栃波山での一戦から二日。あれ以降、朝廷軍に動きは見られない。
信濃騎兵に恐れをなしたのも一つの理由かもしれないが、決定的となったのは昨日の早朝から降り出した雨だった。雨はこの日の正午まで降り続け、地面のぬかるみは日が沈んでからも消えることはなかった。これでは山越えどころではない。
幕府軍もわざわざ仕掛けるようなことはせず、後方の奇兵陣地にはのんびりした空気すら漂っている。
「あんまりゴロゴロするなよ。布団がズレるだろ」
「ごめんよ……てか、まだ起きてたの?」
「起こされたんだよ!」
二日ぶりの月明かりが差し込むこの天幕の中は、夜半過ぎになっても賑やかだ。
ここ数日ほど寝不足気味の伊織と、その原因となっている影狼の寝床である。妖術を使えるようになったという興奮が冷めやらないのか、一昨日の影狼は特に酷かった。
「そういうお前は、まだ全然眠くなさそうだな。邪血じゃないくせして、割と夜行性なんだな」
「まあね。でも……あいつほどじゃないよ」
そう言った影狼の視線を辿ると、天幕の隙間から侵入してくる怪しい煙が目に入った。
もう一人、妖派きっての曲者がやって来たようだ。
「はぁ……もう勘弁してくれよ」伊織は昏倒しそうになる。「また梅崎さんの所を抜け出してきたのか? 來」
呼びかけに応じて放電した煙は、一ヶ所に集まって外套の少女――來の姿に変わった。
「梅ちゃんは風邪でお休みだよ。だからアタシは自由なの」
嬉しそうに來は言ったが、伊織としてはたまったものではない。天気が良くなれば明日にでも戦が始まるかもしれないのだ。寝不足が原因で戦死したら笑い事じゃ済まされない。影狼だけでも手を焼いているというのに……
「自由なわけないだろ。馬鹿なこと言ってないで自分の所戻れ!」
伊織は力ずくで追い出そうとする。
だがどう頑張っても、來はすり抜けるばかりで手に負えない。
運命の悪戯も大概にして欲しいものだと、伊織は思った。よりにもよって、來に雲化の術を授けてしまうとは。
「影狼、お前も手伝え!」
「御意!」
武士っぽい返事をして、影狼が布団から飛び起きた。
來には散々痛い目に遭わされてきたのだから、影狼としてもこれは仕返しのチャンスだ。妖刀雷霆を手に取って加勢する。
「無駄だよ~」
二人を相手取っても來は余裕そうだった。気体に姿を変えて、影狼の前を悠々と通り抜ける。
ところが、鬼ごっこは意外にあっさり終了した。
影狼が雷霆でビリッと電気を流すと、どういうことか煙はたちまち人の形に戻り――
「ぎゃあ!」
來が奇声を上げてその場に倒れ込んだ。
邪気が抑えられているとはいえ、過去三回分の仕返しは強烈だった。それにしても、自ら放電もする來が電撃を喰らったのは意外な事だ。
「へへ……弱点見っけ!」
「なるほど、そういうことか」
伊織は先程の事を思い浮かべて得心した。
來は気体から人の姿に戻る時、必ず放電している。電気が流れる事はすなわち元に戻る合図らしい。それが影狼の妖術によって強制的に引き起こされ、元に戻ってしまった來は雷の直撃を受けたというわけだ。
「さあ、これに懲りたら今日はおとなしく帰るんだ」
「懲りてないもん……」
「いい加減にしろ。オレたちは遊びに来たんじゃないだぞ」伊織が、今度は厳しめに言った。「それから、お前は術を使い過ぎだ。そんな調子じゃ、あと一年も持たないぞ」
「………」
「影狼も、本当に必要な時以外、妖刀は使うな。使っていくうちに邪気が移っていくからな。まあ、今のは頼んだオレが悪かったけど」
他人事ではない話をされて、二人の問題児はしょげ込んでしまった。
久しぶりに侵蝕を意識した影狼には、特に思うところがある。
「妖派だと、侵蝕が限界迎えた人はどうなるの?」
「それは……」
伊織は少し迷った素振りを見せたが、結局その場では語らなかった。
いつの間にか、伊織の意識は山の上に向けられていた。影狼たちも同じく。
「あれは、なに?」
「松明……信濃の兵か? それともまさか……」
山の上でうごめくのは無数の光。よく観察すると、峠道に沿ってこちらへ向かっているようにも見える。
* * *
信濃幕府軍の陣地でも、同じような騒ぎが起きていた。
山の上に突如現れた無数の光。それは松明を灯して行軍する朝廷軍であった。
「あれは伽羅倶利峠の方角だ。いつの間にあんな所まで」
「今すぐ追わなければ、向こうの平地に出てしまうぞ!」
予想だにしなかった朝廷軍の動きに、歴戦の猛者たちも慌てふためく。
その様子に眉をしかめながら、兼定は朝廷軍の思惑を探っていた。
―――敵方にもやり手がいるな……
まだぬかるんでいて行軍の難しい山道。朝廷軍は幕府軍の虚を突いて、あえてその道を進んでいる。さらには、道を上りつめてから一斉に松明を灯すことで、幕府軍の動揺を誘うという手の込みよう――
「兼定様、今すぐ私にご命令を! 奴らが山を下る前に敵を撃滅してみせます!」
そう意気込んだのは竹中喜兵衛。一番槍をほとんど総なめにしただけあって、この状況でも威勢の良さは変わらない。
しかし、兼定は安易な出陣を許可しなかった。
「あれは陽動だ。うかつに峠へ行けば敵の奇襲に遭うぞ」
「陽動……?」
「不自然だと思わないか? せっかく我が軍の目を盗んで山を登ったのに、どうしてあそこで火を灯すのだ。私には誘っているようにしか思えん」
「た、確かに……」
疑わしい点は他にもあった。幕府の主力を後背に残して進軍すれば、朝廷軍は敵中で孤立してしまう。彼らが本気で山越えするとは考えにくい。進みたければ勝手に進め――ということになる。
兼定の考える朝廷軍の狙いは、山越えではなく兼定の軍を撃ち破る事だった。
「しかし敵が平地に出てしまえば、今までの我々の優位は失われてしまいます。それはそれで厄介なのでは?」
「そうだな。だがいずれにしろ、動くのは対抗策を練ってからだ」
もどかしそうに山の上を見つめる喜兵衛。だが兼定は不敵に笑って一言付け加えた。
「心配するな。朝廷軍はあれ以上進めない。山に奇兵をひそませておいた事、よもや忘れたわけではあるまい」
「!」
ここへきて、戦が始まってからずっと忘れられていた軍団の名が登場した。
敵方の総大将――柴田海八を警戒していた兼定は、万一に備えて奇兵を召集している。しかしこれは極秘の事で、幕府軍の武将たちの中でも知る者は少ない。
予期せぬものには予期せぬものを当たらせる――今夜の朝廷軍の動き同様、奇兵の参戦も意表をつくものであった。
「柘榴に伝えるのだ。峠の敵に奇襲をかけろと」
* * *
朝廷軍は軍勢の大部分を山上に集結させていた。
兼定の読み通りこの部隊は陽動で、一万にもなるかという松明を掲げてゆったりと山道を進んでいた。
本来、陽動というのは敵の攪乱を目的とするものであって、大兵力を割くことは好ましくない。だが今回の場合、幕府軍に山越えを信じさせるためにもそれなりに兵力を割く必要があった。また、同士討ちの懸念される夜戦であるから、狭い道にひしめく大軍よりは統制のとれた小部隊の方が戦力になるとみなされたようだ。ここにいない兵は、山道のどこかで幕府軍を待ち伏せている事だろう。
隊の中央では総大将の柴田海八と、副将にあたる高遠頼卿が言葉を交わしている。
「高遠君。もし、敵とばったり出くわすようなことがあったら、私の部下たちをお願いしてもいいかしら?」
「は、はぁ……それは、この一万の兵を全て私が指揮しろということでしょうか?」
「そう。私にとって、戦はこれが初めてだからね。お願いできる?」
「分かりました……海八様の頼みとあらば、お受けしましょう」
海八の口ぶりはなよなよしていて、どこか他人任せな響きがある。
―――本当にこの方が、皇国を作り上げた英傑なのだろうか……
浮かび上がる疑念を、高遠はなんとか振り払った。
海八様はあえて自分を小さく見せているのだ。口出しはあまりしないでなるべく部下に経験を積ませる。なかなか気の利く御方ではないか。今夜の計画は、他人任せな彼に代わって私が練ったものだから、上手く行けば出世に直結するかもしれない。
一つ咳払いをして、高遠は言った。
「しかし海八様。心配は無用でございます。兼定の陣地からここへ通じる道には、小笠原を待機させております。奴らが我らを追って来ようものなら、夜も明けぬうちに壊滅するでしょう」
「あら、そう」海八はどこか遠い所を見て聞き流す。「でもなんだか、とてつもない殺気を感じるね。怖いわぁ……」
「ははは……海八様は案外、心配性ですなぁ。一応山道ですから、せいぜい熊に襲われないよう用心するとしましょう」
高遠は元気なく笑った。憧れでもあった海八への幻滅を、隠しきれなくなったようだ。
敵が現れたでもなく怪しい音がしたわけでもない。なのに、この御方はなにをビクビクしているのだ。殺気とは言うが、この暗闇に怖気づいただけではなかろうか。そう思ってしまうのも、仕方のない事だった。
だが殺気は決して、海八の弱い心の産物ではなかった。
峠の下から朝廷軍めがけて、束になった殺気が嵐のように吹きつけている。
甲斐奇兵――山の東中腹に潜伏していた異能軍団が、ついに動き出したのである。
この者たちにとって、妖力の強まる夜は最高の舞台。兼定の伝令が届くより前に、彼らは戦の匂いを嗅ぎつけてやって来た。
宝永二十七年十月末。
五百年の時を隔てて、伽羅倶利の地に再び血なまぐさい夜が訪れた。
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