甲斐国南部の町――安岐。
戦国時代の有力大名が拠点を置いたこともあるこの地は、今や奇兵の本拠地である。崖と川に挟まれた丘陵には奇兵の大半が結集する髑髏ヶ崎館があり、崖の下には湖に面して妖研究施設が置かれていた。敷地は木柵と段差で区切られ、城郭さながらだった。
館の最上部、本館と呼ばれる屋敷の一室で、柘榴が二人の配下となにやら話をしている。
「人為侵蝕を皇国が真似るのは不可能です。人為侵蝕には素となる妖怪が必要になりますが、宝永山周辺地域はすべて幕府が押さえています。幕府の目を盗んで妖怪を運び出すことなどあり得ません」
本を片手にそう話すのは、信濃の戦を風邪でお休みした梅崎勝正である。
柘榴は戦から帰還すると、すぐさま謎の男――柴田海八に繋がる情報を調べさせた。彼がどのようにして妖術を身につけたのか。もし妖派の研究資料が皇国に流出していたとしたら大問題である。しかし一週間近く経っても、それらしい情報は出てこない。
「海八自身が妖怪と考える他ないか」挙句に辿り着いた結論が、それだった。「人の姿をした妖怪ならオレは一度会ったことがある。最近でも、大滝村の武蔵坊の例があるしな」
妖研究の最先端を行く妖派でも、未だ解明できていないことは多い。これ以上の調査は困難だった。
「ところで、最近の影狼はどうだ?」
前でひざまずく伊織に、柘榴が問うた。伊織は海八と直接刃を交えたということでここへ呼ばれているが、普段は影狼のお目付け役でもある。
「それが、相変わらずで……初めて戦というものを目にして、動揺しているのかもしれません。時々、妖派でやっていけるか不安だとも言ってきます」
「そうか……困ったものだな」柘榴は背もたれに寄りかかって、顎をなでた。「鴉天狗のその後のことは、もう少し黙っておいた方がいいか。今の状態で話せば、あいつはなにをするか分からない」
伊織の顔が陰ったのを見て、口元を緩める。
「そう気負うな。誰よりも熱意のあるお前にだからこそ頼めたことだ」
「……はい」
「ともかく、オレが留守の間はすべて梅崎に任せる。手抜かりのないようにな」
やがて柘榴が部屋を後にすると、物言いたげな様子でたたずんでいた梅崎が、やっとのことで口を開いた。
「御屋形様は甘過ぎる。影狼は身内をやられて黙っているような奴ではない。ああいう奴は力で屈服させなければ」
影狼を安岐まで護送したことがある梅崎は、伊織、來に次いで影狼の性格を知っている。一泡吹かされたということもあって、良い印象は抱いていないようだ。
私怨に燃える梅崎と、使命感に燃える伊織。
この二人の組み合わせが、影狼に新たな試練をもたらすこととなった。
* * *
鴉天狗が越後に入ったという情報は、一週間後になって影狼の耳に届いた。
影狼がしきりに知りたがるので、不信感を抱かれる前に話すことになったのである。
伊織から話を聞いている間、影狼は寝台に腰かけたままずっと足元を見つめていた。そしてその口から出てきた言葉は、予期されていた通りのものだった。
「オレ、ここから出て行きたい」
妖派側の伊織にそれを言ったのは、信頼あってこそのものだろう。しかし妖派への忠誠が伴わなければ意味がない。伊織の表情が険しくなったのは言わずもがなである。
「なぜだ? 今さら鴉天狗に戻るわけじゃないだろ?」
「戻らないよ。でも、もともとオレは鴉天狗のみんなを助けてもらうために妖派になったから、妖派がそれをできなかった時点でオレがここに留まる道理はないよ」少しためらってから、影狼は続けた。「それに、このまま妖派に居続けたら……自分が自分じゃなくなっていくような気がするんだ」
はっきりとこう思うようになったのは、伽羅倶利の合戦でのことである。奇兵は平然と、それどころか一部の者は嬉々として皇国の兵を殺戮してのけた。だからと言って奇兵の者たちを嫌いになるわけではなく、殺るか殺られるかの世界であることも十分承知している。
けれど、影狼自身がここに身を置いてはいけない。侵蝕人――大きく言えば人を救うことを志す者が、人の死をなんとも思わないようになってしまえばそこでお終いなのだ。
鴉天狗の惨状を見てきた影狼はそのことを敏感に感じ取っていた。
「鴉天狗の一人として、いつか邪血の力になりたいと、お前は言っていたな」怒りを押し殺したような、低い声で伊織は言った。「お前が本当に邪血のためを思うなら、侵蝕の研究をする妖派に残るべきじゃないのか? それ以外に、なにがあると言うんだ?」
この辺りは影狼自身、相当悩んだのだろう。その顔が苦渋に染まる。
「お前は結局、現実から目を背けようとしているだけだ。あの言葉を聞いて少しは骨のある奴だと思ったが、根はとんだ臆病者だったな」
なにも言い返せなかった。なんだかんだと理想を掲げても、今の影狼にはそれを体現するだけの力はない。これも伽羅倶利の戦で痛感したことである。
おもむろに、伊織が立ち上がって出口へ向かった。
「来い」
「?」
不穏な空気を感じながらも、影狼は伊織の後に従うことにした。
伊織が向かった先は本館だった。
普段、本館は一般奇兵の立ち入りが禁じられているから、影狼がここに来るのは妖派への帰順を宣言して以来である。地下は牢獄となっていて、比較的侵蝕度の高い者たちが収容されているはずだ。最初にここへ来た時、影狼もそこに押し込められていた。
「ねぇ、どこ行くの?」
「黙って付いて来い」
伊織はなにも教えてくれない。
あきらかに様子がおかしかった。もしかしてまた牢獄にぶち込まれるんじゃないかと影狼は思ったが、伊織は地下には向かわず、小さな部屋の前で立ち止まった。
「ここが……どうしたの?」
「入れ」
「え?」
戸惑いを見せる影狼を、伊織は問答無用で部屋に押し込んだ。扉が閉まる音に、ガチャリと鍵の掛かる音が続く。
扉の向こうから、伊織は冷たく宣告した。
「梅崎様の命令だ。お前にはしばらく、この部屋で過ごしてもらう。許可なく外出することは許さない」
「なんでだよ!? どうして急に?」
信じられないという様子の影狼に、伊織はきつい声で言った。
「この頃のお前の言動は、到底容認できるものではない。これぐらいは当然の罰だ」
「そんな……伊織は今まで黙っててくれたのに」
「なにを勘違いしている? オレはお前のことを上に逐一報告している。今までなにもなかったのは、御屋形様が許していたからだ。お前はそれに甘え過ぎた」
「!」
うかつだった。
不満たらたらでも問題にならなかったのは、上の方針がたまたま緩かっただけで、伊織はあくまでもその忠実な手下だったのだ。
離れていく伊織の足音を聞きながら、影狼がつぶやく。
「伊織だけは味方だって、信じてたのに……」
足を止めて、伊織は静かに言った。
「ここを出るまでにちゃんと反省しておけ。絶対に抗うな。そうしてくれないと、オレもお前の味方じゃいられなくなる」
伊織が去ると、影狼はそのまま床にへたり込んだ。
これが梅崎のやり方。おそらく梅崎は、影狼が愚痴をこぼさなくなるまでこれを続けるつもりだろう。
部屋の内部はなにもなかった。以前は物置として使われていたらしく、内側から鍵は開かないようになっている。檻ではないこと、縛られていないこと以外は、地下牢に放り込まれた時とほとんど同じ状況だった。
そんなことを考えていると、やはりというべきか、扉の隙間からおなじみの煙が侵入してきた。煙は影狼の横に集まって放電を始める。
「あんたもバカだねぇ。伊織に向かって、妖派を抜けたいだなんて」
姿を現した來は開口一番、心ない言葉を贈った。
「あの人は古参で、しかも真面目だから、妖派の不利益になるようなことは絶対にしないよ。たとえちょっとばかし仲のいい人の頼みでもね」
「言われなくっても分かるよ」影狼は両腕で抱えた膝に、顔をうずめる。「でも、ああするしかなかったんだよ。最近は気まずい感じだったけど、他に頼れる人もいないし……」
それから影狼は嘆息して、來に向き直った。
「お前は良いよなぁ……自由で」
「アタシが自由?」
「うん。だってほら、オレらこの屋敷に無断で入っちゃダメなんでしょ? でも來は、この前オレが牢屋にぶち込まれた時も、今だって、自由に出入りしてるじゃん」
「まあね。アタシには――」
嫌な予感がして、影狼は來から離れた。
少し遅れて、影狼の座っていたところを電撃が襲う。
「この雲化の術があるから、いちいち処罰するのは面倒なんじゃないかな。それに、いざとなれば勝正がかばってくれるし」
何食わぬ顔でそう話す來を、影狼は物言いたげに見つめる。
「うらやましい?」
「うらやましい限りだよ」
「じゃあ、影狼も邪血になってみる?」
「それは嫌だね」影狼はきっぱりと言う。「侵蝕が進んで、自分が自分じゃなくなっていくのは嫌だよ。それなりに長生きだってしたいし」
「ふ〜ん」
「ごめん、やっぱり全然うらやましくないや」影狼は力なく笑った。「あの時お前に勝ってれば、こんな話にはならなかったかもな」
冗談で言ったつもりだったが、それを聞いた來は黙り込んでしまった。
影狼の不思議そうな視線を受けて、來はようやく口を開く。
「アタシが、あんたの自由を奪っちゃったからね」
「え……? いや、今のは冗談だって。全然気にしてないから」影狼は手をブンブン振った。「前にも言ったじゃん。來は奇兵なんだし、ああするしかなかったんだろ?」
「……気ぃ使ってんの?」
真顔で言われて、影狼はドキッとした。
「本当は怒ってるんでしょ?」
「………」
「だからアタシには言わなかったんでしょ? ここを出たいって」
來の言う通りかもしれない。脱走を考えた時は、自分をこの地に引っ張り込んだ來が手伝ってくれるわけないと思っていた。本当は全然気にしていたんだ。
そういえば、來はやたらとちょっかい出してくるヤツだった。
今までその意味を深く考えたことはなかったけど、もしかしたら、彼女なりの歩み寄りだったのかもしれない。
「來……あれ?」
いつの間にか、來の姿は見えなくなっていた。
おろおろと周囲を見回していると、扉の方からガチャリと音がした。
見ると、半開きになった扉の向こうに、手招きする來の姿がある。
「! お前、どうして……?」
「さあね、魔が差したんじゃないかな」來はいたずらっぽい笑みを浮かべていた。「さ、これでおあいこだよ。脱走するならアタシが手伝ってあげる」
影狼たちが脱走を始めた頃――
「來! 來はどこにいる!?」
不在の柘榴に代わってこの地を仕切る梅崎は、大声を出しながら本館を歩き回っていた。
問題行動の多い來を、梅崎はいつも目が届く所に置くようにしている。來が本館に無断で入れるのにはそんな背景もあるわけだが、本人にとってはほとんど関係のないことらしい。梅崎が少しでも目を離せばこの通り、どこかへ消えてしまうのだ。
「まったく困った奴だ。勝手に出歩くなとあれほど言ったのに……」
ふと、一つの予感が脳裏をかすめた。
影狼を物置部屋に入れたという報告を、先ほど伊織から聞いたばかりだ。來もそれを聞いていたとしたら――
「おい!」廊下を通りかかった部下に声を掛ける。「急いで砦の警戒を強化しろ。元鴉天狗の影狼が逃げ出した可能性がある」
手短に指示を出すと、梅崎は急いで物置部屋へ向かった。
「やはり……!」
思った通りだった。部屋の鍵が開いている。既に脱走済みのようだ。
念のため中を調べようと、取っ手に手をかける。とその時、梅崎は背後に人の気配を感じた。
振り返ると、そこに居たのは二つの妖刀を抱えた來。
なにをしでかしているかは、一目瞭然だった。
「來! お前という奴は!」
「やばっ……!」
來は青ざめて背を向ける。
だが、走り去る必要はなかった。梅崎が取っ手から手を放した次の瞬間に、物置部屋の扉が勢いよく開き――
「ンゴッ!」
梅崎を直撃したのである。
したたかに頭を打たれた梅崎は、気を失ってその場に倒れ込んだ。
「おお、お見事!」
「狙ってやったわけじゃないけど……うわ!」
部屋から出てきた影狼は、倒れ伏した梅崎を見てビクッとする。
來が必要なものを取りに行っている間、影狼は怪しまれないように物置部屋に隠れていた。うっかり鍵を開けっ放しにしていたのが幸運だった。
「おっ、海猫ありがと。部屋に伊織はいなかったの?」
「いなかったよ。昼飯でも食べに行ったんじゃない?」
來は二本の妖刀とその他もろもろの手荷物をすべて影狼に持たせた。
「大将なし、目撃者なし……完璧だ! これなら余裕で砦を抜けられる」
鴉天狗の事件以来、影狼は周りの大人たちの都合に振り回されてばかりだった。しかし今、ようやく自分の力で未来をつかみ取る時がやって来た。
危険な賭けには違いないが、影狼は最高の充実感を得ていた。
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