夢を見ていた。
オレは体中傷だらけで、テシオンの市街を逃げ回っている。
そのあとを、スレイナが鞭を振り回しながら、エミールが罵声を浴びせながら、おばさんが林檎を投げつけながら、どこまでも追ってくる。
「もう一発打たせろ、この被虐趣味!」
「消え失せろ、穢らわしい奴め!」
「待ちなさい、色男!」
いくつもの角を曲がり、ようやく振り切った頃には、オレはもう一歩も動けなくなっていた。
そこへもう一人、脇道から現れた者がある。
ジェロブ……!
天使のような衣装を身に纏い、哀れむような目でオレを見つめている。
「わぁ……酷い怪我。待ってて、僕が治してあげるから」
ジェロブは可愛らしい杖をクルクルと回しながら、呪文を唱えた。
「痛いの痛いの、飛んで行け!」
ああ、よかった……やっぱりジェロブだけは味方――そう思ったオレを、雷が襲った。
「ジェロブぅ! お前もかぁあああ!?」
断末魔の叫びとともに、オレは目を覚ました。
宿舎の寝台の上。
部屋の中は入った時そのままだが、小さな硝子窓からは朝の光が差し込んでいて、けたたましい鶏の鳴き声も外から聞こえてくる。
どうやら、あのまま寝てしまったようだ。軍服も着たままで、酷い寝汗をかいている。
コンコン、と扉を叩く音がした。
そうか。もう付き添いの人が来る時間なんだな。
オレは寝起きとは思えない華麗な体捌きで寝台を降り、扉を開けて、絶叫した。
「うおおうっ!? エミール!?」
扉の向こうには、悪夢の元凶――エミールがいた。オレの絶叫で少しビクッとしている。
「ビビり過ぎだろ……」
そう言い捨てると、オレが身構えているのを見て、急に落ち着きなく目を泳がせた。
それから、ややうわずった声で――
「あ……いや、その……昨日はごめん」
「……?」
エミールの、昨日とは打って変わったしおらしい態度に、オレはまごつく。
「悪いとは思ってたけど、あんな強く当たっちゃったから、どう謝ったらいいのか分からなくて……」
なんだそれは……?
それで恥ずかしくなって、逃げちゃったのか? そしてわざわざ朝から――
よく見れば、エミールの目元には泣き腫らしたような痕が残っている。
こいつもこいつで、一晩気に病んでいたのだろうか――そう思うと、急に愛おしさが込み上げてきた。あと、笑いが。
「な、なんで笑うんだよ!?」
「いや、悪い悪い。お前も結構可愛いところあるんだなって」
「………」
一発蹴りを入れたそうな顔で、エミールはオレが笑い止むのを待つ。
オレはむしろ蹴ってもらいたい気分だったが、これ以上エミールの機嫌を損ねるわけにもいかないから、その辺にしておいた。
それから少しの間、オレたちは寝台に腰をおろして話をした。
「そうかそうか……エミールは女帝の親衛隊なのか。まだ子供なのにすごいな」
「子供じゃない。もう十六だ」
「ああ、すまん。幼精を見た目で判断しちゃダメだったな。どうも慣れない」
今日のエミールは、緑と白で彩られた、明るめの軍服を着ていた。こっちが正装らしい。これはこれで、なかなか様になっている。上下半袖なのがまた素晴らしい。
「エミールは幼精なのに、なんで戦士なんかやってるんだ?」
「別に、珍しいことじゃないよ。親衛隊はほとんど幼精だから」
「ほう……大丈夫なのかそれ? ちゃんと守れるのか?」
「守れるよ」ちょっとむくれるエミール。「幼精は力じゃ女精にも敵わないけど、幼精にしかできないことだってあるんだからな」
こいつは……伊達に親衛隊やってないな。実力は申し分ないし、戦士としての誇りも持ち合わせているようだ。
まあ、オレに比べればまだまだだが。
「ベテルギウスさんは明日、御前試合に出るんだよね?」
「ああ、そうだな……………………そうなのか!?」
不意に名前で呼ばれ、聞き流しかけて、聞き返す。
「なんだ、まだ聞いてないんだ」
「御前試合があること自体、初耳だぞ」
「多分、あとで知らせが来ると思うけど、明日は論功行賞と御前試合をやることになってるんだ。オレは詳しいこと聞かされてないけど、ベテルギウスさんも呼ばれてるみたい」
「ほほう……?」
「王宮前広場で、街中の人が見てる前でやるんだって」
「ほほほう……?」
あの女帝……またなにか企んでいるらしい。公開処刑でもするつもりか?
まあいいさ。とりあえず今は、名前で呼んでもらえたことを喜ぶとしよう。
「エミール。次からオレを呼ぶ時はベテさんでいいぞ」
「……? うん」
「あと、明日暇だったら、案内役を頼まれてくれないか?」
ずっと目を合わせなかったエミールが、やっとオレを見た。
「オレなんかでいいのか?」
「なに言ってんだ。お前だからいいんだよ」
「えっ……」
エミールはオレの心の広さに恐れ入ったようだが、別にオレは和解の印だとか、そんな小難しい理由で誘ったわけではない。可愛い奴とは一緒にいたいという、至極安直な理由からだ。男って単純だろ? なあ、エミール。
オレという存在が眩し過ぎて直視できないのか、エミールはまた目を逸らした。
「分かった……暇じゃないけど、いいよ」
* * *
論功行賞の式典は、王宮前広場にて、盛大に執り行われた。
真っ白な壁の奥に見える、神殿のような造りをした建物が王宮らしい。正門前の三方は衛兵で固められ、その周囲では幾万とも知れぬ市民がひしめき合っている。身長の足りない幼精が埋もれているのが、ちょっと可愛……可哀想だった。
オレは衛兵に守られた特等席で、中から聞こえてくる笛と太鼓の演奏を楽しんでいた。
不意に、背後でワッと歓声が上がる。
ちょうど女帝ゼノビアが露台に姿を現したところだ。
太陽の下で光り輝く、黄金の冠、深緑の絹服。強さと美しさを感じさせるその立ち姿は、前に会った時以上に迫力に満ち、神と見紛うほどだった。
「なんと美しい……あれで四十代後半なんだってな。信じられねぇよな」
「そんな卑しい目で陛下を見るな」
俗っぽい感想を漏らしたオレに、隣のエミールが噛み付く。
今朝は彼が宿まで迎えに来て、この会場まで連れて来てくれたのだ。手を繋いで。
「そんなってどんなだ? じゃあどんな目で見ればいいんだ?」オレは白目を剥いた。「こうか?」
「だから……! いやらしい目つきで陛下を見るなと言っているんだ」
いやらしいねぇ……というか、分かるのか? 幼精のくせに。
エミールの頑なさに、オレは苦笑するしかない。まだ男嫌いは変わらないようだ。
悲しいかな……今日はまだ一度も名前で呼んでもらえてない。
そんな氷のような彼の心を温めてやりたいと、オレは思う。
「いいではないか。美しきを愛でるは人の性。咎められるいわれなどなかろう」
大人の哲学なるものを語ってみせたが、エミールはもう聞いていなかった。
市民の歓声に応える女帝ゼノビアだけを、瞬き一つせずに、じっと見つめていた。
やがてゼノビアが開式の口上を述べると、開け放たれた王宮の門から、見知った顔の戦士たちが揃って出てきた。万雷の拍手が鳴り響く中、戦士たちは円の描かれた石畳の上に整列し、代表者スレイナの号令で一斉に跪いた。
「西の脅威――大ローマ帝国の大軍を撃滅し、我が軍の武威は日増しに高まるばかりじゃ! もはやこのパルテミラ帝国を脅かせる国は、世界のどこにもあるまい!」
カルデアでの戦果を自慢げに報告するゼノビア。
その声は音響魔法で会場全体にこだまし、観衆を再び沸かせた。
それから、特に功績の大きかった戦士たちの名が、次々に呼ばれる。
パルテミラ軍の総指揮を執ったスレイナ。
ローマ軍に決定的な打撃を与えたヴェルダアース。
敵の最高指揮官を討ったエクサトラ。
ローマ軍を敗北に導いたオレ――の名は呼ばれなかった。
てっきり、敵国の愚将として晒し者にされるのだと思っていただけに、拍子抜けだ。
だが、オレの出番はこのあとに控えている。
カルデアの英雄たちが門の中に引き上げてしばらくすると、大きな木の杖を持った者たちが颯爽と現れ、石畳の円に沿って並んだ。
そして熱気冷めやらぬ観衆に向けて、女帝の側に控える幼精が告げた。
「これより御前試合を行う! 名を呼ばれた者は円の中へ」
会場の盛り上がりは、論功行賞の比ではなかった。
論功行賞もこのためにあったんじゃないかとすら思える。
まあ無理もない。国運を賭けた戦で活躍した英雄たちの力を、生で観ることができるのだ。なかなか粋なお祭りではないか。
それにしても、なんという人気ぶりだろう。
試合前から、観客の声援は一人の戦士に注がれていた。
「美髯将軍! 美髯将軍!」
この都において、その名で呼ばれる者といったら――ヴェルダアースしかいない。
美髯将軍か……あいつにふさわしい、カッコいい呼び名だな。
オレが二つ名を貰うとしたら、なにがいいだろう。
さしずめ、変態将軍といったところか……うむ、悪くない響きだ。
突然、剣を取って向き合った二人の姿が、上空に映し出された。
『蜃気楼』――杖を手に円陣を組んでいる者たちによる、幻像を生み出す魔法だ。エミール曰く、彼らは親衛隊を構成する凄腕の魔術師なんだとか。
向き合っているのはヴェルダアースとスレイナ。
二人とも防具を身に付けていたが、その上からさらに青く光る膜で覆われている。
「あの青いのは『霊験の鎧』って言うんだ。あれが破られた方が負けになる」
「分かりやすくていいな。でもあれじゃ緊張感に欠けるんじゃないか? スパルタクスの剣闘試合は、どちらかが倒れるまで木剣で殴り合ってたぞ」
「バカ……これだけの市民が見ている中で、そんな野蛮なことができるか。怪我でもしたら洒落にならないだろ?」
「クク……確かにな」
美女たちが血みどろで殴り合うのを見るのは、オレも御免だ。
スパルタクスでは訓練中に死んだり、再起不能な怪我を負う者も少なくなかったというのに、本当にこの国は平和過ぎて、涙が出てくる。食べ物もおいしいし。
試合が始まった。
予想通り、ヴェルダアースの優勢で試合は進んだが、スレイナもなかなかいい腕をしていた。小柄な体で機敏に動き回り、思いもよらぬ体勢からの反撃で、時折観客を沸かせた。
弓だけじゃないんだな、あの女……まあ、オレに比べればまだまだだが。
三十合ほど打ち合った辺りから、スレイナの動きが急速に鈍っていった。恐らくは、短期決戦で強引に勝利をもぎ取ろうとした、その代償なのだろう。
そこからはあっという間だった。畳み掛けるような斬撃をかわしきれず、スレイナが咄嗟に出した剣が、音高く折れ飛んだ。ヴェルダアースの剣は、そのままスレイナの首筋を打ち据え、『霊験の鎧』に亀裂を走らせる。
どよめく観客。次の瞬間、スレイナから青い光の粒がブワッと飛び立ち、『霊験の鎧』が剝がれるように消えていった。
「『霊験の鎧』消失確認! 勝者ヴェルダアース!」
審判の幼精がそう告げると、会場のどよめきは一段と大きくなり、再び「美髯将軍」と連呼する声が聞こえてきた。
「とんでもねぇな……あいつ」
オレは待機場所で、スパルタ式準備運動をしながらつぶやいた。
「髭は生えてるし、力もあり得ないくらい強いし……本当は男なんじゃないのか? あの胸の膨らみが全部筋肉だってんなら、説明はつくぞ。パルテミラの胸筋大魔王ってことで」
「なんだそれ」と、エミール。「ヴェルダアース将軍は正真正銘の女精だよ」
「じゃああのお髭はなんだ!?」
「あれは龍の髭って言われてる。ヴェルダアース将軍は、遥か東の国からやって来た、龍の子孫を名乗る一族の末裔なんだけど……ごく稀に、女の人でも長い髭が生えてくることがあるんだ」
龍の髭――恐らく、オレたち西の人間が思い浮かべるのとは違う龍のことだろう。東方の龍は翼がなくて、長い胴と髭を持った神聖な生き物だと聞いたことがある。
「ヴェルダアース将軍が強いのは、武術の才能はもちろんだけど、気功っていう、一族に古くから伝わる特別な修行を積んでいるからなんだ」
「ほう……どんな修行なんだ?」
「呼吸が関係してるみたいだけど、詳しいことは知らない。気功の存在自体、最近になって知られるようになったことだし。でもヴェルダアース将軍は、気功の修行を積んだおかげで、人間離れした力を発揮できるようになったんだってさ」
話を聞きながら、オレは四つ足でその辺をテケテケと歩き回った。関節をほぐしつつ四肢の連動性を高める、伝統的な準備運動。時間がない時はこれ一つでも十分だ。
「気功には弱点もある」エミールはさらに教えてくれた。「気功の呼吸をしている間は、体力の消耗が激しいんだ。だからヴェルダアース将軍も、普段はだいぶ抑えてる。本当の力を見せるのは、強い敵と当たった時、それもここぞという時だけだ」
「つまり……」オレは二本足に戻り、「そのここぞという時をしのげば、勝機が見えてくるんだな?」
「できればの話だがな」
「やってやるさ。オレに期待しているからこそ、それを教えてくれたんだろ」
「別に……そんなんじゃないから」
「素直になれよ。まったくもう、可愛いなぁ……ぐほっ!?」
エミールの拳が、脇腹にめり込んだ。オレはその場に崩れ落ちる。
「ちょっ……オレ次試合なんだけど」
「知るかよ」
くそ、一体なんだってんだ!? 可愛いって言っただけじゃないか! スレイナの時もそうだったが、どうもこの国の人は、褒めると殴ってくる傾向があるようだ。
休憩の終了を告げる角笛が鳴った。オレはあまりの気持ちよさで立つことができない。
会場に音響魔法が掛かり、オレの名が呼ばれ――
「待て。次は私が相手となろう」
なにぃ!?
思わず露台を見上げる。そこには、いつの間にか鎧を着込んだゼノビアの姿があった。
観客たちの間で、困惑したようなざわめきが起きる。
周囲の困惑をよそに、ゼノビアは露台から飛び降りた。遅れて親衛隊の幼精二人が続き、三人揃って見事な着地を決める。まばらに起こる謎の拍手喝采。なんだこれ……? 御前試合なのに、御前が出てきちゃっていいのか?
ああ、でもそうか……そういう奴だったな、あの女帝は。
これだけ面白いものを見せられて、じっとしていられるような性格ではない。
ともかく、ゼノビアの気まぐれによって、オレは窮地を脱することができたのだった。
ゼノビア対ヴェルダアースの試合は、三対一で行われた。
よく見れば、ゼノビアだけ『霊験の鎧』が三重になっている。卑怯にもほどがある。
これはもはや、ヴェルダアースを倒すためのお祭りだ。
だがそれでも、魔神ヴェルダアースを倒すには不十分だった。
開始直後、ゼノビアの親衛隊二人はパッと散開し、斜め後ろから同時に仕掛けた。
二人ともなかなかの手練れで、うまく連携すれば、スレイナとも対等に渡り合えそうな勢いだった。そこへ、隙を見てゼノビアが突進をかます。
瞬間、二人の幼精が、青い光の飛沫を上げて吹き飛んだ。
「なにぃ!?」という形に口を開くゼノビア。無防備になったその土手っ腹に、ヴェルダアースの渾身の一撃が叩き込まれた。
二度、三度と地面を跳ね、ようやく止まった時には、ゼノビアの『霊験の鎧』が三枚とも消え始めていた。
歓喜の声を上げる市民たち。大の字でくたばっているゼノビアが、惨めだった。
「クカカ……ざまぁねぇな。人望からしてヴェルダアースに負けてるぞ、女帝陛下様よ」
「………」
オレはまたなにか言われるんじゃないかと思ったが、エミールは悔しそうに唇を引き結んだまま、押し黙るだけだった。
そっか……ゼノビアの親衛隊だもんな。悔しいよな。
仇は取ってやる。だから……泣くなエミール!
短めの休憩のあと、とうとうオレの出番がやって来た。
「次は特別な試合となります。ベテルギウス、前へ!」
聞いたこともないその名に、会場は一瞬静まり返る。
そしてオレが決闘の円の中に入り、『蜃気楼』に映し出されると、低くざわめき始めた。
なぜ男がここに? いや、あれはでっかい幼精だ。しかしそれにしては筋肉が……
「彼は、此度の戦でヴェルダアース将軍が捕虜にした、スパルタクスの将軍です。現在は降伏し、特例によりテシオンに滞在しております」
進行役の幼精が、すぐさま市民に向けて補足する。
むろん、そんなもので市民たちの疑問が消えるはずもないが、誰かが「殺っちまえ」と叫ぶと、再び会場は熱気に包まれた。
そう、これはカルデアの戦いの再現なのだ。
ヴェルダアースが、ローマ軍最強の敵――ベテルギウスを打ち破った名場面の。
「よお、調子よさそうじゃねぇか」
「お前の方こそ、元気そうでなによりだ」
オレは円の中心へと進み、ヴェルダアースと向かい合った。
「まさか、こんなに早く再戦できる日が来るとはな。不意討ちでやられた前回とは違うぜ」
「何度やっても同じだ」オレの世迷い言に、ヴェルダアースが冷淡に切り返す。「敵前で上の空になる阿呆に勝者の資格はない。せいぜい負けた時の言い訳でも考えておくんだな」
そうだな――オレは言われた通りに、言い訳を考えてみた。
こんなヴェルダアースびいきの声援の中で戦うなんて、不公平だ!
試合開始の笛が吹き鳴らされた。
その瞬間、ヴェルダアースの纏う空気が一変した。刃の切っ先のような鋭い眼が、オレを威圧する。それは闘志や殺意といった沸々としたものではなく、神が遥か高みから人を見下ろすような、冷厳たるものだった。
オレは猫につんつんされた鼠のように硬直していたが、ヴェルダアースが一歩踏み出すと、「ぬおおぉう!」と雄叫びを上げて斬りかかった。
攻めの刃と逆襲の刃がぶつかり合う。
激しい金属音が、続いて息が止まるほどの衝撃がオレを襲った。
それから何合か打ち合ったが、やはり一撃の重みが尋常ではない。盾で受けていた前回以上に重く感じる。刃を交える毎に、エミールに脇腹を殴られているかのようだ。
お互い徒歩で剣と剣。正直、かなり分があると思っていたが。甘かった。
盾があればなぁ……
そんなオレの詮無き心のつぶやきは、異様な金属音に掻き消された。
まずった……! 剣が折れてしまった――驚く間もなく、もう一発が来る。
ガッ!
ヴェルダアースの剣が、オレの頭を叩いた。
「おお!」という声が、観客側から漏れる。
だが、オレの『霊験の鎧』は割れなかった。咄嗟に首を倒して、切っ先の直撃を免れたのが幸いしたらしい。
「今のは不意討ちか?」
「ああ。剣が意外と脆かったんでな。今のは剣が悪い」
「なるほど。次はどんな言い訳を聞かせてくれるか、楽しみだ」
風が、吹きつけてきたように感じられた。
次の瞬間には、ヴェルダアースの姿は目の前にあった。
龍が天に昇るような、突き上げるような一撃――名付けて『天昇龍』を、オレは間一髪でかわす。返す剣による第二撃は折れた剣で防いだ。弾き返すことはできず、押されるがまま。刃が離れて剣が自由になった時には、また次の一撃が襲い来る。
これが気功の力なのか――力も速さも、先程までの比ではなかった。
「折れた剣でよく防ぐ。だがこれでどうだ?」
腕の長さを活かした、捻じ込むような突きを、ヴェルダアースは繰り出した。
なめんな! オレの方が腕長ぇんだぞ!
そう心の中でつぶやいて、オレは身を翻して突きをかわす。そのまま剣を振りかぶり、反撃に転じようとするが――
深く突き込まれたヴェルダアースの剣が、躍った。
オレの懐の中で、踊り狂った。
それは突きから派生する乱斬の嵐。名付けて『牙龍乱嵐』
スパルタクスの盾と言われたオレの守備力を以ってしても、すべてを防ぎ切ることは不可能だった。肩、肘、頬と、次々にヴェルダアースの剣撃を浴びていく。
そしてついには、胸を守ろうと突き出した剣も払い除けられ、がら空きになった胴に、決定的な一撃が叩き込まれた。
オレはゼノビアさながらに吹っ飛び、仰向けに倒れる。
どっと上がる歓声。熱狂的な観客が美髯将軍の名を叫び、続けて音響魔法が掛かる。
だが、勝者は告げられなかった。
理由は単純明白。『霊験の鎧』が割れていないからだ。
歓喜が動揺に変わるのは、一瞬だった。
「なぜ割れない……!? 今のは完全に入ったでしょ!」
「ゼノビア様みたいに、インチキしてるんじゃないの!?」
次々とかけられる、あらぬ疑い。
しかしヴェルダアースは、オレがなにも不正を働いていないことを知っていた。
「妙に手応えが弱い。お前、一体なにをした?」
「なに、別に特別なことじゃないさ」オレはむっくりと体を起こす。「打たれる瞬間に、体を引いて衝撃を和らげたんだ。スパルタクスの総合格闘術じゃ、基本中の基本だぜ。これができなきゃ体が持たないからな」
そう、これは地獄より過酷な訓練の賜物だ。テシオンという名の天国でぬくぬく育った者たちには分かるまい。名付けて『勇退離脱』。先程の決定的な一撃も、半ば自分から吹っ飛んだのだ。
「まさか、剣闘試合で役立つとは思わなかったがな。『霊験の鎧』とやら、思った以上に丈夫らしい」
「フッ……馬鹿なことを」ヴェルダアースは苦笑した。「そんな芸当ができるのは、お前くらいだろう。『霊験の鎧』は刀傷には強いが、大きな衝撃を受ければすぐに割れる」
確かにな……刃引きした剣でもなければ、どうなっていたか分からない。
本当の戦いだったら、オレはとっくに死んでいる。だがこれは特別な規則を設けた試合なのだ。最後まで『霊験の鎧』が割れなかった方が、勝つ。
「聞いたぜ。あんたの使う気功ってやつは、結構体力使うんだってな。このままじゃまずいんじゃないのか? オレはもうあんたの剣に慣れた。二度もあんな攻撃は喰らわないぜ」
「そのようだな。出し惜しみしている場合ではないようだ。かくなる上は、我が全力を以って、お前の『霊験の鎧』を粉砕するとしよう」
ヴェルダアースの――龍の息遣いが、ここまで伝わってきた。
エミールの言っていた、ここぞという時がやって来たようだ。
消耗の激しい気功は諸刃の剣。ヴェルダアースが一息に押し切るか、オレが耐え切り形勢逆転か。
観客たちの声は、もう聞こえていなかった。
この決闘の円の中は、二人だけの空間。オレの闘志とヴェルダアースの鋭気だけが支配していた。
空気が震え、ヴェルダアースの姿が消える。
オレは反射的に跳び退る。視界の端に、一瞬だけヴェルダアースの姿が映った。
この構えは――いきなりの『牙龍乱嵐』
かわすだけではダメだ――そう頭に刻んでいたオレは、突き込まれる剣を弾こうとした。
が、ヴェルダアースの剣はびくともしない。そこから無慈悲な乱斬が始まる。
やはりすべてを防ぎ切ることはできない。致命的な打撃は避けたつもりだったが、掠った剣撃のいくつかは、試合終了を意識するほどの衝撃があった。
嵐が止んだかと思えば、続けて『三頭龍』『双龍咬殺』『龍舌乱舞』
どれも掠っただけで即敗北の大技。特に『龍舌乱舞』は危なかった。
オレはもう、目で追えてはいなかった。すべての感覚を総動員して、ほとんど勘だけで防ぎ切った。
ヴェルダアースの剣捌きは美しい。一つ一つに技の名前を付けてやりたいくらいだ。しかしだからこそ、オレはその剣筋を見切ることができたのかもしれない。ヴェルダアースとはこれで二戦目。しかもどちらも防戦一方だったから、剣と槍の違いはあるにせよ、ヴェルダアースの攻撃の癖はだいたい分かっている。
とは言え、オレの集中力の限界も近付いていた。
どれだけ耐えても、ヴェルダアースの攻勢が弱まる気配はない。気功の呼吸なんて使っていなくても、普通これだけ打ち合っていればへばってくるはずなのに。つくづく、恐ろしい奴だ。
とにかく一秒でも長く耐える、オレの頭はそれで一杯だった。
そんな無我の境地が破れたのは、ヴェルダアースが、見たことのない構えをした時だった。
なにが来る……? 分からない……なら……
オレはとっさの判断で間合いを詰め、出の早い攻撃で牽制しようとした。
瞬間――オレの折れた剣が空の彼方に弾き飛ばされた。
「……!」
オレの手元には、もうなにも残っていない。
無表情だったヴェルダアースの顔が、綻ぶ。
が、オレはまだ諦めてはいなかった。
「どうした! オレの鎧は、まだ割れてないぞ!」
勝利を確信しての油断か、疲労が出たか。ヴェルダアースの動きが一瞬鈍ったように感じたのだ。
それはヴェルダアースが見せた、最初で最後の隙。オレは見逃さなかった。
止めの剣が振り下ろされる寸前に、オレは残されたありったけの力で、ヴェルダアースに突進した。
異様な衝突音が、王宮前広場に轟いた。
ヴェルダアースが吹っ飛び、オレはぶっ倒れる。
オレの『霊験の鎧』が、肩口から消えていく。向こうで体を起こしたヴェルダアースのも、半ば消えかかっていた。
その間、会場は水を打ったように静まり返り、声を出す者もいない。
相討ち――『霊験の鎧』同士がぶつかり、両方割れた。
この場合、どうするのだろうか。
『霊験の鎧』が完全に消えたのは、ヴェルダアースの方が先だった。肩と腹でぶつかり合えば、丸みのある肩の方が強いということだろう。
はっと我に返った審判が、女帝の顔色をうかがうそぶりを見せた。
こういうのは、権力者の御心一つで簡単にひっくり返る。
が、女帝ゼノビアは微笑むだけで、特に合図らしきものは出さなかった。
審判の幼精は、悩んだ末に――
「双方、『霊験の鎧』消失! ただし、消失順があとだったことにより、勝者はベテルギウスとする!」
歓声は上がらなかった。
国民的英雄として崇められる美髭将軍が、得体の知れない変態将軍に敗れる――あってはならないことが、起きてしまったのだ。落胆の程は計り知れない。
「体当たりなんて無効よ! やり直しなさい!」
「その男は剣を失っている! ヴェルダアース様の勝ちだ!」
続々と上がる、抗議の声。
もうやめてくれ。かわいそうに、幼精の審判が怯えているじゃないか。
だんだんと大きくなる抗議の声を遮ったのは、王者の風格に満ちた、堂々たる女の声だった。
「静まれ! それが正々堂々と、死力を尽くして戦った者たちに対する礼儀か!」
ゼノビアが、露台から見下ろしていた。
自らは反則しまくっていただけに、かえって説得力がある。
「御前試合は、先に相手の『霊験の鎧』を破った者が勝ち。いずれが勝者であるかは、誰の目にも明らかじゃ」
『霊験の鎧』に不正がなかったことも、体当たりで両方割れたことで証明済みだ。
打って変わって、オレの勝利を祝福する拍手が、控えめながらも湧き起こった。
「ベテルギウスよ。素晴らしい戦いぶりであったぞ。剣を失っても諦めないその闘志、我が国の戦士にもぜひ見習ってもらいたいものじゃ」
「もったいないお言葉でございます」
オレがしたり顔で応じると、ゼノビアは満足そうに微笑んだ。
そしてさらに、儀式めいた厳かな声を、空から投げかける。
「改めて問う。パルテミラのために、お前のその力、捧げる気はあるか」
オレはうやうやしく跪き、新しい主君に向けて、誓いの言葉を述べた。
「はっ! パルテミラの平和と繁栄を守るためならば、このペテ……ベテルギウス、万死も厭わぬ所存でございます!」
それは、オレが正真正銘の――テシオンの市民となった瞬間であった。
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