第5話:豹変

「どこ行くんだよ!? せっかく晩飯作ってやったのに」
 影狼の声が家中に響き渡った。その声の先では、帰って来たばかりの幸成が何やら支度をしている。
「悪いな影狼。急用だ。うちが幕府を潰そうとしてるって噂があるのは知ってるな? 月光がその出所を突き止めたらしい。今からそこに行く」
 幸成が夜に出掛けることは、別段珍しい事ではない。半月ほどいなくなることだってある。影狼が引き止めようとしたのは久しぶりの事だった。
 そそくさと表口に向かう兄貴分を、影狼は不満そうに見送っていたが、ふとあるものが目に留まった。
「それも持ってくの?」
 駆け寄った影狼が、幸成の腰に差さった刀を指さす。
 妖刀海猫。
「いちおう護身用に」幸成は腰をポンとたたいた。「あと、お前にいじくられると困るからな。この前なんか、勝手に使ってたし」
「あれは仕方ないじゃん……」
 山梔子との一戦の事である。どさくさに紛れて、影狼は海猫で太刀打ちしていた。
 ただし、幸成はそのことを追及するつもりで言ったのではない。ようやく落ち着いてきた頃なのだ。あの夜の事はあまり思い出させたくなかった。
 幸成はやれやれといった風にため息をつき――
「まあともかく、ちゃんとご飯食べたら寝るんだぞ。夜更かしばっかりしてると、ろくなことないからな」
「は〜い」
「それじゃあな」
 戸が閉まる。
 家に残ったのは影狼一人。
 不安が、再び影狼を襲った。
 鴉天狗に籍を置く身として、邪気の騒ぐ夜に不安を抱くのは当然である。しかし、この時のはいつもと違った。
 義母はもう、永遠に帰ってこない。
 このまま一人で行かせてしまっては、幸成も帰ってこなくなるのではないか。そんな不安が、影狼を突き動かした。

     *  *  *

 目的地までは一時間とかからなかった。
 町外れにあるというところは、鴉天狗と同じである。街道の端に、鵺丸の屋敷に匹敵する建物が一軒だけ建っている。
 門の左右を照らすかがり火が、不気味な紋様を浮かび上がらせていた。
 甲斐国で権勢を振るう妖派あやかしは。その駐屯地の一つ。
 訪問者は鵺丸と幸成だけであるが、迎える側も五、六人しか見られない。
「夜遅くに訪ねて来るとは、鵺丸殿も礼儀をお忘れになったか」
 そう言って現れたのは、立派な鼻毛を生やした男。彼が代表者のようである。
 あいさつ代わりの嫌味に、鵺丸は不快の色を浮かべたに違いない。しかし、今日も鵺丸は深編み笠を被っていて、その表情はうかがえない。
「お主らとの関係ははっきりしている。もう気を使う必要もなかろう」
「なるほど」と、妖派の男。しらじらしい相槌を打つ。「して、ご用件は? お互い口出しはしないという話は、前にしたはずだが」
「確かにそうだ。儂とていまさらとやかく言うつもりはない。そちらが妙な真似をしなければな」
「それは流言の事かな?」
 隠すでもなく、男は言ってのけた。
 その煽るような態度が、緊張を一気に高める。
「……分かっているじゃないか」
 押し殺したような低い声は、独り言のようにも聞こえた。
 風がどっと吹き抜ける。
 にらみ合いだけが少しの間、続いた。
 このやり取りを、影から見守る者があった。
 影狼である。幸成の後をつけてここまでやって来たのだが、予想外の修羅場に出くわし、息苦しさを感じていた。
 妖派といえば、妖の軍事利用を目論む幕府勢力の一派である。活動の都合上、鴉天狗と拠点を同じくするのは必然と言えるだろう。利害、理念の違いから、両者はこれまで幾度となく対立してきた。二年ほど前には、死人こそ出なかったが、決して小さくはない武力衝突もあった。
 今、それが目の前で、再び火花を散らしているのだ。
「これ以上は幕府も黙っていませんよ」
「脅しにもならんな。今は戦争中。幕府は我ら妖派を必要としている。今までだって、一度も相手にしてもらえなかったのだろう? 哀れなことだな……ククク……」
 幸成が顔を歪ませると、男はさらに挑発を続けた。
「口出しは無しと言ったが、手出しはしても良いんだぞ」
 妖派は最初からこれが狙いであった。嫌がらせはその手段に過ぎない。鴉天狗がしびれを切らせば、心置きなく叩き潰せるという寸法である。
「それならば、幕府がお認めになったあなた方のほうがお得意では?」
「……言ってくれるじゃないか。まあ良い」
 実際、先に手を出したのも妖派であったからこの話は鴉天狗に分がある。それでも幕府が動かないのをいいことに、妖派は強気に出た。
「どうしてもやめて欲しいというのなら、侵蝕人をいくらか引き渡してもらおうか。そうだな……たとえば、武蔵坊とか」
「……っ! 何を傲慢な! 私たちは取引しに来たのではない!」
 なぜ武蔵坊のことを――疑問が頭をかすめたが、幸成は口に出さなかった。
 妖派は何かを知っている。武蔵坊の話をするのは避けるべきだ。
「この程度の条件も呑めないのでは、話になりませんな」それ以上は無益と踏んでか、男は話を切り上げる。「さて、こっちも暇じゃないんだ。これで失礼する」
 妖派が屋敷に引き上げていく。
 連中の中には、捨て台詞を吐いていく者もあった。
「帰りましょう。やはり奴ら相手に話し合いなど無意味です」
 小突くような口調で幸成が言った。腹の虫がおさまらないのだろう。
 この時の幸成は相当に焦っていたようである。ぼさっとした風な鵺丸を置いたまま、一人出口へと向かってしまった。
 妖派は本気で鴉天狗を潰しにかかっている。問題のあの流言はあながち嘘ではなく、武蔵坊の存在を知った上で流したものだろう。軍事組織の妖派ならともかく、鴉天狗が妖怪を匿ったとなれば、幕府から危険視されるのは必至。
 ―――早急に対策を練らなければ……!
 ところが幸成の焦燥感は、門を出たところで消え失せてしまった。
 塀の角に、うずくまっている者がいる。
「……影狼!?」
「うげっ!?」
 よそ見していたところを突かれ、影狼が尻餅をついた。
「お前、こんなとこまでついて来たのかよ……」
「だって妖刀まで持ち出すから、物騒じゃん」
 いつもなら叱るところだが、もうその気力もない。
 それどころか不思議な安心感が生まれた。
 だがそれも束の間。
 突如、幸成はピリッとしたものを感じ取った。
 邪気――直感でそう思った。屋敷の方で、山のように膨れ上がっていく。
「影狼……先帰ってろ」
「え?」
 無茶を言っていた。ここから家までは一時間ほどある。普通に考えれば、子供が一度で覚えられる道のりではない。
 だがそんなことを考える余裕は、幸成にはなかった。
 感じ取れてしまうほどの強大な邪気。それが何にしろ、ただ事ではない。
 幸成は再び門を潜った。

     *  *  *

 信じがたい光景が広がっていた。
 さっきまでいた場所に、さっきまでいた人たちが転がっている。
 一面に散らばる鮮血が、幸成の鼻を刺す。
 生者の姿はない。
 だがあと二人、この場には居たはずである。
 胸騒ぎがした。
 誰のしたことなのか、何となく分かってしまったのだ。しかし、そんなはずはない。遠からずこの時が来るのは分かっていた。けれど――
 戦慄するのを抑え、目を凝らす。
 幸成は奥でうごめく影を認めた。
 太い黒刀が、男の胸を貫いている――先程の憎き男を。
「……鵺丸……様?」
 刀の持ち主が黒刀を引き抜くと、男は膝から崩れ落ちた。口を開けたまま、まだ体がピクリピクリと動いている。息はない。
「幸成。もう我慢する必要はない」虚無僧の装いをした剣士が、優しく声をかけた。「戦うべき時が来たのだ! 横暴な妖派とも、それをよしとする幕府とも、今日までだ!」
「なにを……言っているの、ですか?」
 訳が分からない。
 見るもの聞くもの、すべてが信じられなかった。
 鵺丸にとって、小太刀は人である証。人を傷付けず制圧するのが彼の矜持だったはずだ。だがたった今、鵺丸は黒い小太刀で、なんのためらいもなく人を刺し貫いていた。
 戦――そんなことをすれば、どれだけ多くの命が失われるか分からない。いいはずがない。少なくとも幸成の知っている鵺丸は、それをよしとしない男だったはずだ。だがたった今、戦と口走ったのは他でもない鵺丸。
「もとより妖と人は相容れないもの。侵蝕人とて同じこと。侵蝕人を守りたければ、戦う他に道はない」
 妖を守るために人を滅ぼす――そんなふうにも聞こえた。
 幸成は確信する。鵺丸は妖に転じたと。
 一瞬でここまで人格が変化するのは、自然な侵蝕ではありえないことだった。ついさっきまでいつもの鵺丸だったのに……
 だが迷いはない。己がすべきことは――
 鞘走りの音。
 青白い光を放つ小太刀が、抜き放たれた。
「これは母上の仇討ちではありません」幸成の顔には、決意の涙が浮かんでいた。「鴉天狗を守るため……あなたを斬ります!」
 鴉天狗の命運はもう尽きたのかもしれない。鵺丸がしでかした事を、幕府は許さないだろう。それでもやらなければならない。
 自分を慕ってくれる影狼。
 道を正してくれた武蔵坊。
 そして何より、尊敬する師――鵺丸の為にも、戦わなければならない。
 星一つ無い曇り空の下、小太刀を手にした二人が向かい合う。
 屋敷を離れる影狼は、その様子を目の端にとらえていた。

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