第9話:生き甲斐

 ゆったりとしたお昼時に、それはやって来た。
 不快な、けたたましい鳴き声が村中に響いた。五尺はゆうに超えているであろう大百足が、大滝村に迷い込んだのだ。
「よせ武蔵! いくらあんたでも……ありゃ無理だ!」
「やってみなきゃ分かんねぇだろ!」
 友人が止めるのも聞かず、武蔵坊は物置小屋から弓を持ち出した。
「このままじゃ村が滅茶苦茶だ。そうなる前に一発お見舞いしてやろうぜ! 腕試しにはちょうどいい相手だ」
 揺れが、小屋の中にまで伝わった。
 外に出た武蔵坊の目に入ったのは、全壊した家屋と、それを下敷きにした大百足であった。二対の小あごから、血がしたたっている。
 既に何人かの犠牲者が出ているのは、明らかだった。
 そいつは気色の悪い身体をくねらせ、うす気味悪い音を立てて、次なる獲物を探しに行った。
「野郎……よくも!」
 武蔵坊はその後を追うが、妖怪同士だからなのか大百足は見向きもしない。そのことが武蔵坊を苛立たせた。
 自分も妖怪であることは変えられない事実。無茶をしてそのことが知られてしまえばどうなるかは、亡き母から耳にたこができるほど聞かされてきた。
 足を止めずに、弓に矢をつがえる。
 武蔵坊の為に作られた、常人ならピクリとも動かないほどの強弓である。これぐらいの力は普段から狩りでも使っている。多少本気を見せても、問題にはならないはずだ。
 大百足はまだ知らん顔で、気の向くままに進み続けている。
「おい! このゲジゲジ野郎、どこ見てやがる!」武蔵坊は大百足の前に回り込み、弓を引き絞った。「お前の相手は、このオレだ!」
 さすがにこれには大百足も黙っていなかったが、襲い掛かるのと、矢が放たれるのと、ほぼ同時だった。
 衝撃波をともなった矢は大百足の長い胴の半片を吹き飛ばし、辺りに肉片を飛び散らせた。
「キィエエエエエイイィ……!」
 長々とした金切り声を残し、支えきれなくなった巨体が崩れ落ちる。
 ―――や、やった……?
 百足の動きがないのを見ると、武蔵坊はあわてて周囲を見回した。次の不安事が頭に浮かんだのだ。
 逃げ散っていた村人が武蔵坊の周りに集まって来る。人々は好奇の目で彼を見ると、次に歓喜の声を上げた。
「いつもすごい大物を仕留めるが、まさか妖怪まで狩ってしまうとは」
「まるで殲鬼隊の活躍を目の当たりにした様だ!」
 皆がこの奇跡の男を祝福していた。
 ほっと一息つく武蔵坊。
 だが次の瞬間には、その歓声は悲痛な叫び声に変わった。
 振り返ると大百足がまた動き出し、再び襲い掛かってくるところであった。
 その一撃で弓は弾き飛ばされてしまった。百足の長い身体が武蔵坊をあっという間に取り囲む。
 丸腰となった武蔵坊は跳躍し、その包囲から逃れようとするが、大百足の動きは彼の予測を超えていた。胴に負った致命傷をものともしない、決死の勢いであった。
 宙に浮いたままの武蔵坊に、百足が巻き付く。
 外に出ているのは、頭だけだった。
 大百足は、ざまあみろとでも言うかのように、上から武蔵坊の顔をのぞき込む。
 誰もが、村一番の勇士の死を覚悟した。
「武蔵!」
 下の方で、自分を止めようとしていた友人が弓を構えているのが見えた。
 油断した。
 このままでは、村のみんなが大百足の餌食になってしまう。父のいなかった自分を助けてくれた、大切な人たちが――こうなれば覚悟を決めるしかない。彼らにどう思われようが、死んでしまえば全て終わりなのだ。
 ―――こんなところで……死んでたまるか!
 熱い血が、武蔵坊の全身を駆け巡る。
 下の者たちは、大百足の体色が一部分だけ変わるのを目にした――次の瞬間、その変色した部分は弾け飛び、肉塊が飛んできた。
 武蔵坊の周囲に現れた熱球が、彼の束縛をほどいたのだ。
 最後にとどめ。近づいてきていた頭を、熱気で焼き尽くす。大百足の醜い顔は、黒く干からびてしまった。今度こそ、息の根を止めたのである。
 だが村人の反応はさっきとは違った。
 歓喜の声は上がらなかった。武蔵坊の異形の腕を見て、彼を人だと思う者は誰一人としていなかったのだ。
「武蔵……お前、その腕は……?」
 あの友人が、おそるおそる訊ねる。他の者は言葉を失ってしまっていた。
「……すまねぇ」
 はっきりとは答えずに、武蔵坊はその場を去って行った。
 心の準備は出来ていたつもりだが、むなしさだけが残った。
 村を救ったという喜びは、微塵も残っていない。その救ったはずの者たちに見限られたような気分であった。
 幕府の役人が村に来たのは、その翌朝のことである。
 誰かが密告したのだろう。
 何も、抵抗しなかった。
 一晩思い悩み、武蔵坊は気持ちの整理をつけていたのだ。
 母との約束は破ってしまったが、大切な人も、人としての誇りも守れた。天国の母もきっと許してくれる。そう言い聞かせ、己の運命を受け入れたのだった。後に出会った鵺丸に語った通りである。
 牢屋敷へと送られる自分を見つめる友人の悲しそうな目が、まだ頭に残っている。

     *  *  *

 夜……。
 至る所から湧いてくる鈴虫の鳴き声が、孤独を紛らわす。
 この先の村へは、草が伸び放題になったこの林道を行くしかない。一カ月ぶりの道だ。
 影狼たちとの別れ際に言った通り、武蔵坊は大滝村の方まで来ていた。
 心変わりしたわけではない。本当は甲斐国に急いで戻りたい所であったが、戻れば二度とここへは来ることができない。修羅の道へと進む前に、ここで雑念を払っておきたいと思ったのだ。
 直接は会わなくて良い。ただ、彼らにとって自分はただの妖怪なのか、それとも共に暮らしてきた仲間なのか、確かめてみたかった。
 斜面を上り、村に近付くにつれて武蔵坊の足取りは重くなる。
 実の所、武蔵坊はまだ迷っていた。
 もし期待が外れたら、自分はどうなってしまうのだろう。心まで妖怪になってしまうのではないか。
 そもそも自分は、あのまま牢屋敷で死ぬはずだった。これで良かったのだと割り切っていたのに、鵺丸との出会いが全てを変えてしまった。
 彼を助けるために生を選んでしまったのだ。
 その結果がこれである。雑念ばかりで死んでも死にきれない。
 武蔵坊の足はピタリと止まってしまった。
 ―――もう、何も分からない。オレは一体、どこに行こうとしているんだ?
「武蔵坊か」
 夜気を切り裂いたその声に、武蔵坊は背筋を凍らせた。
 最初は村の人かと思ったが、聞き覚えはない。どこか温かみの欠けた、しかし美しい声であった。
 武蔵坊は辺りを見回したが、ブナの木が立ち並ぶばかりで人の姿はない。
 気のせいかと思い視線を戻そうとしたとき、月光にきらめく何かが目に入った。
 横合いの木の上に、その女はいた。
 白銀はくぎんの髪は月の光を反射し、幻想的な雰囲気を醸し出していた。猫のように光る眼が、こちらを見下ろしている。
 ―――月光の忍か……
 忍装束を見て、そうと分かった。
「ついてこい。鵺丸様がお呼びだ」

 闇の中で、無数の目玉がうごめいていた。
 大滝村手前で引き返してから、まだそれほど歩いてはいない。そんなところに人だかりができている。
 羽団扇が描かれた着物。
 間違いなく、鴉天狗の者たちである。
 それとは異なる雑多な服を着た者も見受けられる。どうやら侵蝕人もしっかり付き従っているようだ。
 それにしても不思議である。これほどの大人数をどうやってここまで連れて来たのだろうか。武蔵坊はてっきり、あの集落に立てこもっているものだとばかり思っていた。
 とにもかくにも、無事であったことが何よりである。
「状況を教えてくれないか? 昨日の夜、何があった?」
 周囲からの視線をやり過ごし、前を歩く白髪の女に声をかけた。
「鵺丸様は昨日、幕府打倒をご決断された。こうして移動しているのは鴉天狗一同、それを支持しているからだ」
 ―――やはり、幸成の言った通りになったか。
 しかしどうも腑に落ちない。月光の役目は武蔵坊も知っている。彼らが鵺丸を生かしておくのは、どういう訳なのだろうか?
「なぜ鵺丸に従う?」
「何をいまさら。我々月光は鵺丸様に忠誠を誓っている」
「あいつはもう正気ではないはずだ。月光は何もしなかったのか?」
「……侵蝕が限度を超えた者は、我々が殺すはずだと?」
「そうだったはずだ」
 女はしばらく無表情のまま武蔵坊を見据えると、再び前を向いた。
「お前も知っていたか……だが、月光はもうそんなことはしない」
「……どういうことだ?」
「鵺丸様に会ってみれば分かる。あの方は今でも、侵蝕人を守ろうとしている」
 進んでいくうちに、人混みは少なくなっていった。
 奥ではたき火の周りに人が集まっている。
 恐らくは幹部たちだ。
 風情のある泥鰌どじょう髭の男。丸刈り頭の長身男。月光の忍装束を着た男……
 なかでも、火の向かい側の岩に腰掛けている男は、武蔵坊もよく知っている。
「待っていたぞ……武蔵坊」真っ黒な顔の輪郭の中で、金色こんじきの瞳がぎらつく。「やはり大滝村に居たか」
 あれからたったの一日しか経っていないのに、久しぶりに見た気がした。
 鵺丸との再会である。

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