は逃亡兵を部下に追跡させていた。逃亡兵が伏兵と合流を果たしたのが朝廷軍の運の尽き。峠道手前で待機していた兼定は、追跡役からの情報を受け取って、こうして打って出たのだった。
 絶望のあまり、長矩は蹂躙されていく我が軍を傍観するしかできなかった。
 兼定が攻勢に出た――それだけでも、敗北を悟るには十分である。誰よりも慎重なこの男が動いたという事は、どう転んでも幕府軍が勝つような状況が出来上がってしまったということ。そしてひとたび攻勢に出れば、兼定は驚くほどに苛烈だった。
徒歩かちはすべて敵とみなす! くれぐれも落馬するでないぞ」
 暗闇で敵味方を識別するための厳命。これにより信濃騎兵は奮起した。
 大多数が歩兵である朝廷軍にはこの手が使えない。騎兵をすべて敵とみなせば、自軍の指揮官を刺してしまうからだ。反撃の糸口がつかめないまま、皇国歩兵は雑草のように踏み倒され、刈り取られていった。
「もはやこれまでか……! これでは海八の到着を待たずして全滅だ」
 大将としては戦場の離脱を考えなければならない段階である。
 長矩はわずかな部下だけを連れて、峠を下っていった。
 だが全ては手遅れだった。最初の枝道に差し掛かろうかというところで、長矩たちはまたも騎兵の一団と出くわした。千騎にもなる騎馬隊を率いるのは、あどけなさの残る若武者である。
 万事休すというところだが、長矩からは不思議と笑い声がこぼれ出た。
「……落ちるのはもうやめだ。冥土の土産にちょうどいいものを見つけた」
 長矩の前に立ちはだかった大将は喜兵衛。
 皇国陣地に守備兵を残し、自らは騎兵を率いて兼定の助太刀に向かうところであった。
「長矩か。今日はいつにも増して、間抜けて見えるな。自慢の弓はどうした?」
「乱戦の中で失った」
「なるほどそれは残念だ。かわいそうだから、墓前に弓を供えてやろう」
「要らん! 代わりに貴様の首をもらう」
 恒例となっている罵り合いにけじめをつけて、長矩は隣の兵から西洋銃をひったくった。
「弾は込めてあるだろうな?」
「は……はい!」
 再び喜兵衛に向き直る。
「弓が無いのは口惜しい限りだが、貴様などこれで十分だ」
「ほう、まさかここへ来てお前の砲術を見れるとは……面白い!」
 それが最後に交わした会話だった。喜兵衛が槍をふるって馬を駆け寄せると、長矩は銃を構え、十分に引き付けてから引き金を引いた。
「!」
 失意に顔を歪めたのは、長矩だった。
 弾込めに手違いがあったのか、銃身に不具合があったのか。いずれにしろ弾は発射されなかった。
 猛り狂った長矩は、肉薄する喜兵衛に銃剣で以って突きかかる。
 しかし槍の名手に銃剣で挑むのは無謀というもので、たったの三合撃ち合っただけで、長矩は頸部を貫かれてしまった。
 声一つ上げずに馬から転落すると、長矩は苦しそうに身をよじったが、やがて激しい痙攣を起こして息絶えた。
 積年の宿敵の最期を看取ると、喜兵衛は長矩の配下の者たちに視線を移した。彼らにはもう抗戦の意志はなく、馬を降りて平伏するだけだった。

     *  *  *

 小笠原隊が壊滅した頃には、海八本隊はすでに後退を始めている。
 本隊を率いる高遠は、小笠原隊の奇襲が成功するまで踏みとどまるつもりだったが、陣地から流れて来た者の報告でその望みも絶たれた。
「海八様……ご無事で!」
 高遠は、どこからともなく舞い戻ってきた海八を見つけて、慌てて駆け寄った。
「申し訳ございません。私の失策でこのような事に」
「いいんだよ高遠君。あなたは十分頑張った。生きて帰れたら昇格させてあげる」
「! 誠でございますか!?」
 味方が追い詰められているというのに、高遠の顔に喜びが溢れる。
 普通なら敗戦の罪を問われて降格、投獄もやむを得ないところが昇格ときたら気が緩むというもの。いくらでも補充が利く民兵の命などどうでもいい気になったのだろう。敵の数は少ないから、腹心だけを連れて逃げるならそれほど難しいことではない。
 しかしそんな邪な考えがまかり通るほど、世の中は甘くなかった。
 蹄の音がして前を向けば、いつの間にか騎馬軍団が立ちはだかっていた。
 小笠原隊を早々に片付けた兼定本隊が、遂に到着したのである。
「なぜ、こうなるのだ……?」
 どうやら、高遠の出世への道は幻となったようだ。後方では奇兵が飽きることなく暴れ回っている。
 甲斐奇兵と信濃騎兵――甲信両鬼兵こうしんりょうきへいと恐れられた幕府最精鋭がここに揃った。

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