第6話:願いを継ぐ者

 遠方で強まる邪気を、武蔵坊も感じ取っていた。
 何せ妖怪である。
 方角的に見て、発生源は恐らく鵺丸の向かった先だ。彼は今、何者かと戦っている。何となくそんな気がした。鵺丸なら大丈夫だとは思うが、邪気はいっこうにやむ気配がない。
 何かがおかしい――じっとしていられず外へ出た時、武蔵坊は坂の下に動く人影を見た。
 こちらへ向かって駆け上がってくるそれには、見覚えがある。
 ―――影狼?
 武蔵坊を視界にとらえた影狼は、息も整えずに叫んだ。
「武蔵! 早く来てくれ! 鵺丸先生が……」

     *  *  *

 激しい刃音が鳴り響いた。
 所有者を失った敷地で、部外者二人が刀を交えている。
「血迷ったか幸成! この儂を斬ろうとはな」
「血迷ったのはあなたです。私はその後始末をしなければなりません」
 はらわたを抉るような刺突をかわし、鵺丸は後方に飛び退いた。
「そんなことをする必要はない。さっきも言っただろう。幕府を打ち倒さねば鴉天狗の未来はない。戦うしかないと。幹部の者たちも望んでいたことではないか!」
「それでどれだけの人が死ぬと思いますか? 本当にそれで……鴉天狗が生き残れると思っているのですか!?」幸成は言った。「あなたは一時の感情に任せて、人として超えてはならぬ一線を超えてしまった。死をもって償うべきです」
 言い終わるが早いか、間合いを一気に詰めて斬撃を浴びせる。
「幸成に見放されるとは、残念だ」
 斬撃を軽く受け流した鵺丸から、仕返しの一撃。
 黒い液状の刃が、幸成の頬をかすめて飛んで行った。
「……やっと本気になりましたか」
「お前の相手をするのは久しぶりだからな」鵺丸は邪魔な被り物を投げ捨てた。「つい張り切ってしまう」
「………」
 こんな時にそんな話を――面影を残しているところが、また憎い。
 幸成は慎重に、距離を取った。
 相手は元殲鬼隊隊長。まともに打ち合えばまず勝てない。それに、彼の妖刀の能力も見ておく必要がある。先程の攻撃は『毒牙三日月どくがみかづき』。前から知っていた術だが、まだまだこんなものじゃないだろう。多く所持している中の、お気に入りの一本なのだから。
 海猫を持つ手に力を入れると、涼気が湧き起こった。
「少し取り乱してしまいましたが、もう気持ちの整理がつきました。ここからは私も本気で行きます」
 幸成の顔から、感情の一切が消え失せた。その目はただ冷徹に標的を捉えるのみ。
「見覚えがあると思ったら、そいつは儂が昔譲ってやった失敗作ではないか」鵺丸は余裕の笑みを浮かべた。「そんな刀じゃ儂は殺せないぞ」
「どうでしょうね。試してみますか?」
「それも一興」
 鵺丸は刀を持つ手に、もう一方の手を重ねた。すると足元から伸びた影から、数体の黒蛇が現れた。
 ―――また妖しげな術を……
 ただの蛇でないことは初見でも分かる。姿を現しては影に戻ったりを繰り返しながら、こちらに向かってくる。
 幸成は涼気を帯びた刀を横に一振りした。それに合わせて、氷柱が幸成を取り囲むようにして出現する。
「なんと……!」
 鵺丸は予想をくつがえされた。海猫も妖刀として劣ってはいなかったのだ。それが幸成の努力の成果なのか、偶然なのかは知る由もない。
「このような形でお見せすることになったのは不本意ですが、致し方ありません。これも運命です」幸成は斜めに構えた刀を振り下ろす。『海猫・氷牙流星ひょうがりゅうせい!』
 キン、という鋭い音と共に、氷の槍が放たれた。
 蛇影を通り越し、狙ったのは鵺丸。
 直撃――したかに見えたが……
 次の瞬間、鵺丸の像が揺れ、すうっと消えてしまった。
 驚く暇もない。
 蛇影の群れはすぐそこまで来ていた。左右から一匹目、二匹目が飛び出す。
 幸成は一刀のもとに斬り捨てた。
 どうということは無い。影から出ればただの蛇である。
 正面から来る三匹目を待つ。
 しかし様子がおかしい。その影はぐんぐん大きくなっていく。
「!」
 出てきたのは――鵺丸。
 同時に飛んできた黒い刃を、間一髪でかわす。
 これには驚いたが、幸成は勝機を逃さない。怯まずに次の一手。氷の槍が鵺丸を背後から襲撃する。
 まだ気づかない。
 勝負あり――そう思った幸成を、氷槍が襲った。
 またもや幻影。
 これを避けたのは、さすが次期代表と言えるだろう。だが、大きく崩れた体勢は幸成を後手に回らせることとなった。
 ―――残りの蛇は?
 立ち上がって辺りを見渡そうとしたその時、幸成は背後に殺気を感じた。
「くっ!」
 幸成は突き飛ばされたかのような勢いで、地面に転がり込んだ。
 が、少し遅れた。
 上腕から、血が滲み出る。
「驚いたぞ。儂に内緒で、あのような術を身に付けていたとは」
 元居た場所には鵺丸が立っていた。
 ほんの十数秒の駆け引き。
 幸成は鵺丸がどんな能力を使ったのか、ようやく理解し始めた。
 恐らく鵺丸は、あの蛇影と自らの位置を入れ変えることができる。幻覚によるものか、あるいは本当に移動しているのかもしれない。
「驚きましたか……そうでしょうね」突っ伏したまま、幸成は言った。「あなたを驚かせようと、今日まで隠れて練習してきたのです。あなたが安心して引退できるように、私は強くなりたかった。だからこそ、ここであなたに負けるわけにはいかないのです」
 幸成は立ち上がろうとした。
 しかし、体が思うように動かない。麻痺している。
「その毒は月光に使わせていたものと同じだ。その程度の傷でも、放っておけば一時間と持たない」
 鵺丸の刀から、毒気の混じった血がしたたる。
「残念だが……お前とはここでお別れだ。だが約束しよう。同胞を手にかけるのはお前が最後だ。今の儂なら、侵蝕人の命も尊厳も守れる」
 この方はまた冗談を――そんなことができたら、今までの苦労は何だったのか。
 それに、鵺丸がこれからしようとしていることは、状況をさらに悪化させるだけだ。幕府に逆らって鴉天狗が生き残れるはずがない。止めなければ。
 だがもう、とても戦える状態ではない。
 傷口から入り込んだ毒が、させてくれないのだ。
 尊厳を守るという口実で、多くの侵蝕人、そして母の命を奪ってきた毒が――
「殺してください」幸成は刀を握りしめる。「その忌まわしい毒で死ぬのは、嫌です」
 鵺丸は毒に苦しむ幸成を、心苦しそうに見つめる。本当に悲しそうに見つめるのであった。
「……分かった。最期の望みぐらいは、聞いてやろう」
 鵺丸はゆっくりと幸成の方へ歩み寄る。
 水浸しになった地面がパシャ、と音を立てる。
 そして間合いに入った、その時だった。
「……!?」
 足が自由に動かないことに、鵺丸は気付いた。
 見ると、地面から氷が這い上がってきている。足を伝って、さらに上ってくる。
「これは!?」
「フフ……」顔を伏せていた幸成から、いたずらっぽい笑い声がこぼれ出た。「私としたことが、まさかあなたの前で一芝居打つことになるとは」
 幸成の周りで、濁った水が宙を舞っている。
「解毒……したのか?」
 さらに足元に仕掛けられた氷の罠。幸成がここまで妖刀を使いこなしていることに、驚きを隠せない。
『海猫・霜葉そうよう』――花びらのように展開した水が、氷となって一気に鵺丸を包み込む。
 こうなっては、あの妖術を使っても無駄であった。
「鵺丸様。あなたはもう十分耐え忍びました」おだやかな声で、幸成が言った。「今後、我々への風当たりは強くなるでしょう。しかしどんなことがあっても、私は責任を持って鴉天狗を守り抜きます。辛いことは私に任せて、鵺丸様は安らかに眠ってください」
 鵺丸の苦労話を、幸成はよく聞かされてきた。
 妖怪のような容姿。鵺丸は、それを克服して幕府からも重用されるまでになった。
 殲鬼隊では侵蝕により友を失ったが、それからも立ち直り、鴉天狗を作り上げた。しかしそこへさらに、妖派との衝突、組織の限界などと、難題がなだれ込んだ。
 この数々の苦悩が、心に邪気の付け入る隙を作ってしまったのだろうか――
 幸成は、それらを背負う覚悟を語ったのである。
「最期に、何か言い残すことはありますか?」
 今となっては鵺丸の本心など、聞き出せるはずがない。それでも幸成は聞いた。
 長年、共に過ごしてきた師との別れを前にして、幸成はどんな一言でも聞いておきたかったのだ。
 胸が激しく鳴る。
「……すまぬ」
「……?」
 一瞬だけ、元の鵺丸に戻った気がした。そうであって欲しかった。
 しかしその望みも、儚く散ってしまう。
 幸成の背後で、骸の動く音がした。

     *  *  *

 影狼と武蔵坊が到着した頃には、屋敷は静まり返っていた。
「もういないのか!?」
 武蔵坊がそう言うと、影狼の顔が曇った。手遅れ――どちらかが、既に死んでいるかもしれない。
 敷地の中に足を踏み入れる。
 塀の上に、烏がとまっていた。その壁に沿って並べられたかがり火が、いくつかの屍を照らしているが、その中に見覚えのある顔はない。
 奥の方は、ほとんど水浸しになっていた。暗くてよく見えない。
 そんな中で人影を見つけたのは、武蔵坊だった。
「幸成!」
 武蔵坊に従って影狼もそこへ駆け寄る。
 壁にもたれかかった幸成は、腹部から血を流していた。少し離れたところには、血濡れた刀を手にした妖派の男が倒れている。
「幸兄……」
 まだ息があった。影狼たちを見て、幸成のひきつった顔が和らぐ。
「……お前は、本当にバカだな。戻ってくるなんて」目を閉じたまま、幸成が言った。「でも……よかった」
 消え入りそうな声であった。
 人が生死の境をさまよう場面を、武蔵坊は何度か経験したことがある。今の幸成も、まさにそれである。
「影狼から聞いた。鵺丸と、戦ったんだな?」
「……はい」幸成は砕け散った氷塊を見つめる。「鵺丸様は、気が触れてしまったようです」
 やはり――鵺丸は邪気に侵されたのだ。そうでなければ、幸成に手を掛けるとは考えられなかった。
「私の他に、反対する者がいなければ……鴉天狗はこれから、幕府と敵対する事になります。そうなれば、鴉天狗は生き残れないでしょう。私の力では、鵺丸様を止めることは出来ませんでした」
「まだ諦めるな。鵺丸は邪気にやられたんだろ? みんなも気付くはずだ。オレだって居る。そんなことはさせねぇよ」
「それだけでは駄目です。この出血ですから……私はもうじき死にます。鵺丸様にも死んでしまわれては、もはや幕府の中でも……鴉天狗を庇う者は、いなくなってしまいます」
 武蔵坊が拳を震わせる。
 ここ最近では、自分が一番鵺丸に近かったはずだ。それなのに、なぜ彼の異変に気付けなかったのか?
 そのせいで鴉天狗は今、終焉を迎えようとしている。それも最悪の形で。
「オレは……どうすれば」
「……幕府に見つからないように今すぐここを、離れてください」
 意外だった。
 誰よりも鴉天狗に尽くしていた人が、それを捨てて逃げろと言うのだ。
「あと……影狼を、頼んでも良いですか? せめて、あなたと影狼だけでも……無事でいて欲しい」
 そう言われては、武蔵坊はうなずくしかない。
 こうなった以上鴉天狗に戻ったところで、無駄死にするだけなのは目に見えている。影狼を巻き込むのは、あまりにも酷だと思った。
「その前に影狼」幸成が言った。「これは、お前にあげよう」
 影狼は放心したような目でそれを見た。差し出されたのは、妖刀海猫である。
「この刀は元々失敗作でな……妖刀のくせに邪気がないんだ。でもそれが逆に特別な感じがして、鵺丸先生から……初めて貰った刀でもあるから、ずっと大事にしてた」穏やかな声で、幸成は思い出を語る。「いろいろ願掛けもしたんだぞ。お母さんの侵蝕が隠し通せますようにとか、影狼の病気が早く治りますようにとか。それから……影狼をずっと守ってくれますようにって。これは今決めた」
 そして多くの願いの詰まった刀は、影狼へと引き継がれた。
「最近は、構ってやれなくて、ごめんな……」
「謝らなくていいよ、そんな事……幸兄が何を背負ってるか、分かってるから。応援してるし、今まで通りでいい」震える声を、影狼は懸命に絞り出す。「だから……お願い。死なないで! オレにはもう、幸兄しかいないんだから……」
 涙をこらえきれなくなった影狼を、幸成が抱き寄せた。
「大丈夫だよ……影狼。血は、繋がってないけど……オレたちは兄弟同然だ。心は繋がってる。だからずっと一緒だ。死んでも、お前を独りにはしないよ」
 幸成にとってはこれが最後のひと時。
 貴重な時間が、ゆっくりと流れていく。
 影狼が、いつもより温かく感じた。
 このまま、眠ってしまいたい気分であった。
 ところがにわかに起こった烏の鳴き声が、幸成の眠りを妨げる。
「探しに行こうと思ったら、自分から来てくれたか。武蔵坊よ」
 いつの間にか、入り口の辺りに人が立っていた。
 あの男が、戻ってきた――
「その様子だと、儂の決断はもう聞いているな?」
「鵺丸……」武蔵坊は迫りくる鵺丸を、じっと見据える。「本当に変わっちまったんだな。せめてオレが幸成に代わって……」
 武蔵坊の腕が熱を帯びる。
 鵺丸をここで討てば、鴉天狗の罪は軽くなるかもしれない。去る前に、それだけのことはしてやらなければと、武蔵坊は単純に思ったのだ。
「ダメだ武蔵坊!」
「!」
 その声で武蔵坊は我に返った。とっさに水溜まりに腕を突っ込む。
 すると大きな水溜まりは音を立てて水蒸気と化し、その場に居合わせた者の視界を奪った。
「!? ちょっ、何すんだ! 離せ!」
 急に体を持ち上げられた影狼が抵抗する。
「じっとしてろ! こっから離れるぞ!」
 危うく幸成から頼まれていたことを、投げ出すところであった。鵺丸と戦って勝てるという保証はない。もし負けたら、本当に取り返しのつかないことになる。
 武蔵坊は影狼を小脇に抱えて跳躍した。
 さすが半妖といったところか、塀を軽々と飛び越えてしまった。
「待て武蔵坊! なぜ逃げる!?」
 鵺丸の呼びかけを無視し、武蔵坊は街道の外れへと駆け出した。
「振り返るな。今はとにかく走れ!」
 脇から降ろした影狼の背中を押す。
 影狼は一度だけ幸成のいた方を見遣ると、それきり振り返らなかった。やりきれない思いを噛みしめ、一思いに駆けて行く。後に武蔵坊も続いた。
 その後を、一羽の烏が追ってくる。
「あいつ……!」
 さっき鳴いた烏だ。目が一つしかない。
 まず鵺丸の術が作り出した妖怪に違いなかった。
 武蔵坊は地面に転がっていた小石を投げつけ、それを粉砕した。
 二人を追うものは、もうなかった。

 屋敷内部は、ようやく水蒸気が薄らいできた。
 鵺丸は追跡の手段を失ったことを悟ると、諦めて幸成の方へ向かった。
「鵺丸様……」力の抜けきった優しげな顔で、幸成が言う。「約束は、守ってくださいよ」
「ああ、鴉天狗は儂が守る。絶対だ」
 最後の言葉を聞き、幸成は静かに息を引き取った。

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