色部屋敷の庭では、突如現れた獅子髭の男が本庄信繁と睨みあっていた。
敷地全体に燃え広がった炎の勢いはいまだ衰えず、辺りは焦げくさい臭気で覆われている。そんな中で、獅子髭の男はグイッと酒をあおり、また一つしゃっくりをした。とろんとした目が、酔っているようで寝ぼけてもいるようで、なんとも間抜けだ。
「ふん……なめられたものだ」信繁が言った。「さしずめ鴉天狗の尖兵といったところだろうが、よりにもよって貴様のような奴をよこしてくるとはな。見ないうちに、だらしない体になりおって……片桐且宗」
「へっ、それがかつての同僚に掛ける言葉かよ。お前には怪我で辞めさせられたオレの気持ちなんか分からねぇだろ? おかげでなんにも手が付かなくてよ、酒っばっか飲んでたらこの様だ。ガハハッ」
片桐は信繁と同じ一番隊に所属していた元殲鬼隊員。任務の最中に大怪我をし、大した活躍もないまま引退を余儀なくされた男だ。むろん、命を落とす者も多くいたのだから、彼はまだ幸運だったのかもしれない。だが怪我を抱えたまま生きていくのは、本人からすればかなりの苦痛だったようだ。
言っていることは惨めなのに、顔は完全に笑っている。あまりにも哀れな姿。
その様子を見ていた色部は不安になり、傍に控える忍に問うた。
「か、勝てるのでしょうな? 相手は殲鬼隊屈指の実力者。並の武人では相手になりませぬぞ」
「ご心配なく。片桐も元殲鬼隊員。怪我で引退して一度は腐りましたが、回復してからの彼は強い。相手にならないのは、むしろ信繁の方でしょう」
「そこまで言うか……」
色部は睨み合う二人の猛者に視線を戻した。
「そんな体で戦ってもこの私には勝てぬぞ。死にたくなければ今すぐそこをどくことだ。元一番隊同士の誼みで、今回だけは見逃してやる」
「おいおい……やっと元同僚を気遣ったかと思えば、オレが弱えみたいな言い方しやがって……うぃっ」片桐は赤らんだ顔をさらに紅潮させた。「言っとくけどなぁ、てめぇなんか、鵺丸様がくれたこの妖刀があればイチコロなんだよ」
そう言って片桐が引き抜いたのは、唐風の装飾が施された直剣。表面がざらついていて艶はないが、斬れ味は悪くなさそうだ。
「せっかく拾った命を無駄にするか……馬鹿な奴だ」
片桐に退く気がないと見るや、信繁も刀を引き抜く。もとより妖の類には厳格な信繁である。妖刀の力を誇示する者に対して容赦する理由などなかった。
信繁が一歩踏み出すと片桐もそれに応え、二人の間合いが一瞬で詰まる。
刃と刃が噛み合い、凄まじい音が空気を震わした。凡庸な刀では、この一撃だけであえなく折れ飛んでしまうだろう。両者はそのまま鍔迫り合いを始めた。
押して崩すか引いて崩すか――その判断は信繁が早かった。反動をつけて一気に押し込み、がら空きになった片桐の脇腹に渾身の一閃を叩き込む。が、間一髪、鋼鉄のように硬い柄に阻まれた。続く怒涛の連撃も、片桐は見事に防ぎ切ってみせた。
「相変わらず迷いのない攻めっぷりだなぁ」片桐は、たった今の攻防で欠けたらしい指先をなめる。「よくそんな戦い方で殲鬼隊時代を生き抜いたものだ……うぃっ」
「お前の方は、怪我の影響はほとんど残っていないようだな。むしろ腕を上げたか?」
「クカカ、そりゃ気のせいだ。オレは引退してからろくに鍛練してねぇ。変わったことがあるとすれば……土壇場に強くなったことくらいだ。一度死にかけたからだろうな、追い詰められると、野生の勘とやらがビンビン働きやがる」
それから片桐は、妖刀を立てて念を込めた。
『血舞酔・狂血乱舞!』
すると妖刀から赤い蒸気が噴き出し、刀身の周りに渦を作った。
「知ってるか? 信繁。妖刀ってのは、使い手が野生の本能に目覚めるほど強くなる。死の淵に立たされるほど、死にたくないという思いは強くなり、妖力が増す。今のオレは、妖刀と最高に相性がいいんだ」
信繁は血の渦を纏った妖刀を注意深く見つめてから、一つため息をついた。
「妖刀の力を引き出すためにあえて受けに回ったか。その心意気は誉めてやろう。だが本能に心を委ねるというのなら見当違いだ」
刃幅の広い刀を斜め上段に構え、信繁はまっすぐに片桐に斬りかかる。
恐れ知らずの突進は、再び片桐を守勢に回らせるかに思えたが――激突の瞬間、妖刀に纏わりついていた血が、一気に信繁に襲いかかった。
空気に触れた血飛沫は瞬時に固形化し、無数の刃となる。とてもよけきれるものではない。服の各所が斬り裂かれ、特に防具に覆われていない顔面には傷が集中した。武蔵坊から受けた火傷にも傷が入り、信繁は苦悶の表情を浮かべた。
「どうだ。染みるだろう……? うぃっ」片桐は妖刀の力に酔いしれていた。「オレと刀を交えるたびに、お前は血に混じった雑菌と邪気で侵されていく。頭もだんだんおかしくなっていく。そしたらお前も侵蝕人の仲間入りだ。さあ、一緒に狂おうじゃねぇか!」
―――片桐め……やはり、侵蝕人になっていたか。それもかなり重度の……
どこからが侵蝕人であるか――その基準は曖昧だ。その者の行いから判断するとしたらなおさらのこと。侵蝕度の低い者が邪道に落ちることがあれば、その逆もあるからだ。
しかし目の前に立つ男は、信繁が今まで見てきたどの侵蝕人よりも邪気が濃く、その顔は狂気に満ちている。誰の目から見ても侵蝕人。それどころか鬼と見紛うほどである。
「かわいそうに。そんなになるまで鴉天狗に生かされたか。これ以上醜態を晒さぬよう、ひと思いに殺してやろう」
信繁が殺気を込めた目で片桐を睨みつけると、妖刀が纏う血の渦が大きくなった。死への恐れが、片桐の妖力を高めたようである。だが信繁の方は、それを見て怯むどころか奮起したようだった。
片桐の視界から、信繁の姿が消える。
「! そこかぁ!」
直後、背後に殺気を感じて片桐が妖刀を横に薙ぐ。
その勘は当たっていた。背後を取った信繁は、必殺の一撃を叩き込むところであった。そこへ、大きな血の渦が襲い掛かる。
だが信繁の勢いは止まらない。血刃の嵐の中を一直線に突き進み、片桐の心臓めがけて、目で追えないほどの鋭い突きを繰り出した。
「がっ!?」
左胸から、口から、ドクドクと血が溢れ出る。信繁の刀は狙い違わず心臓を突いていた。
「死にたくない――そんな臆病な心から得る力で、この私に勝てると思うたか?」血まみれの顔で信繁が言った。「一流の殲鬼隊ならば、死を恐れるよりも先に敵を斃すことを考える。貴様にはそれがない。それが私に捨て身の攻撃を許したのだ。妖の力に酔い、己の力量を見誤ったこと……あの世で後悔するんだな」
本庄が殲鬼隊で傑出した戦果を挙げて来れたのは、この思い切りのよさ――そして、その無謀にも思える攻撃を繰り返しても死なない地力の強さにあった。本能に従うだけの妖怪、あるいはその威を借るだけの者など、敵ではなかった。
それから信繁は、刀を引き抜くと同時に、力任せの蹴りを片桐の腹にぶち込んだ。
飛ばされた片桐は色部屋敷の壁を突き破り、その中で動かなくなった。
「次は貴様の番だ……色部正成!」
色部は狼狽した。片桐が敗れ、屋敷は敵兵に囲まれ、この強大な敵を前になす術がないように思えたのだ。
しかし隣に控える月光の頭領――十六夜は、愉快そうに目を細めていた。
「さすが……と言う他ないな。まさかここまでやるとは。だが、いささか軽率ではないか」
「なに……?」
「敵に、背を向けるとはな」
「!」
まさかと思い、信繁は色部屋敷の方を振り返る。
屋敷を包む炎が、中で蠢く人影を照らし出していた。
「いけねぇいけねぇ。酒が切れちまう」
それは他でもない片桐。起き上がるや否や、赤い瓢箪に入った酒を一口飲む。
心臓を一突きにしたはずなのに生きている。そればかりか胸の出血は止まり、ふらつく様子もない。欠けていたはずの指は再生している。
「どういうことだ……!?」
「ああ? 決まってるだろ?」片桐はケロリと言ってのけた。「てめぇの突きが致命傷じゃなかったってことだ……うぃっ」
心臓を突いて致命傷にならない――そんなことがあり得るだろうか。
思い当たることがあるとすれば、末期の奇兵だ。侵蝕が進み過ぎて管理が難しくなった奇兵は、さらなる侵蝕を施され、次の戦で捨て駒として投入されると信繁は聞いている。不死身とまではいかないが、彼らは致命傷を負ってもしばらくは動き続けるという。今の片桐も、それに近い状態なのだろうか――
「ならば、首を飛ばしたらどうなる!?」
考えるより試す方が手っ取り早い。そう判断した信繁は、片桐が構えないうちに素早く攻撃を仕掛けた。
心技体あらゆる面で信繁は片桐を上回っている。たとえ不死身であろうと、動けなくなるまで斬り刻めば問題ない。この実力差ならばわけないことだ。
だが、首筋めがけて刀を一閃する瞬間、信繁は標的を見失った。
「なにっ!?」
微かに目に映った残像は、背後に回ったかに見えた。それを頼りに振り向くが、その間もなく――右脇腹に激痛が走った。
片桐が、初めて信繁に一太刀浴びせたのである。
すかさず反撃に出る信繁だが、かすりもしないどころか、二太刀、三太刀と斬撃を浴び、生傷が増えていく。力関係が逆転している。力も速さもまるで別人。あれだけ強気だった信繁が死への恐れを感じるほどに、片桐は強くなっていた。
ここにきて、ようやく信繁は片桐の秘密に気付いた。
この能力には見覚えがあったのである。
今から十七年前――宝永十年のこと。
越後の鉄囲山脈周辺に、突如大鬼が出没し、人々を震撼させた。その大鬼は若い娘を次々に攫い、僧侶を殺し、大勢の手下を従えて寺に棲みつくようになった。
酒吞童子――宝永三大妖怪の一つに数えられる大大妖怪である。
時の大名義秋は自ら兵を率いて討伐に向かったが、あえなく返り討ちに遭い、殲鬼隊に救援を要請した。
殲鬼隊の全権を握る近藤隼人はこれを快諾し、一番隊から選りすぐった隊員を引き連れて越後に駆けつけた。宝永山周辺の制圧よりも優先すべき事項とみなしたのである。
近藤はまず酒吞童子の強さを義秋から聞き出した。戦いの最中、酒吞童子はいくつかの大きな傷を負ったが、ものの数秒で回復してしまったこと。また、その度に力を増していたこと。この鬼は一撃で仕留めなければ選りすぐりの殲鬼隊でも危ないだろうと義秋は言った。
そこで近藤は隊員らと協議し、一計を案じた。美酒を献上する代わりに人攫いをやめるようにと交渉を申し入れたのだ。
名前の由来の通り、女より酒が好きだったのだろう。酒吞童子はこれに応じ、酒を献上しに来た五人を寺に招き入れた。近藤隼人、源晴明、片桐且宗、本庄信繁、新発田晴家――彼らが殲鬼の名を背負っているとはつゆ知らず――
彼らの持ち込んだ酒はその場で振る舞われた。まず近藤が、竹勺で盃に酒を盛り、酒吞童子に飲ませる。それから手下の鬼たちが回し飲みにする。異変が起きたのは、三種類目の酒が行き渡った時のことであった。
酒吞童子が盃を取り落とし、全身を小刻みに震わせた。酒に盛られていた痺れ毒が、効果を示したのだった。酒吞童子が怒号を発するのと、その首が胴から離れるのはほぼ同時だった。酒を酌んでいた近藤が、いつの間にか抜刀していたのだ。竹勺に隠していた刀を。
それを合図に、隊員たちは隠し持っていたそれぞれの得物を取り出した。動きを封じられた鬼たちは、なすすべもなく斬り立てられていった。殲鬼隊の完全勝利と皆が思ったその時――
床に転がっていた丸いものが、目にも止まらぬ速さで飛んでいった。
「ぐおあああぁぁぁ!?」
絶叫を発したのは片桐だった。その腹に、酒吞童子の首がかぶりついている。
「且宗!」
駆け付けた晴明が斬りつけると首は離れ、今度は酒樽めがけて飛んで行った。中身は毒酒だというのに。
だが酒樽に辿り着く寸前で、頭は二つに割れた。その視線の先には隊長の近藤。
「おのれ……鬼に、横道無き……ものを……」
それが酒吞童子の最期の言葉だった。痺れをはねのけて動き出していた胴体も、残りの隊員にズタズタに斬り刻まれた。
「酒吞童子の生命力の源は酒……だったか」近藤は義秋からの忠告を反芻した。「盲点だったな」
床に横たわるのは、酒吞童子とその一味の屍。そして激痛に悶える片桐。
これが、片桐が引退する原因となった任務の顛末であった。
妖怪から受けた傷は侵蝕のリスクを格段に高める。片桐の場合、大大妖怪に一生ものの傷を負わされたのだ。十七年の歳月を経て、それが片桐の肉体にどんな変化をもたらしたか――異常なまでの酒浸り。心臓を突かれても死なない生命力。傷を負う毎に高まる身体能力。それはもう、酒吞童子そのものである。
―――ククク……本当に厄介な男だ……
信繁を圧倒する片桐を見て十六夜はほほ笑むが、内心歯痒くもあった。
本来なら、片桐は月光が間引いておかなければならない存在なのだ。彼の侵蝕度は許容範囲を軽く超えている。だが、殺せないものは殺せない。少なくとも暗殺という方法では彼を殺しきれなかった。仕方なく、酒さえ切らさなければ人に害はないということで、今日まで生かしておいたのである。
剣撃の響きが収まった。ついていけなくなった信繁が、大きく距離を取ったのだ。しかしまだ退く様子はない。もう、どうあがいても勝てないというのに。追い詰められるあまり、冷静な判断が出来なくなってしまったらしい。
「ああ……久しぶりだ。こんなに暴れたのは……うぃっ」片桐はさらに追い討ちをかける。「楽しませてくれた礼だ。とっておきを見せてやるぜ」
そう言って、ほどよく血を吸った妖刀――血舞酔の切っ先を天に向けた。
妖刀の力は使い手の心の状態に左右される。常人なら致命傷となる傷を受けて刺激された生存本能。肉体が活性化されたことから来る高揚感。これらは片桐の妖力を極限まで高め、妖刀に力を与える。
『血舞酔・磁極血界!』
信繁には、妖刀がドクンと脈打ったように見えた。同時に、妖刀にまとわりついていた血の渦が雲散霧消する。
そして片桐を中心に、幾重にも曲線を重ね合わせたような、複雑な紋様が浮かび上がる。
―――今度はなにをする気だ? ……っ!?
警戒する信繁は突如、なにか大きな力に吸い寄せられた。
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