第32話:憂える夜明け

 戦が明け方まで続いたこともあり、負傷者の救出だけを済ませると、兵の多くは陣地へ帰された。一度睡眠をとってから残った仕事を片付けようということである。
 しかし奇兵陣地には、そんな配慮は歯牙にもかけずにはしゃぎ回る者が多い。最後の最後でやってきた出番で大戦果を上げて、気分が高揚していたのである。
 お祭りのような喧騒の中を、伊織はひっそりと横切った。
「あっ、伊織だ」群衆に紛れていた來が声を掛ける。「大将首挙げたんだってね。すごいじゃん!」
「ああ……どうも」
「? なんか元気ないね」
「ちょっと疲れてるだけだ」
 わずらわしそうに言って、伊織はその場を後にした。
 敵将高遠を討ち取り、伊織も最高級の栄誉を手にしているが、他の連中に混じってはしゃぐ気にはなれなかった。
 不機嫌の原因は、やっぱりあの相方だ。
 天幕に戻ると、先に帰還していた影狼が布団の上でぐったりとしていた。
 伊織に気付いて顔を向けるが、すぐにゴロリと向きを変えてしまう。
「どうしたんだよ?」伊織はあきれたように言った。「せっかくのめでたい日なのに、お前がそんなんじゃ、こっちまで気分が悪くなるだろ」
「………」
 影狼がなにを気に病んでいるのか、心当たりはある。
 侵蝕の限界を迎えた者たちによる特攻が行われた時、影狼は明らかに動揺していた。
「あの突撃してった人たちのことなら、別に惜しむことはないだろ。もう侵蝕が限界まで来てたから、生きて帰ってもどうせ長く持たない」
「分かってる」影狼は布団をギュッと握りしめた。「でも、あんな死に方……」
 捨て身の突撃と、その後に続いた一方的な殺戮。奇兵の戦い方は、まともな感覚の持ち主ならば想像しただけでもゾッとするほど凄絶なものだった。
 天幕の外から笑い声が聞こえて、伊織は少し気味が悪くなった。
 あの凄惨な戦場から帰ったばかりとは思えないような、陽気な笑い声。
 いつもは全く気にならない――むしろ心地良いものだった。もう少し陽気な性格だったら、その輪に混じっていたかもしれない。でなければ、とても奇兵として戦場に立ち続けることなどできないのだ。
「もういい。オレは寝るぜ」
 気分が悪い時は寝るに限る。これ以上考えたら頭がおかしくなりそうだ。
「お前もちゃんと寝とけよ。ここ数日はいろいろあったからな。身も心も休めとけ」
 慢性的な寝不足と今日の戦で、よっぽど疲れていたのだろう。伊織が眠りに落ちるまでに三秒と掛からなかった。
 いつの間にか外は明るみを増していて、天幕の入口からは朝陽が流れ込んでいる。
 陰気に沈む天幕の中、影狼は一人、物思いにふけった。
 入ってからまだ十日足らずだが、妖派は新しい世界を見せてくれた。
 妖怪と同一視され虐げられてきた侵蝕人が、妖派では救国の英雄として誇り高く生きることができる。認めたくはなかったが、鴉天狗の侵蝕人より生き生きとしているのは確かだ。
 だが実際に戦を見て気付いたのは、その代償として多くの命が失われているということ。
 朝廷軍と幕府軍。どちらが正義なのか影狼には分からない。けれど夜明け前まで行われていたのは、善も悪もない、ただの殺し合いだった。
 ―――伊織は本当に、戦に生きることを望んでいるのだろうか……?
 伊織との間に、決して小さくはない隔たりができたような気がした。

     *  *  *

 未だ陽光の恵みを受けない谷底には、おどろおどろしい光景が広がっている。
 無数の屍に埋め尽くされた赤い川。首が奇怪にねじ曲がった変死体。所々、中途半端に生えた草が、血と雨に濡れてなんとも表現しがたい匂いを放っていた。
 川の名は雲丹川うにがわと言って、死体から出た血とうみが流れ込んだことより転じて、そう呼ばれるようになったという。今回も多くの戦死者がここへ転がり込んだが、平安の時ほどには川が穢れずに済みそうだった。幕府軍が手際良く遺体の回収を進めていたからである。
 ただし、これは人道的な理由からではなかった。
 遺体回収を監督する柘榴は、やや不快げな様子で口を開いた。
「本当に奴は、ここに落ちたのか?」
「は……はい。総大将柴田海八が突き落とされたのを、確かに私は見ました」
 そう答えたのは、遺体識別のために立ち会わされていた朝廷軍の捕虜である。
 幕府軍は柴田海八の遺体を探していた。この男を討ち取れば、皇国に大きな打撃を与えられる。敵を包囲殲滅した今回、それは約束されたようなものだった。
 しかし下流から上流までくまなく調べても、目当てのものは見つからない。
 奥にもまだ少し転がっていそうだが、捕虜の証言した場所からはあまりにも離れている。
「こっから先はオレが確認する。お前たちは下流の方をもう一度調べてくれ」
「はっ!」
 言われるまま、部下たちは面倒くさそうに谷を下っていった。捕虜もやや乱暴に手を引かれながら下流へと消えていく。どうせ見つからないという予感が、彼らの内にあったのである。柘榴自身もまったく期待していない。それでもこう命じたのには訳があった。
 一人になった柘榴は、奥へ進むでもなく、なにか気配を探るように辺りを見回し始めた。そして宙の一点で視線を止めると、急にそれへ向かって呼びかけた。
「なんのつもりだ? 用があるならとっとと出て来いよ」
 しばしの静寂。
 だが柘榴が辛抱強く睨み続けると、それは観念したかのように姿を現した。
「あら……やっぱり気付いてたのね」
 虚空に浮かび上がったのは青白い顔。幽霊のように透けていて、輪郭もぼやけている。
「私は柴田海八。あなたに一度会ってみたいと思って――!」
 突然、海八と名乗った男は完全に姿を現し、襲いかかる斬撃を杖で受け止めた。話が終わらないうちに、いつの間に剣を手に取っていた柘榴が斬りつけてきたのである。
 柘榴が握っていたのは、剣と言うよりは邪気を凝縮させたような、紫色の結晶だった。切っ先は先程までの海八のようにぼやけている。
「まさか、皇国にも妖術使いが居たとはな。敗軍の将がオレになんの用だ?」
「なにも。ただ挨拶しに来ただけよ」
「……挨拶だと?」
「そう。あなたも、私とお話ししたくて人払いしたんでしょう? いきなり斬りかかるなんて、とんだご挨拶だけども」
 命を狙われていながら、お気楽なものである。
 余程の阿呆なのか、それとも殺されないだけの自信があるのか――
「勘違いするな。オレが人払いしたのは余計な死人を出さないようにするためだ。皇国の、しかも胡散臭い格好した奴と話す気はないな」
「変な格好なのはお互い様でしょ? ふふ……」
 言われてみれば、柘榴も赤を基調としたギンギラギンの服を着ている。西洋かぶれの海八と大差ないように見えた。
 柘榴はうざったそうにしていたが、やがて手を緩め、紫色の刃は雲散霧消した。
「見せてもらったよ。噂に聞く奇兵をね」海八が言った。「あなたがあれを作ったんでしょう? 侵蝕をあんな風に昇華させるなんて、すごいじゃない。おかげで私が大事に育てた兵が台無し」
「ふん……見殺しにしたくせに、よく言う」柘榴の反応は冷たい。「序盤でオレの奇兵を掻き回したのはお前の仕業だろ? その後傍観していたのはなぜだ? それだけの力があれば、一人で戦局を変えることだってできたはずだ」
 とらえどころのない、不気味な笑みを浮かべたまま、海八は答える。
「あら、勘違いしないでちょうだい。私は最初から傍観者のつもりだったのよ。人様の争いに首を突っ込むのは差し出がましいじゃない。ただちょっとね、まさか奇兵が出てくるとは思わなかったから、つい興奮しちゃって……」
 柘榴は強烈な違和感を覚えた。
 皇国建国において最も功績をあげた人物――それが柴田海八だったはずだ。だが今話している相手からは、一国の大事を担うだけの気概は感じられない。ただ単に、この動乱を楽しんでいる。それも他人事のように。
「戦の勝敗など、どうでもいいというような口ぶりだな。皇国が滅ぶまでそうしているつもりか?」
「うふふ……そうね。私はただ、面白そうな火種があったから火を付けてみただけで、志とかそういう大層なものはないの。皇国が勝とうが幕府が勝とうが知ったことじゃない――楽しめればね」
 あまりにも常軌を逸している。これには柘榴も、汚物を見るような目をするしかない。
「そんな顔しないでちょうだい。人間だってそんなものでしょう? おっかない、おっかないと口では言っておきながら、心のどこかでこの動乱の時代を楽しんでいる。戦国時代なんかは、庶民が弁当を持ち寄って合戦を見物していたそうじゃない」
「皇国の大黒柱ともあろう者が、低俗な庶民と同程度でどうする」
「あなたは違うの?」なよなよした口調で海八が言い寄る。「殲鬼隊の隊長だった父は、散々こき使われたあげくに侵蝕人として殺され、一家は鬼の一族呼ばわりされてひどい目に遭ったそうじゃない。そんなあなたが、幕府のためだけに戦えるはずがない」
 こんな奴と一緒にされてはたまらない。
 それまでずっと冷たかった柘榴の目に、熱がこもった。
「知った風な口を利くな。オレは別に幕府の事を怨んじゃいない。オレが戦うのは侵蝕人のためであって、それが幕府のためになってもいいと思っている。興味本位で戦うお前と一緒にするな」
「ふふふ……どうかしら」
 まだなにか言おうとする海八を、柘榴はガンを飛ばして黙らせた。
「そうね。やっぱり歓迎されていないようだから、また日を改めて会うことにしましょう」
 海八は残念そうに背を向け、すうっと薄くなっていく。
「最後に一つ忠告しておくね。幕府の為に戦うのもいいけど、ほどほどにしないとお父さんの二の舞いになっちゃうよ」
 声は急速にしぼみ、虚空の中に溶け込んでいった。
 それからしばらくの間、柘榴は赤みがかった雲丹川の流れを忌々しげに眺めていた。

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