第58話:死の招き猫

 ホタルを見ていた。
 風の穏やかな初夏の夜。影狼は家をこっそり抜け出し、この場所まで来ていた。暗闇の中をふわふわと漂うホタルの光は、空からこぼれ落ちた星屑のようで――
「綺麗……」
 思わず、そんな言葉が口からこぼれ出た。
「だろ?」星のように目を輝かせる影狼に、隣に腰掛けていた者が微笑みかけた。「ここがオレの一番のお気に入りの場所。連れて来たのは、お前が初めてだ」
 その者の名は菊之助きくのすけ。歳は五つほど離れていたが、やさしくて、物知りで――大人ばかりの鴉天狗の中で数少ない、心の許せる友であった。すぐそばには、銀色のきれいな縞模様をした猫が丸まっていた。
 二人と一匹はしばらくの間、川のせせらぎと虫の音を聞きながら、ホタルが舞うのを静かに眺めていた。
「知ってるか? ホタルって、大人になったら五日くらいで死んじゃうんだ」
「そうなんだ。かわいそう」
「でも、最近思うんだ。ホタルみたいな生き方も悪くないって」
 菊之助はホタルを見つめたまま、愛しそうに猫の背中を撫でた。
「必死に生きてこそ、その生涯は光を放つ――昔、織田おだ信長のぶなががそんなこと言ってたらしい。ホタルって、この言葉をそのまま表してるみたいでさ……なんか、いいよな。短い生涯を必死に生きてる。ただそれだけなのに、こうやって綺麗な景色作って、オレたちの心に残るんだ」
 少し照れくさそうに目を伏せて、菊之助は続けた。
「オレは、侵蝕でこの先長くないかもしれない。だから、こういう時間を大事にしたいんだ。死んだ後も、ずっと憶えててもらえるように」
 侵蝕が進行すれば死ぬ――それは、ちょうどその頃から言われ始めるようになったことだった。けれどこの時の影狼は、身近な人が死ぬなんてことは想像もつかなくて、自信たっぷりにこう言ったのだった。
「死なないよ! 侵蝕なんか、鵺丸先生がなんとかしてくれるから。オレたちずっと一緒だよ!」
「そっか」菊之助は嬉しそうに笑った。「そうなったらいいな」

 その帰り道、影狼は道端でくっちゃべっていたおばさんたちに呼び止められた。
「あんた、こんな時間までどこ行ってたんだい?」樽のようなお腹をしたおばさんが心配した様子で言った。「まさか、また菊之助と遊んでたんじゃないでしょうね?」
「ダメ?」
「侵蝕人に会うのなら、せめて御守番おもりばんの人を付けて行きなさい。あと夜は絶対にダメだからね。危ないから、家族でも夜は滅多に会わないのよ」
 なんだか菊之助が除け者にされているようで、影狼はムッとなった。
「菊之助は全然普通だよ! 危なくなんかないから」
「今はそうかもしれないけど、本当にふとしたことで気が狂っちゃうこともあるのよ」
 影狼は聞こえないふりをして立ち去ろうとしたが、そこでもう一人のおばさんが口を挟んだ。
「あ、そうそう。菊之助って猫飼ってるじゃない。あの猫ちょっと訳ありらしいよ」
 それはお腹が出たおばさんに向けられた話だったが、影狼は聞き捨てならなかった。
「それってノブナガのこと? ノブナガは野良猫だよ。いつも寄ってくるから、菊之助が面倒見てるんだ」
「あらそう?」
「訳ありってどういうこと?」
「それがねぇ……なんか、あの猫の前の飼い主も、その前の飼い主も、その前も、飼ってすぐに亡くなっちゃったみたいなのよ」大げさに首をかしげながら、そのおばさんは言った。「偶然とは思えないし、あんまりにも縁起が悪いから――死の招き猫だって、みんな言うのよ」
「ふ~ん? 変なの」
 縁起などというものを、影狼は信じなかった。ご飯に箸を突き刺したり、年越しを寝て過ごしたり、あえて縁起の悪いことをすることもしばしばだ。別にそれくらいで運命が変わるわけじゃなし。運命は自分の手で掴むものだという信念があった。
「気を付けて帰るんだよ」
 おばさんたちの声を背に受けながら、影狼は夜道を駆けていった。
 帰ったらまた幸兄に叱られる。どう誤魔化そうか――そのことで頭がいっぱいだった。

     *  *  *

 それから数日の後――源家屋敷の庭先では、木刀同士がぶつかり合う小気味よい音が鳴り響いていた。
 容赦なく打ち込まれる剣撃を、一方的に受け続ける影狼。
 初めは余裕のあった守りも、次第に増していく剣勢に押され、乱れが生じ始める。
 そこで影狼は反撃に出た。守りを崩そうと、相手が前のめりになったところを突く一撃。タイミングは完璧だったが――
「あれっ……!」
 紙一重でかわされ、影狼はつんのめってしまった。この隙を相手が逃すわけがなく――
 ビシッ
 影狼の脳天に、手刀をお見舞いしてやった。
「いってぇ!」
 頭を押さえてのたうち回る影狼。それを呆れた顔で見下ろすのは、義兄の幸成だった。
「今のはなんだ? お前は受けだって言ったろ?」
「分かってるよ。でも受けてばっかじゃつまんないじゃん。オレも打ち込みやりたい」
 幸成はやれやれとばかりに、長いため息をついた。
「あのな、オレたちはチャンバラごっこやってるんじゃないんだぞ。お前も大きくなったら、侵蝕人の暴走を止めたり、町に出て悪い奴を捕まえたりすることになる。その時のために剣術を教えてるんだ」
「……なんだよそれ。幸兄ばっかりずるい」
 影狼がブーブー文句を言っていると、屋敷の方から声が掛かった。
「たまにはいいんじゃない? 楽しく稽古続けることも大事でしょ。はい、差し入れ」
 幸成の母――泉だ。当時から気分の浮き沈みが激しかったが、この日は元気だった。運んできたおにぎりとお茶を縁側に置いて、その場に腰を下ろす。
 そこへ、背後から駆け寄る小さな影があった。
「あっ、ノブナガだ!」
 その姿を見るや、影狼はぱっと顔を輝かせた。
 ノブナガは、鴉天狗の集落のちょっとした人気者だった。いろんな人の家にやって来ては、愛嬌を振りまいて行く。
 いつ、どこからやって来たのかは誰も知らない。影狼が最初に見かけたのは、菊之助と遊ぶようになった頃のことだ。初めのうちは、そこら辺をほっつき歩いていただけなのだが、近頃は菊之助にべったりである。
 そして菊之助繋がりなのか、うちにもよくやって来るようになったのだ。
「待っててね。ノブナガのご飯も今持って来るから」
 泉に背中を撫でられて、ゴロゴロと喉を鳴らすノブナガ。
 それを見て、影狼も触ろうと近付くが――
「シャー!」
 ベシッ
 恐ろしく速い猫パンチで撃退されてしまった。
 赤く腫れた頰をさすりながら、影狼は不服そうに言った。
「ねぇ幸兄、こいつオレが触ろうとするといっつも殴ってくるんだけど」
「なんか嫌なことしたんじゃない?」
「してないよ。むしろ殴られてばっかりだもん」
 代わりに幸成が撫でてやると、ノブナガは気持ちよさそうに目を瞑った。
「でも爪は絶対に出さないからね。手加減してやってるんだよ。エライエライ」
「ヒドイヒドイ」
 一緒にいた時間は影狼の方が長いのに、ノブナガはいつもこんな調子だ。一体なにが気に入らないというのか。手加減していると言うが、結構痛い。
 だが、毎度ひどい仕打ちを受けていても、影狼はノブナガが好きだった。

     *  *  *

 その夜、影狼は人の声で目が覚めた。
 なにやら外が騒がしい。それから、玄関の方からも声がする。幸成が誰かと話しているようだった。影狼は隣で寝る義母を起こさないように、そっと布団を出た。
「そんな……危険過ぎます。こんな暗闇の中でどうやって戦うんですか?」
「明け方まで待っていたら死人が増える。今行くしかない」
 幸成と話していたのは、幽霊のような蒼白い顔をした男――犬童だった。
「お前はまだ駆り出されないだろうが、一応鵺丸様の屋敷に向かえ。みんな集合しているはずだ。オレは夜目が利くから、先に現場に向かうことにする」
「分かりました。どうかお気を付けて!」
 犬童が走り去るのと同時に、幸成も踵を返して支度をしに向かう。そこで影狼とばったり出くわした。
「起きてたのか」
「うん……ねぇ、なにかあったの?」
「近くの村で妖怪が出たらしい。それで鴉天狗が退治することになった」
 それは、十年ほど鴉天狗で暮らしてきた影狼も、初めて体験することだった。鴉天狗が資金調達のために妖怪退治を請け負うこともあったが、それは宝永山の麓に出向いてのことである。この八幡の周辺は安全なはずだった。
「いいか? オレが帰るまでは絶対に家から出るなよ」
 そう言い残して、幸成はさっさと家を出てしまった。
 影狼は寝るに寝れない。仕方なく、居間から外の景色を眺めることにした。
 怖いほどにくっきりと、星がよく見える晩だった。
 しばらくすると、無数の提灯が集落の外に向かって一斉に動き出すのが見えた。
 ―――幸兄……大丈夫かな……
 あの中に幸成もいるのだろうか。不安で胸がいっぱいになる。
 と、その時。庭の端から囁くような鳴き声がして、影狼はビクリとした。見るとそこには、爛々と光る二つの眼。
 ノブナガだ。
「なんだお前か。おどかすなよな」
 ノブナガはぴょんっと縁側に飛び上がると、テケテケと影狼のすぐそばまでやって来た。そして影狼と視線が合わない程度の向きで、香箱座りになる。
 ―――珍しいな……自分から近付いてくるなんて……
 思い返せば、それまでノブナガと二人きりになったことはなかった。大抵は菊之助が一緒にいたし、家に立ち寄るのも日中だけで、その時は幸成や義母がいた。
 しかしこの夜、ノブナガは影狼に会うためだけにここに来たのだ。普段はあんな態度だから、毛嫌いされているのかと思っていたが、そうでもなさそうだ。
 今なら撫で撫でさせてもらえるだろうか?
 そっと、ノブナガの背中に手を伸ばす。
 シュッ
 ダメだった。
 懲りずにもう一回やっても柔らかい拳が飛んでくるだけ。だが、今日はいつものような鋭さがなく、簡単に避けられた。
 影狼は面白くなって、挑発してみたものだった。
「ハッ、オレは毎日のように剣の練習してんだ。そんなへなちょこな攻撃が当たるかよ」
 次の瞬間には、両の肉球を使った連打で影狼は沈黙させられた。
 やはり手強い。
 でもこれは、ノブナガなりの戯れなのかもしれない。結局、ノブナガは幸成が帰ってくるまで影狼のそばを離れなかった。

     *  *  *

 鵺丸の屋敷は、鴉天狗内の様々な催し事の会場でもあった。
 この日、影狼は大人たちに混じって稽古をした後、ついでに宴会にも参加することになった。広々とした座敷には多くの机が並べられ、その上には所狭しと豪華な料理が載っていた。正直乗り気ではない影狼だったが、これで退屈しないで済みそうだ。
 手当たり次第に肉を貪っていると、幸成の席にあの酔っ払い男――片桐がやって来て、酒を勧めてきた。というか、強要してきた。
「いいですって。私、酒呑めませんから」
「なんだよぉ。お前もう十五だろ? 遠慮すんなうぃっ……酒はいいゾォ~」
 そう言って、片桐は飲みかけの麦茶が入った湯呑に酒を注ぐ。ちなみにそれは影狼のだ。
 誰も教えてくれないが、実は片桐も侵蝕人なのではと、影狼はずっと思っていた。
 宴たけなわとなったところで、鵺丸が集まった同胞たちに呼び掛けた。
「先日の妖怪退治は本当にご苦労だったな。お主らが体を張ったおかげで、多くの命が救われた。村人からも感謝の手紙がたくさん届いておる」
 この間の出来事についてだった。幸成は戦闘に加わらなかったというが、なかなかの難敵だったらしい。ただでさえ人の体が休まり、妖が活発になる夜間の戦闘。月すら出ておらず、視界もよくなかっただろう。
「ところで、なぜあのような妖怪がこの地域に現れたのか――ということだが、昨夜、幕府から通達があってな」鵺丸は少し声を落とし、「どうやらあれは、妖派の施設から脱走した妖怪だったらしい」
 ざわつく宴席。大人たちが口々に妖派への不信、失望の言葉を言い合う。
「おいおいおい、死人も出てるんだぞ。奴らどう責任取るんだ?」
「責任なんて取らねぇだろうよ。人の命をなんとも思わん連中だからな」
 鵺丸は懐から手紙を取り出して、話を続けた。
「貴重な妖怪を勝手に退治されて、妖派は甚くご立腹のようだ。八幡支所の九玄くげん殿から、今後二度とこのようなことがないように――とのお言葉を頂戴している」
「こっちの台詞だ。妖怪の脱走が二度もあってたまるかってんだ」
 すかさず上江洲が茶化すと、各所から笑い声が漏れた。
 この頃から妖派は嫌われ者であったが、せいぜい庶民が幕府の悪政を批判するのと同程度の感情だったように思う。それが敵意に変わるのは、もう少し後のことであった。

 夕刻――影狼は宴会を途中で抜けて、坂道をひたすらに駆けていた。
 この日は菊之介と会う約束がある。食事に夢中になるあまり、忘れるところだった。
 鴉天狗では、侵蝕人は集落の中央にある、大きな長屋に住まわされることになっていた。菊之助も普段はそこにいて、外出する時は管理人の許可と、御守番と呼ばれる監視役が必要だった。夜間の外出は禁じられているから、この間はこっそり抜けてきたそうだ。あとでこっぴどく叱られたらしい。
 影狼も管理人に目を付けられているから、できれば顔を合わせたくなかった。管理棟を素通りしようとする。が――やはり呼び止められた。
 しかし、いつも偉そうにしている管理人が、今日は妙におとなしく見える。
「菊之助に会いに来たのか?」
「……? はい」
 胸騒ぎがした。管理人は気まずそうに頭をポリポリ掻いて――
「その……言い辛いんだけどな、菊之助はもういないんだ。こないだの朝、オレが見に行ったら……って、おい! 危ないって!」
 聞き終わらないうちに、影狼はたまらず長屋へと駆け出した。
 その先を聞くのが怖かった。聞いてしまえば、僅かな可能性も潰えてしまうような気がしたのだ。無駄な足掻きだと分かっていても。
「!」
 菊之助の居宅は、空だった。
 玄関は完全に開け放たれ、大きな家具から、部屋の隅々に置いてあった小物まで、菊之助がそこに暮らしていたという痕跡は、なに一つ残っていない。
 そこはもはや菊之助のための部屋ではなく、新しい入居者を迎えるための部屋だった。

 影狼は帰宅すると、そのまま布団に籠ってしまった。
 あの後、管理人から菊之助の死をはっきりと告げられた。しかしそれでも実感が湧かず、帰りはずっと上の空だった。それが家に着いた途端に、様々な感情が込み上げてきたのである。
 喪失感、後悔、怒り、そして死への恐怖。
 何者も、やがて訪れる死から逃れることはできない――自分や菊之助は特別だと思い込むことで、ずっと目を背けてきた現実。それが今は身近なものとして感じられた。
 死にたくない! 死にたくない!
 暗い感情が影狼の心を支配していく。ガタリと、襖の動く音がしたのはその時だった。
 恐る恐る布団から顔を出すと、そこにはノブナガの姿が。
 ノブナガは影狼を気に掛けるように一声鳴いて、そっと近付いてきた。不安で眠れなかったあの夜と同じだ。だが影狼の方は、違った。
 ノブナガを見て影狼が思い浮かべたのは、おばさんたちが噂していた不吉な話。
 ―――前の飼い主も、その前の飼い主も、その前も、飼ってすぐに亡くなっちゃったみたいなのよ……あんまりにも縁起が悪いから、死の招き猫だって……
 そして、ノブナガと最も親しくしていた菊之助も死んだ。
 美しい銀色の毛並み。海のような蒼く澄んだ眼。いつもは惹かれるそれらの特徴が、この時ばかりは、冷徹な死の使いを連想させた。
「嫌! 来ないで!」
 反射的に、手が出てしまった。
 ノブナガはビックリしたように跳び退いて、そのままの勢いでどこかへ行ってしまった。
 あとにはなんとも言えない罪悪感だけが残り、影狼はまた布団に潜り込んだ。
 その日から、ノブナガは姿を見せなくなった。

     *  *  *

 それからしばらくは、魂の抜けたような日々が続いた。
 食事は普通に取るし、任された分の家事もちゃんとこなした。稽古が休みになったこと以外は、元の日常に戻っていたのだが、どうも生きている実感がない。
 変化があったのは、五日も経ってのことだった。
 ノブナガが来なくなったのを不審に思った幸成が、影狼に事情を聞いたのである。影狼はすべて話した。ノブナガを追い払ってしまったこと。そして死の招き猫の噂のことも。
「なんだ、そんなことか」幸成はその噂話を笑い飛ばした。「ノブナガは幹部たちの間でも噂になってたんだよ。邪気を感じ取れる猫だって」
「えっ……?」
「ノブナガと親しくしてた人がよく亡くなるのは、本当のことだ。でもそれは、ノブナガのせいじゃない。ノブナガはただ、侵蝕が深刻な人によく懐いていただけなんだ。むしろノブナガが寄り添うことで、みんな救われてたんじゃないかな」
 あの時もノブナガは、死の恐怖に震える自分を慰めに来ていたのだろうか――そう思うと影狼は胸が痛くなった。なんてことをしてしまったんだと。
「明日、一緒にノブナガを探そう。そして仲直りしような」
「うん」
 その時、玄関から「ごめんください」と聞き覚えのある声がした。
 訪ねて来たのは、菊之助の両親だった。鴉天狗からの退居が決まり、その挨拶に来たのだという。
「影狼君、今まで本当にありがとうね。あなたと遊ぶようになってから、菊之助は毎日楽しそうで……それまで私たちともほとんど話さなかったのに」
 影狼にとってそうであったように、菊之助にとっても影狼は数少ない友であった。あまりにも短い生涯――それでも、自分がいたことで少しでも幸せになれただろうか。
 ふさぎ込んでいた気持ちが、だいぶ晴れてきたような気がした。

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